[1]主役は本の流通、語り手は明治時代の読者
──明治時代の書店・弔堂を舞台に、人と本の数奇な縁をさまざまな形で描いた「書楼弔堂」。シリーズ第三弾『書楼弔堂 待宵』の舞台は明治三十年代後半です。シリーズ開始当初(明治二十年代)に比べると、本をめぐる状況が現代に近づいてきましたね。
一般庶民が本を買って読めるようになったのってそう古いことではなくて、明治の中頃くらいからでしょうか。それまでは本といえば家々を回る貸本屋から借りるものだったわけで。明治も三十年代になると、それまで未分化だった書店と取次と出版社がやっと分離して、新刊書籍が手に入れられるようになってきます。とはいえ今のようにネットで買えるわけでもないし、新刊書店がどこの町にもある時代でもないんですね。むしろ新刊じゃない本のほうが多いんだけど、でも古本屋はまだない。そのくらいの時代です。字の書いてあるものなら何でも並べている弔堂は、当時としてはかなり異常な本屋なんですよ。
──今回語り手を務めるのは、甘酒屋を営む老人・弥蔵。過去に囚われ、新しい価値観に心を閉ざしている世捨て人のような男です。
このシリーズは本を扱っていると思われがちなんですけど、主役はあくまで「本の流通」なんです。そして語り手になるのは、これから「読者」になっていく人たちという位置づけですね。一巻目は自由民権運動をがんがんやって世の中を変えていこうぜ、という波からはじかれてしまったぼんくらな人で。そういう人だって、おそらく本は読んだだろうと。二巻目は女が本なんか読むものじゃないと言われる風潮に対して、表だって声を上げられるわけじゃないけど、なんだか納得がいかないなと感じている女性。そして今回は、新時代が嫌いなわけじゃないけど全然好きになれない、という頑固な年寄りですね。今でもいるじゃないですか、テレビはブラウン管がよくて、電話はダイヤルじゃなくちゃというお年寄りが。喩えるならそういうじいさんが、スマホを使ってYouTubeを見られるようになるまでの話ですね。
──本と人の関係といえば、作中に電車内で大勢の人が本を音読している、という印象的なシーンがあります。
そうですね。この頃の電車の中って、みんなが音読していてうるさかったんだそうです。今と違って、本というのは音読するのが当たり前の時代だったんですね。そういうことを私たちはまるで知らないんだけど、それまで書物に触れる機会のなかった人たちが読者となってくれたおかげで本が広く普及したんだ、という経緯は尊重しなくちゃいけないと思うんですね。僕らが小説家や編集者やライターという仕事に就いて、こうやって飯が食えているのも、そうした名もなき先人たちのおかげなわけで。本の流通を描こうとするなら、そういう読者の歴史に目を向けないと駄目なんじゃないかなとも思います。