序 浩太朗は、はっと目を覚ました──。
胸が苦しかった。
まるで、誰かが上からのしかかっているような感覚だ。
全身にびっしょりと汗をかいている。
浩太朗は、ゆっくりと身体を起こし、ふうっと息を吐く。
ずんずんと頭が痛んだ。
とても嫌な夢を見ていた気がするが、その内容を思い出そうとすると、頭の痛みが増した気がした。
──許さない。
すぐ後ろで、誰かが囁くような声がした。
浩太朗は、慌てて振り返ってみたが、そこに人の姿はなかった。
──気のせいか。
再び、眠りに就こうとした浩太朗の耳に、また声がした。
──許すまじ。
男なのか、女なのか判然としない。ただ、地の底から這い上がってくるような、異様な響きをもった声だった。
再び振り返ってみたが、やはり人の姿はない。
それだけでは安心できず、浩太朗は慎重に辺りを見回してみる。
暗くはあったが、そこは自分の部屋に間違いなかった。
最近になって買い集めた骨董品の類いが、ところ狭しと並んでいる。
ふと、壁にかかった掛け軸が目に入った。
女が一人、物憂げな顔で佇んでいる。その足許には、鮮やかな彼岸花が、まるで競うように咲き乱れている。
美しい絵だ──。
見ているだけで、自然と顔がほころぶ。
さっきのは、やはり空耳に違いない。浩太朗は、改めて布団に横になり、瞼を閉じた。
部屋は、しんっ──と静まり返っていた。
しばらくして、浩太朗の意識は、ゆっくりと眠りの中に落ちていく──。
さわっ。
鼻先に、何かが触れた。
刷毛で触られたような、むず痒い感覚だった。
虫か何かが掠めたのだろう。浩太朗は、目を閉じたまま、顔の前を手で払う。
さわっ。
手に何かが触れた。
それは、虫などではない。もっと別の何かだった。
──何だ?
ぱっと目を開けた浩太朗は、あまりのことに硬直した。
そこには──。
老婆の顔があった。
白髪の混じった長い髪をだらりと垂らし、浩太朗を見下ろしていた。
しかも、その目には、眼球がなかった。真っ黒い穴が、浩太朗を見据えている。
浩太朗は、悲鳴とともに飛び起きようとしたが、身体が動かなかった。
胸の上に何かが乗っている。
そこにいたのは、禿頭の僧侶らしき男だった。
頰にべっとりと血が張り付いていて、紫に変色した唇で、しきりに念仏を唱えている。
──南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
「止せ!」
浩太朗は、僧侶を押しのけようとしたが、腕が動かなかった。
見ると、武士と思しき男が、浩太朗の右腕の上にあぐらをかいて座っていた。
髷が解けた、ざんばら髪の武士だ。
右腕の上腕部が切断されていて、びゅ、びゅっ、と血が噴き出している。
武士の左手には、小太刀が握られている。
その姿を見て、浩太朗はこの武士が何をしようとしているのかを悟った。
おそらく、浩太朗の右腕を切断し、失われた自分の腕の代わりにしようとしているのだろう。
「うわぁ!」
浩太朗は、叫び声を上げながら、足をばたつかせて暴れようとしたが、それさえもできなかった。
女が──。
花魁と思しき女が、浩太朗の脚の間に屈み込み、妖艶な笑みを浮かべながら、股をまさぐっていたのだ。
それだけではない。畳の下から、ぬうっと青白い手が伸びてきて、浩太朗の足首を摑んだ。
次から次へと現われるこの世ならざる者たちの姿に、浩太朗は正気を失った──。
除霊の理
一 「逃がすんじゃねぇぞ!」
八十八は、空気を震わす怒声に、はっとして目を向けた。
目に飛び込んできたのは、思わぬ光景だった。
いかにも浪人といった感じの男が三人、日中の道端で凄んでいたのだ。彼らの視線の先には、一人の女が立っていた。
黒く艶のある髪は結われず、腰の辺りまで伸びていて、白い着物に赤い袴という恰好をしていた。
「てめぇ! 難癖つけやがって! どうなるか分かってるんだろうな!」
首領と思しき、一際身体の大きな男が、女の襟の辺りをぐいっと摑む。
何があったのかは知らないが、三人もの男が、寄ってたかって女を責め立てるなど、あるまじき行為だ。
何とかしなければ──そう思いながら、怖くもあった。
相手は、腰に刀を差している。町人の自分が、下手に横槍を入れれば、斬られかねない。
「申し──」
