『書楼弔堂 破曉』著者インタビュー

時代の流れに乗れない主人公

──そうした大きな変化の時代にあって、視点人物として狂言回しの役を担う高遠は、時代の流れにまったく乗れないというか、乗っからない人物です。

 いつの世の中でも、時代の最先端にするすると乗っちゃう人っているのだけれど、そういう人にはあまりシンパシーを感じないんです。大方の人は、乗りたいとは思っていても、乗り損ねたり、乗ってもすぐに落ちたりしてしまうわけですね。あるいは乗った気になってるだけ、とか。

 ここには六つの話が入っていますが、最後、「未完」という話で終わるわけです。人間というのは、しょせん未完なんですよね。人はよく、区切りをつけるためにゴールを設定したがるでしょう。で、そのゴールに達すると「終わり」と思っちゃうんだけれど、終わらないですね。いくらすごいイベントがあっても、次の日に起きて何か変わってるかといったら、何も変わっていない。

 主人公がドラマティックに時代に翻弄され、見失ったものを見つけ、昨日までの自分と決別して果敢に時代に立ち向かっていく──とか、ありますね、そういう物語。カッコいいじゃないですか。でも、現実にはないです。偉業を成し遂げたような人も、それは後世の評価なのであって、喰って寝てる日常はおんなじですよ。だから、いろいろな人と会って、いろいろなことを考えるのだけど、結果的にどうにもならない、成長もしなければ進化もしないし、学習もしない。そういう主人公にしたかったんです。

 結果は何にもならないのだけれど、でも、経過自体はおもしろい。ぼくはそれがエンタテインメント小説なんだと思うんです。極論をいえば、結末なんかどうでもいい、なくてもいいと思うんです。蜿々と読む快楽だけがあるというのが理想です。以前、筒井康隆さんがおっしゃったんですが、「おもしろいことを考えて、思いつかなくなったらやめればいい。おもしろいのはここで終わりですという終わり方でもいいんじゃないか」って。そのとおりだと思う。この『書楼弔堂』も全然波瀾万丈じゃない。スペクタクルな展開もなければ、ミステリアスな謎があるわけでもない。本屋に客が来て帰るっていうだけの話です(笑)。そういう意味ではぼくの小説観のアナロジーみたいな小説でもありますね。

 ぼくは、本を読むと人生が楽しくなる、とは思うんだけれど、マシな人になるとか賢くなるとか、そうは思いません。「読んでいる間はおもしろい」だけのものだと思います。この高遠も、本を読むのをおもしろがっているんだけれど、読んだことで何かが血肉化することは一切ないようです。世間的にはダメな人間ですよね。奥さんも子供もほったらかしで、働かないで朝から晩まで寝ている。社会不適合者じゃないですか。

 それはまあいけないんだけど(笑)、たとえば偉人だろうが犯罪者だろうが人格者だろうが性格破綻者だろうが、本を読んでいる間はみんな「本を読む人」に過ぎないわけです。読書って能動的なものだから、読んでいるなら、その人の気持ちは必ず本に向いているわけで、何を感じたとしても、それは本から感じたものですね。そう考えると本ってすごい装置ですよね。しかも、同じ人が同じ本を読んでも、そのときの心持ちによって立ち上がるものは違う。人間がつくった数々の娯楽装置の中でも、かなりユニークなものだと思いますよ。

 一方で、本を読んでも腹はふくれないし、本を読んで金をもらえることもない。書評家は別ですが。だから本を読む時間ってすごく無駄なんです。無駄なんだけど、その間だけ幸せになれる、あるいは不幸せになれるのでも構わないんだけど、いずれ平板な日常に起伏はできるわけでしょ。そこが大事なんです。こんなおもしろい装置を使わないのは損だと思いますね。

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