『書楼弔堂 待宵』著者インタビュー

アナログじいさんが、YouTubeを見られるようになるまでの話です

[4]肯定と否定を共存させる「均せば普通だ」

──「改良」で弥蔵は自分が過去に行ったことと、それによって生まれた明治という時代について、あらためて向き合うことになります。

 幕末って、日本が勤王派と佐幕派に分かれて戦ってたわけで、必ずどちらかの立場を取らなければいけない時代だったでしょ。でも市井の人たちはどうだったのか。明治維新の結果、国がよくなったのか悪くなったのかなんて正直分からないですよ。文明開化はすばらしいという人と、江戸の時代が懐かしいという人に二極化しがちだけど、それもどうなんだと。昔は酷かったけど今だって酷い部分はあるし、昔にも今にもいいところはある。
 僕は以前『虚言少年』(集英社文庫)という馬鹿な小説を書いたんですが、当時の担当が作中から「均せば普通だ」という文章を抜き出して帯にしたんですよ。すごくいい言葉だなと思ったら自分で書いてて驚いた(笑)。多様性の時代に「普通」という言葉を使うのはどうなんだとも思いますけど、山と谷を均せば平らになるわけで、「均せば普通だ」というのは肯定と否定を共存させるということですから、多様性を退けるもんじゃない。そのへんは『書楼弔堂』にも受け継がれている気がしますね。

──弔堂でのさまざまな出会いを経て、弥蔵の人生は少しだけ変化する。その後、彼がどんな人生を歩んだのか気になります。

 一巻目から共通していることですが、このシリーズの語り手には「俺」とか「私」といった一人称がありません。自分は自分なんだということをどこかで見失っているんです。本作の老人はべらべらと語るんだけど、自分が発した言葉なのに、なぜか自分にだけ届いてない。これは、「あ、それは俺か」というところに行き着くまでの話なんですね。ラストで弥蔵にどんな本を与えるかは珍しく考えたんですが(笑)。旅行案内本なんかが出始めた頃だし、それもいいかなと思ったんですけどね、ハードボイルドなじいさんに感傷旅行は似合わない。結局、あのような結末にしています。あのじいさん、意外にその後も長生きしたんじゃないですかね。

──夜明けを意味する『破暁』、真昼を意味する『炎昼』、そして夕暮れ時の『待宵』と書き継がれてきた「書楼弔堂」シリーズ。次回作はいよいよ夜が訪れるのでしょうか。

 ええ。いよいよ明治四十年代ですから、明治の終わりで夜ですね。時代に弾かれた男、時代に背かれる女、時代について行けないじじいとつないで来たので、次は時代を支えようとする人の話にしたいですね。具体的には「書物を作る」人の物語になる予定です。これまで社会不適合者ばかりでしたが、やっとちゃんと働いている人が出てくる(笑)。もちろん、最初に言った通り「本の流通」が主役になるんですけど、誰かが作らなきゃ流通もしないですからね。と、いっても出版社の話ではありません。単に「もの」としての本を作っている人の話ですね。中身がどうであれ、印刷し製本しなければ本はできませんから。そうした技術の変革があって、それがイノベーションのようなものにつながっていくわけで、明治期の出版ってまさにそういう時期だったわけですから。『破暁』と『炎昼』の間が三年空いていて、『炎昼』と『待宵』の間が六年なので、四巻目までは十二年空けるのが綺麗なんだけど(笑)、そうすると関係者がみんないなくなっていそうですから、書けるタイミングで続きを出したいと思います。

  • 主役は本の流通、語り手は明治時代の読者
  • いくら本を読んでも人は変わらない
  • 江戸と明治はシームレスにつながっている
  • 肯定と否定を共存させる「均せば普通だ」
  • アナログじいさんが、YouTubeを見られるようになるまでの話です