コラム「明治期の本とその流通」柴野京子

コラム「明治期の本とその流通」柴野京子

[1]丸善の二階

 大政奉還からまもない明治2年、横浜に丸屋という書店が開業しました。創業者は早矢仕有的(はやしゆうてき)、医師ながら実業の才があり、丸屋善八の届出名から丸善と呼ばれたこの店は、薬と洋書を扱って評判をとります。

 丸善はほどなく日本橋に支店を出しますが、物理学者の寺田寅彦はその二階の洋書売場が、自分にとって特別な場所だったと記しています。西洋の知識にならうこと、すなわち洋書を読むことが学問であった文明開化の時代、ガラス扉のついた書棚の奥に異国の本がならぶ丸善の二階は、さしずめ最先端の情報センターのようなものだったのでしょう。

 ただしこの「丸善の二階」は、誰もが気軽に入れる場所ではなかったようです。このころの本屋といえば、ほかの商店と同じく畳敷きで、背表紙のない和本の多くは棚に積まれているのが普通でした。いまのように客がじかに本を手に取るのではなく、店の者が出してくるのを待つのです。

 西洋式の店舗に建て替える前の丸善も、例外ではありませんでした。本を選ぶには知識が必要です。どのような分野があって、何が論じられているのかを知らなければなりません。外国語で書かれた本となればなおさらです。二階にあがり、ならんだ本の中からほしいものを選べるのは、そうしたことに慣れた西洋人や、寺田のような帝大生に限られたといいます。丸善のような店は、東京でも特別な本屋だったのです。

  • 丸善の二階
  • 本と本屋の諸相
  • 新旧の取引
  • 博文館の登場と近代化

柴野京子 略歴

上智大学文学部新聞学科准教授。早稲田大学卒業後、出版取次会社に勤務。2011年、東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。同大学院人文社会系研究科特任助教を経て、2012年より現職。主著に『書棚と平台――出版流通というメディア』『書物の環境論』(いずれも弘文堂)。