[1]本の魅力に目覚めた女性が主人公
──明治期の書店を舞台にした「書楼弔堂」シリーズ、待望の第二弾が刊行されます。物語が幕を開けるのは明治三十年。明治二十五年にスタートした前作から、日清戦争を挟んで約五年後ということになります。
このシリーズには、本と人との関係の変遷史という、根底というか基礎があるんですね。今の出版業界のシステムは明治の半ばくらいから徐々にできあがっていって、大正になると現代とほぼ同じ流通形態ができあがる。そうした流れの中で、弔堂は特異なポイントとしてあるわけですね。前作『書楼弔堂 破曉』の時点では一般人が普通に本を買えるようになってまだ間がなかった。明治三十年代になると取次のシステムも整備され、新聞も全国一斉発売に近くなっています。書店と出版社の区別が曖昧だったりと、まだ過渡期ではあるんですが、だいぶ現代の形に近づいていますね。
──そんな時代を反映してか、今回の主人公は塔子という女性です。薩摩藩士の祖父に厳しくしつけられ、これまで一冊も小説を読んだことがない塔子が、弔堂にたまたま足を踏みいれ、書物の世界に惹かれるようになってゆきます。
明治期、女性の立場は大きく変わります。根底の部分では今も改善されていないんだけど、書物と人の関わり方の変遷を描いていくうえで、女性読者の視点は必要だろうと。パターンは前作とまったく一緒なんですが、視点人物の立場や語り口を変えると、印象はすいぶん変わってしまいますね。ただ当時、本は高価だし、まだ簡単に買えるものではない。まして塔子はこれまで本を読んだことがなく、家族に隠れてこっそり読んでいるという設定ですから、現代の文系女子みたいな感じにはならない。毎回本の話に絡めていくのは、難しかったですね。
──そんな塔子が弔堂の主人に薦められた『小公子』によって、小説の面白さに開眼する。本好きなら共感必至のシーンです。
最初に何を読ませたらいいかは迷いました。前作の主人公は本の虫でしたから、哲学書でも風俗ルポでも読むんですが、本をまったく読んだことのない女性に変なものを薦めるわけにもいかない。かといって尾崎紅葉なんかもちょっと違う。『小公子』あたりならいいかなと。明治の翻訳ではセドリックが「おとッさん」「おッかさん」と呼びかけたり、表紙に描かれているのがどう見ても金太郎みたいな子供だったりするんだけど(笑)、当時はよく読まれていたようです。
──和書・洋書はもちろん、新聞や雑誌まであらゆる書物が揃う弔堂。そこに自分だけの〈一冊の本〉を求めて、さまざまな偉人・著名人たちが訪れます。巻頭のエピソード「事件」に登場するのは、文学に意欲を燃やす田山花袋と、その友人で新体詩人の松岡國男。二人が交わす文学談義からは、新しい文学を作り出そうとする熱気が伝わってきます。
この時代は言文一致運動が成果を見せるようになってからまだ五、六年しか経っていません。それまで話し言葉と書き言葉はまったく違っていて、言文一致のルールが確立するまでにはたいへんな紆余曲折があった。言葉自体を作りあげないといけなかったんですから、当時の文学者の苦労は今とは比べものにならないでしょう。そんな中で田山はエミール・ゾラやモーパッサンに出会い、自然主義文学の旗手となってゆく。本来ゾラのいう自然主義は自分をありのままにさらけ出すという意味ではないんだけど、田山はそうすることで自分なりの文学運動を作りあげていくわけですね。
──文豪・田山花袋誕生の裏には、本当にこんな会話があったのでは、と想像が膨らみました。一方、文学とは別の道に進もうとしている松岡のエピソードは、この巻を通じて描かれてゆきますね。
塔子だけだと本の話を絡めにくいので、松岡のような人をサブキャラクターとして登場させざるを得なかったんです。後の柳田國男だし。たくさん読むし買うだろうと(笑)。柳田は、後年の論考の根幹をなすアイデアを若い頃から持っていたと思うんですね。「山人」とか「常民」とか、体現する言葉をまだ発明していないだけで、素地は初期からある。それを形にしていく過程を描くのは面白いと思いました。フレイザーや新渡戸稲造、南方熊楠といった、この先の人生で関わりをもつことになる本を、作中で読ませてやろうと。