トップ写真内の書は、「戦争×文学」カバーに使用した作品、 サイド写真の書は、「戦争×文学」月報に使用した作品です。









7巻カバー

7巻月報
かせつ●書家。1975年京都府生まれ。書家として個展を中心に活動を続けながら、ロゴ、書籍題字などのデザインワークも手がける。著書に『石の遊び』『書の棲処』等。デザインワークに、伊集院静『羊の目』(書)、『石原慎太郎の文学』(書・篆刻)等多数。
http://www.kasetsu.info/

――編集部から伝えられた漢字一文字を、
どのような準備をして書かれるのでしょう。

 最初に、漢字の字源や意味を調べた上でその巻に収録される小説を全部読みます。読んでみて、例えば言葉や歴史についてわからないことがあれば調べます。そして個人的に興味を持った作品や戦争に付随した内容に関連する本を探して読んだり、映画を観たりして、そういう作業をまとめたスクラップをつくっています。あとは基本的に小説を読みながら付箋を貼って、気になる箇所をノートにどんどん書き写していく。戦争がテーマの作品ですけど、自分の普段の生活と照らし合わせてみると、重なるところもある。そこから惹かれたことを含めて書き出していくんです。そして全部読み終わってからその断片を見渡すと、違う小説から引っぱってきたはずの一節でも、自分の中では一貫性があるように連なってくる。それで最後にピックアップした文章の幾つかと、漢字の持っている意味が重なるところを一所懸命探します。例えば書き出した文章の中に、カバーの漢字の意味がそのまま出てきていたりする場合もある。でも実際は、読み終わると感情がものすごく揺さぶられて、人に会えなくなって ……閉じ籠もりたくなったりしています。

――その状態で書かれるんですか。

 揺れたままの状況で、月報用の書を書くんです。そして月報のコラムの文章を全然整理がついていない、スケッチのような状態で書いておきます。それで、カバー用の大きい書を書いたあと、コラムの文章を直します。

――それはどの巻でも同じ順序ですか。

 同じです。同じじゃないと、どの作業も難しくなりそうなので。

――月報の書は、筆だけではなく、木端(こっぱ)やクレヨンや鉛筆を使ってみたりと、筆記具も随分替えているとのことですが。

 小説を読んでいる時に、こういう感触のもので書こうという思いが直感的にあって、読み終えると辺りを見渡して、これだという道具を見つけるんです。それで書いてみて、また書いてみてを繰り返して、ああ、こういう感じかなっていう感覚を探す。この時に何を確かめているのかというと、字の形も探すし、あと、体、特に腕をどういうふうに動かして、力をどれくらい入れて字を書けばいいかということを探しています。それで形を一つ決める。今回の全集では、月報の書で見つけた書き方に寄りそって仕上げたいといった思いがあるので、カバーに使う大きい書を書く時は、書き方など、改めて探ってはいけないと、あえて自分に言い聞かせています。
 月報の書はA4ほどの大きさの紙に書いていますけれど、カバー用の書はそれに比べるとかなり大きい。大きいものを書き始めると、体の動きも大きくなるので、月報の書で決めたことが簡単に変えられるし、違うふうにも書ける。大きい書というのは、書けば書くほど新たな発見をしてしまって、先へ先へ行ってしまえる。そのことを知っているので、大きい書はたくさん書いていません。ただ、たくさん書かないと決めつけているわけでもなくて、たくさん書かないうちに、これでいいと思える書が出てくる。もしこれが普段の自分の作品だったら、もっと書くかもしれない。でも、もっと書けば変わる、もしくは変わる可能性があるから、今回はそこでやめようって考えています。

――カバー用の書は、どのくらいの枚数を書かれるんですか。

 普段の作品は、百枚とか、もっと書きます。だけど今回は十枚くらいです。あり得ないです、自分のこれまでの作品のつくり方からすると。だから、いつもはもっと書き込んでいくことで力のコントロールができるようになりますけど、今回は筆圧が強過ぎて紙に穴があいてしまったりするものもあります。それでも月報の書で掴んだ力の入れ具合のイメージで、その強さのままで書きたいんです。

