戦争について考えようとした場合、小説を読むことがいちばん効果的な方法です。もしナポレオン時代の戦争のことを知りたければ、どんな歴史書よりも、トルストイの『戦争と平和』を読むことです。これは昔からそうでした。日本の中世の戦争を考える場合には、『平家物語』を読むことです。そして太平洋戦争については、大岡昇平の『野火』や『レイテ戦記』があります。人間の大きな経験である戦争を、純粋な形で描き出せるのは小説です。私は今回の新しい戦争文学の集成に期待しています。

「戦争はいけない」ということは子どもだってわかります。けれどそんな言葉を一万遍唱えたってなんの力も持ちません。それよりも戦争の記憶が風化するなかで、戦争の実態を直接的に伝える必要があります。戦争は、自分の大切な人やまわりにある大切なものをすべて殺し破壊していくということを想像する力を養っていかなければいけません。日常で使う生きた言葉で戦争を伝えることが、いま求められているのです。
 二〇世紀を「戦争の世紀」と呼ぶ人たちもいますが、残念ながら二一世紀の現在も、テロなどを含め様々なかたちで戦争はおこり続けています。しかし私たちは日々のニュースのなかで伝えられる戦争を、自分たちの生きる社会とは遠い世界の出来事として受 け取っていないでしょうか。つまり戦争に対するイメージや、戦争の存在そのものが私たちのなかで希薄になっている。これは、日本の社会が平和であることの裏返しかもしれません。ではその平和は、どのような歴史や世界の状況によって成立してきたのでしょう。今の社会を考える上でも、文学が明治以降、戦争をどう描いてきたか、そして現在どう描いているかを知ることは、大きな意味を持つと考えています。

 戦争を直接体験した世代の多くが歴史の表舞台から退き、彼ら彼女らの証言も覚束なくなってきた。残されたのは記憶だけである。わたしは思う。いまや戦争をめぐる言説の最大の問題は記憶の欠如などではなく、むしろその過剰さではないか、と。ここで文学の出番だ。なぜなら、先行世代の記憶を豊かにするのも貧しくするのも、結局は想像力をおいて他にないからだ。現代人が直面する記憶をめぐる戦争≠フただ中で、この記念碑的なアンソロジーが刊行されたことを、心より慶びたい。
 学生たちと「デジタルミュージアム『戦争の記憶』」という大きなウェブサイトを立ち上げようとしている。戦後六〇年余を経て、戦争体験者のほとんどが八〇代、九〇代になり、戦争体験をリアルに語れる人がこの世から消滅しようとしている。生き残りの戦争体験者の声を少しでも集めようとしたのだが、やりだしてわかったことは、それがすでにほとんど不可能になりつつあるという現実だった。 戦争の記憶の掘り起しに最も有効な手段は、戦争の同時代人たちが、文学、回想録、ルポルタージュ、ドキュメントなどの形で書き遺しておいてくれた活字資料なのだということを知った。しかしそのほとんどが、いまでは入手困難となっており、図書館に行っても見つけることがむずかしかった。それがこれほど大量に復刻されるというのは歴史的快挙といってよい。去年夏ヨーロッパ各地をまわってきたが、向うでも戦争体験者が次々に亡くなっていく現実を前にして、社会をあげて戦争体験の掘り起し、語り直しがはじまっていた。戦争の記憶が消えてしまったら、世界は歴史から何も学べなくなってしまう。この全集はいままさに出るべくして出てきた全集といえる。
 戦争を知らない世代が戦争を「知る」のに、どんなに話を聞いたり映像を見たりしても、直接的な経験になり得ない。当時の「日常」はどうだったのか、戦争は本当に過去のことなのか。見えない部分が多いまま、私は、戦争を単に「悲惨で残酷」ということばに置き換えて、遠い世界のように思っていた。  この「コレクション 戦争と文学」のラインナップには、重松清氏の『ナイフ』までが登場する。  知らなかった。私自身が「戦争」の当事者だったのだ。