それでも八十八は、おずおずと、男たちに声をかけた。
「あん?」
男たちの視線が、一斉に八十八に向けられる。
揃いも揃って、目つきが悪い。敵意に満ちた視線に臆して、八十八は思わず息を吞んだ。
「お前のようなガキには、かかわりのねぇことだ。さっさと消えろ」
男の一人が、ぺっと唾を吐き捨てた。
確かにかかわりはない。このまま、するすると立ち去れば、自分に害が及ぶことはないのだろうが、八十八はそうすることができない性質だ。
「何があったのか存じ上げませんが、このような横暴な振る舞いは……」
言い終わる前に、どんっと胸に衝撃が走り、八十八は後方に吹き飛ばされ、思わず尻餅をついた。
おそらくは、男たちの中の誰かに突き飛ばされたのだろう。
「聞こえなかったのか? 斬られたくなければ、さっさと消えろ」
男の中の一人がそう言うと、鞘から刀を抜いた。
切っ先が、陽の光を受けて煌めく。
ただの脅しではない。本気で、八十八を斬るつもりなのだろう。武士からしてみれば、八十八のような町人を斬り捨てるなど、犬猫をそうするのと大差ない。
ここで脱兎の如く逃げ出せば、それで助かる。分かってはいるが、動けなかった。怖さからではない。女を置き去りにして、自分だけ逃げることができないからだ。
「そういうわけにはいきません。その女の人を……」
八十八の声を遮るように、男が刀を八双に構えた。
刃からも、男の目からも、痺れるほどの殺気が溢れ出ている。
八十八は丸腰だ。とてもではないが、太刀打ちできない。仮に、刀を持っていたとしても、剣の心得はないから、やはり敵わない。
もはやこれまでか──。
八十八が、ぎゅっと身を固くしたところで、ぬうっと陽を遮るように影が差した。
──何だ?
顔を上げると、いつの間にか、一人の男が八十八の脇に立ち、顔を覗き込んでいた。
熊のように大きく、がっちりとした体格をしている。角張った顔のせいで強面に見えるが、人を和ませるような愛嬌もある。
以前に、一度だけ会ったことがある。
試衛館という道場の師範である、近藤という男だ。
「八十八さんでしたな。こんなところで会うとは、奇遇ですな」
近藤は、低く野太い声で言うと、にっと白い歯を見せて、何とも人懐こい笑みを浮かべた。
この切迫した状況で、八十八が真っ先に思ったのは、どうして近藤は自分の名を知っているのだろう──ということだった。
以前に、顔を合わせたときは、名乗っていないはずだ。仮に名乗っていたとしても、道場の師範が、八十八のことを覚えているとは意外だった。
「大丈夫ですか?」
近藤は、そう訊ねながら八十八に手を差し出した。
八十八は、訳が分からなかったが、近藤の手を握った。ごつごつとしていて、まるで岩のような感触だった。
近藤が、ぐいっと腕を引く。八十八は、その助けを借りて立ち上がった。
「おい! 邪魔をするんじゃねぇ!」
突然の近藤の登場に、当惑していたらしい男たちだったが、ここに来て威勢を取り戻した。
「邪魔とは、何のことかな?」
近藤は、八十八を自らの背後に押しやると、男たちの前にずいっと歩み出た。
その途端、近藤の雰囲気が一気に変わった。
覇気とでもいうのだろうか──近付くだけで、吹き飛ばされてしまうような、圧倒的な存在感を放っている。
男たちも、それを感じたらしく、一歩、二歩と後退る。
「うるさい! おれたちが、何をしようとかかわりねぇだろ! さっさと消えろ!」
刀を抜いた男が吠える。
「そうはいかん。往来で女を取り囲んだだけでなく、それを助けに入った町人に刀を向ける──お主らの行いは、武士の風上にもおけん」
「御託はいい。死にたくなければ、消えろと言ってるんだ!」
「消えるのは、お主らの方だ。痛い目に遭わないうちに、早々に立ち去れ」
怒鳴ったわけではない。にもかかわらず、近藤の放った言葉が、大気を震わせているようだった。
「三人相手に勝てるとでも思ってるのか?」
刀を抜いた男が挑発する。
「端から数で勝負しようなど、愚かにも程があるな。まあ、お主らのような輩は、一人では何もできんだろう」
近藤は、そう言って高笑いした。
男たちは屈辱に血が上ったのか、顔を真っ赤にしながら一斉に「黙れ!」と叫んだ。
それでも、近藤は笑いを止めなかった。
残った二人の男たちも、刀を抜くと、構えを取りながら、近藤を取り囲んで行く。