――今回の制作方法へのこだわりは、読んだ時の思いから生まれてきているのでしょうか。

 思いというか、衝撃だと思います。
 その衝撃を自分なりに形にするやり方として、小説を読んでから時間が経っていない、揺れたままの状態で書く、月報の書の時に得た感覚が大切なのかもしれません。
 十二月に発売される『日中戦争』の巻に収録されている、伊藤桂一さんの「黄土の記憶」に兵士が落書きを残している一節があります。正に字が書かれていた場面が出てきたので、それに惹かれて、戦いに疲れ果てた兵士たちはどんなふうに字を書いたんだろうと考えて、実際に匍匐(ほふく)前進をして、月報用の「曠」の文字を書いてみました。そういうことって、自分の作品を考えている時には絶対に出てこない発想だし、もし出てきたとしてもやってみようなんてこと、まず思わない。だけど何か惹かれる自分がいる。じゃあ、やってみようという好奇心のまま、いつもなら躊躇(ちゅうちょ)してやめてしまうことをやってみている。その一方で変わらない自分というのもあります。
 実際に他の部分は、例えば大きい書の前に小さな習作を書くといったことをはじめとして、これまで通りの方法なんです。それは普段とあまりに違う大きなことが一つあるので、他の部分は無理はしたくなかったという思いもありました。

――普段と大きく違うこととはなんでしょう。

 私は戦争に行ってないし、人を殺したこともない。もちろんこれからのことはわからないけれど。家族の中にも戦争に行って戻ってきた人がいたりしないし、祖父祖母が早くに亡くなっているので、身内から戦争の話を聞いた経験も人より淡いと思います。それにもかかわらず、私が体験したこともない、この全集に収録されている小説の中で繰り広げられる世界を、まず引き受けないといけない。そのことがとても大きいと感じたんです。
 小説を読まずに、漢字の意味だけ調べて、字を書く。例えば、『ヒロシマ・ナガサキ』の巻は「閃」という字で象徴される、という情報だけで書くこともできなくはないのかもしれません。そうすれば、自分が引き受けるものはきっとわずかになると思います。でも、それだと私が書く意味がないと思った。だから作品を全部読もうと思ったんです。けれど読んでみたら読んでみたで、想像以上に私はここに書かれていることを何一つ経験していないし、体験もできない。もっと言えば想像しようとしているけれど、それさえも全部間違っているかもしれないと思うことがたくさんあって、苦しくなって書けなくなりそうにもなったりする。ただ、それでも今、自分の生きている生活と小説に書かれていることの中に何か繋がることがあるんじゃないかと思っていて、それは日々探しています。

――探しながら書いていると。

 いくら月報の書や文章で自分の内側と向き合って、カバーの書を書いてみても、結局、最終的には引き受けられないような思いがあります。それは個人的にすごく大きい気づきでした。今までは、どうしてその字を書くのかと思いながら書き始めれば、その答えであったり、答えに近いものが少しであったとしても見つかったんです。そうすると、見つけたことを手がかりに「じゃあ私、ここは引き受けて書きます」と思えた。それが今回は、引き受けようと随分ジタバタするんだけれど、そして逃げ腰でいるわけでもないって思いたいんだけれど、書き終わってしまうと、その字を書きながら気づいた「引き受けられなさ」が、書いた字とともに残るんです。

――その「引き受けられなさ」をどう捉えていますか。

 逃げるわけではなくて、引き受けられないこと自体を飲み込んだような、そんな感覚があるかもしれない。以前はもっと性急に取りまとめたかった、自分の中で。わからないものをわからないもののままおきたくないという思いがあった。でも今、そういうことがあっても、それでも書くんだって思えた。そう思えたことがとても大きいです。
 

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