[2]いくら本を読んでも人は変わらない
──そんな弥蔵老人に案内され、弔堂には近代日本を彩ったさまざまな著名人たちがやってきます。ゲストキャラクターの人選は毎回どうやって決めているのでしょうか。
毎回大物ゲストがやってくる、いってみれば『徹子の部屋』スタイルですよね。テレビの場合ゲストとして面白い人物、視聴率の取れそうな人という条件があるんでしょうけど、それよりも、いろいろな職業の人を扱いたいなというほうが先んじていて。ともすると小説家ばかりになりがちなんで、それもつまんないでしょう。ただ残念だったのは今回、女性が一人もいないんですよね。ジェンダーバランスはできるだけ取りたかったんですけど。集英社の編集者さんにもリクエストを出してもらったんですが、この時代の女性でうまくはまる人がいなくて。それに語り手が汚いじいさんでしょう。この時代の老人ですから、ジェンダー差別にあたるような発言をしかねないですからね(笑)。結局、どこかの会社の取締役会みたいに男ばかりになってしまいました。
──冒頭のエピソード「史乗」に登場するのは、平民主義で知られるジャーナリストの德富蘇峰。日清戦争後、国家主義に傾いたことで批判を浴びた彼は、ある本を求めて弔堂にやってきます。戦争にどう向き合うかという問題は、現代にも通じるところがありますね。
このシリーズに今の世相を反映させているつもりは、これっぽっちもないんです。「史乗」を書いたのなんて約七年も前ですから、昨今の国際情勢なんて反映のしようもない。ただ明治時代に起きることって、妙に現代と通じているところがあるんですよね。つくづく人類は進歩しないんだなと思いますね。德富蘇峰という人はもともと反戦派だったんですが、この時点では好戦派に転じて、非難を受けているわけですよね。戦争がいいか悪いかといったら当然よくはないんだけど、じゃあ具体的にどうすればいいのかといえば、国民は分からないわけですよ。はっきりしたイデオロギーを持っている人以外は、分からないというのが本音でしょう。分からないんだから、真ん中でごちゃごちゃ話し合って、迷いながら決めていくしかない。でもつい二極化しがちじゃないですか。そういう分断は建設的じゃないし、よくないですよね。
──第二話「統御」のゲストは作家の岡本綺堂。後に捕物帳や怪談、劇作で名をなす綺堂とはどんな人物だったのか、弥蔵や弔堂主人との対話を通して、浮き彫りになっていきます。
岡本綺堂といえば『半七捕物帳』、という人が多いんだけど、そこだけ切り取っちゃうのはどうなんだろうと。怪談の人だという見方もありますが、それだけでもすくい取れない。そもそも半七は和製シャーロック・ホームズと言われるくらいですから理性の物語で、怪談というのは理性の外側の物語ですよね。さらに言うなら『修禪寺物語』は情念の物語ですよ。全部違ってる。でも矛盾はない。どうなってるんだろうと。随筆なんかを読むと、この人、文句ばっかり言ってるのね。気難しいというか、きちんとしてるんです。世の中の不整合が我慢ならない。だから理性ですぱっと割り切れるような話を書く。でも世の中は不条理だとイヤというほど知っているから怪談も書ける。綺堂研究家じゃないので何の保証もないですけど、実作者として感じたのはそういう面で。
──店を訪れた客たちが弔堂の主人から〈一冊の本〉を買う、というのがこれまでのパターン。しかしこの巻はそこから外れた回も多いですね。たとえば第三話「滑稽」に登場する反骨のジャーナリスト・宮武外骨は、お金に困って弔堂に本を売りにきています。
これまでの巻を読んでくださっている方は、どうせまた店のおやじが決め台詞を言って、本を売りつけるんだろうと思って読んでるはずで。だったら「あ、売らないんだ」という回も入れておこうかなと。決め台詞といえば東映の時代劇ですけど、『暴れん坊将軍』のおなじみのパターン、「余の顔を見忘れたか?」に対して「いえ、覚えてますが何か」と答える回があったら印象に残るじゃないですか(笑)。まあ一般にある程度本が行き渡ったからこそ売る・買うという仕組みも出来たわけですからね。この時期にこういうエピソードは要るだろうと。
そもそも本を読んで人生が変わったとか、救われたという話はよく耳にしますが、そんなことはないですよ。読書で人間は変わりません。このシリーズに出てくる人たちは、本なんか読まなくてもちゃんと自分の人生を送れているんです。店主の言う「あなたの一冊」って、たぶんそういうものじゃない。本は出口とかきっかけじゃないんですよ。だから本との出会いで人生が変わったとか、歴史が動いたという展開にすると、実に噓臭い話になる。それは絶対やめようと思っていました。