近藤の強さがいかほどのものか分からないが、さすがにこの状況は拙い。
「近藤さん!」
八十八が、堪らず声を上げると近藤が振り返った。そして、案ずる必要はない──という風に、大きく頷いてみせた。
それが合図であったかのように、最初に刀を抜いた男が、近藤に斬りかかって行く。
近藤は、それを避けるどころか、目にも留まらぬ速さで突進し、男の懐に潜り込んでしまった。
急激に間合いを詰められ、男は刀を振り下ろせなくなる。
「遅くてあくびが出るわ」
近藤は、そう言うなり、男の鼻っ面に頭突きをお見舞いした。
男は、盛大に鼻血を撒き散らすと、白目を剝いて刀を取り落とす。そのまま崩れるように倒れ込んでいったが、途中でぴたっと止まった。
近藤が、男の首根っこを摑まえていたのだ。
「もう、気絶したか。やわな身体だな」
近藤は、そう言いながら、片手で男をぶんっと放り投げた。
放り投げられた男は、刀を構えていた残りの二人を薙ぎ倒すような恰好になった。
──何という豪腕だ。
八十八は、ただ啞然とするしかなかった。
男たちも完全に戦意を喪失してしまったらしく、二人で気絶した男を抱え、悲鳴を上げながら逃げて行った。
いやはや、とんでもない強さだ。
八十八はこれまで、土方や宗次郎を始めとした凄腕の男たちを見てきたが、近藤の強さは、そうしたものとはまったく別格だ。
鍛え抜かれた技や術ではなく、屈強な肉体から生み出される天性の強さのように思える。
しかし、それも近藤の強さの一端に過ぎないのかもしれない。これだけの豪腕で、土方や宗次郎のような技を繰り出したら、どんなことになるのか──それを想像すると、怖いとすら思えた。
「怪我はないか?」
近藤に問いかけられ、八十八は我に返る。
「あ、ありがとうございます」
慌てて礼を言う。
もし、近藤が来てくれなければ、八十八はあの男たちに斬られていただろう。
「礼を言う必要はない」
近藤が、にこっと笑った。
「し、しかし、助けて頂かなければ、私はどうなっていたか……」
「大したことじゃない。それより、あの場で女を助けに入るなど、なかなかできないことだ」
「そんな……強くもないのに、余計な手出しを……」
「それは違うな」
近藤の顔から笑みが消えた。
「え?」
「腕っ節だけが、強さではない。そのような考えを持つと、さっきの連中のようになる」
近藤は、男たちが逃げ去った方向に目をやった。
「そういうものですか?」
「うむ。そういうものだ。何にしても、歳三や宗次郎が、八十八さんに目をかける理由が分かった」
近藤は、そう言うと、拳が入ってしまいそうなほどの大口を開けて、豪快に笑った。
土方や宗次郎が、目をかけているとは、どういうことなのだろう? 二人から、八十八のことを何か聞いているということだろうか?
訊ねてみようかと思ったが、それより先に、近藤が笑いを引っ込めて、立っている女に目を向けた。
そうだった──ことの発端は、この女だった。
八十八は、改めて女に目を向ける。
切れ長の目に、ひな人形のような白い肌をしている。美しくはあるが、どこか線が細く、今にも消えてしまいそうな雰囲気がある。
もし、夜に見かけたら、幽霊であると勘違いしてしまいそうだ。
最初に見たときは、白い着物だと思っていたが、こうして改めて見ると、女の恰好は巫女装束だった。
足許には、大きな荷物が置いてある。
「助けて頂き、ありがとうございます──」
女は、雅な所作で丁寧に頭を下げる。
言葉の調子が、関東のものとは少し違う。もしかしたら、京辺りから旅をしてきたのかもしれない。
「礼には及びません」
近藤は、そこで一旦、言葉を止めて目を細めた。
「そもそも、助勢されるまでもなかったでしょう──」
近藤は、含みを持たせた言い方でそう続けた。
「滅相も御座いません。危ないところでした」
女は小さく薄い唇に、ふっと笑みを零した。
何だろう──美しいことに変わりはないのだが、そこには、何の感情も籠もっていないような気がした。
空っぽの笑み──そんな印象だった。
「まあ、そういうことにしておきますか」
近藤が笑みを返す。
「何かお礼をしたいところですが、急ぐ身故に、また日を改めて──」
女は、そう告げると、足許の荷物を背負って歩き去って行った。