序 ざっ、ざっ──。
音がした。
何も見えない。
暗い、暗い闇が、どこまでも広がっている。
ひんやりとしている。
息が、息が苦しい。
無理に吸い込もうとすると、口の中に何かが入ってくる。
土の臭いがした。
──ここは何処?
問いかけてみたが、返事はなかった。
─この暗闇の中には、私しかいないのだろうか?
ざっ、ざっ、ざっ。
音が続いている。
──これは、何の音だろう?
考えている間も、一定の間隔で、休むことなく音が続いている。
よく耳を澄ますと、聞こえてくるのは、音だけではなかった。誰かの声が聞こえる。
──何を言っているのだろう?
息を殺して耳を傾ける。
──え?
声はお経だった。
死人を弔う為に唱えられるお経だ。
どうして、お経が聞こえてくるのだろう。いくら考えても分からなかった。ただ、胸の内からじっとりとした黒い塊のようなものが溢れてきた。
言い知れぬ不安に搦め捕られた。
このままでは、自分の生活していた世界から、どんどん引き離されていく──そんな気がした。
自分は、ここにいるのだ──そう叫ぼうとしたが、声が出なかった。
暗闇の中から、逃げだそうとしたが、身体が動かなかった。
ざっ、ざっ、ざっ。
音とともに、恐怖が膨らんでいく。
やがて、すっかり心を恐怖に吞み込まれた私の意識は、絶望の闇の中に消えていった。
一 息が詰まる──。
お香は、水の中から顔を出すように、はっと起き上がった。
障子越しに差し込む青い月明かりが、部屋の中をぼんやりと照らしている。
鈴虫の音色に混じって、他の女中たちの寝息が聞こえた。
首筋と胸元に、びっしょりと汗をかいている。
何か悪い夢を見ていたような気がするが、どうにも思い出すことができない。ただ、臭いだけは鼻先に残っていた。
湿った土の臭いだ。
──あれは何だったのだろう。
お香は、小さくため息を吐きながら起き上がった。厠に行こうと、障子戸を開けて廊下に出る。
ぶるっと身震いがした。
秋が近付き、夜が冷えるようになってきたせいだが、最近、耳にした話を思い出したからでもある。
屋敷の中を幽霊だか、妖怪だかがうろついているという噂が立っていた。
何もなければ、信じるに値しない内容なのだが、お香が奉公しているこの家では、立て続けに不幸があった。それだけでなく、先日、噂を裏付けるような話もあった──。
「あれは、ただの作り話よ」
お香はそう呟き、頭の中にある悪い考えを振り払った。
廊下の角を曲がろうとしたところで、お香はピタリと足を止めた。足の裏に、妙な感触があったからだ。
ざらざらとした何かを踏んだ。
屈み込んでじっと目を凝らしてみると、廊下の板の上に、黒い塊のようなものがあるのに気付いた。
お香は、指先でその塊を摘む。湿気を帯びたそれは、指に挟まれ、ぼろぼろと崩れた。
──何だろう?
鼻に近づけ、臭いを嗅いでみる。
「土──」
土の臭いがした。
誰かが土足で駆け回ったか、野良犬あたりが上がり込み、土を散らかしていったのかもしれない。
よく見ると、土の跡は、点々と続いていた。
──気味が悪い。
お香は、そう思いながらも、引き寄せられるように、点々と続く土の跡を追いかけて歩き始めた。
土の跡は、一つの部屋の障子の前でぷつりと途切れていた。
店の主人である、桝野倉吉の居室の前だ。
倉吉が、裸足のまま外に出て、ここまで歩いて来たと思えば、不可解な出来事を説明できなくもないが、いかにもそれは不自然なような気がした。
「失礼します──」
妙な胸騒ぎを覚えたお香は、小声で言いながら、障子を僅かに開けた。
倉吉は、襦袢姿で床に突っ伏すようにして眠っていた。畳の上には、空になった銚子と盃が転がっている。
昨年、妻に先立たれただけでなく、先日、一人娘のお房も亡くなってしまった。それ以来、自室に籠もり、浴びるように酒を吞み続けている。
商売にも身が入らず、店は番頭の伊助が切り盛りしている状態だ。
やはり、この家は呪われているのかもしれない。
亡くなったお房は、まだ十九だった。病がちだったわけではなく、快活で明るい女だった。
それが突然に倒れ、帰らぬ人となったのだ。
お房が死んだあと、女中の一人、妙が奇妙なことを言い出した。お房が死ぬ前の晩に、幽霊がお房の部屋の床の間に立っているのを見た─と。
それをきっかけに、今までただの噂だと思っていた幽霊の話が、一気に真実味を帯びた。
──そんなはずはないわ。
お香は、内心で呟くと首を振った。
妙が本当に、幽霊を見たのだとしたら、そのときに言えばいい。お房が死んでから言うということは、それこそみんなを怖がらせようとして、作り話をしたに違いない。
障子を閉めようとしたお香だったが、はたと動きを止めた。
部屋の中で、何か黒い影のようなものが動いた気がしたからだ。
──何?
お香は、息を殺して障子の隙間から部屋の様子を窺った。
「ひっ!」
思わず声を上げ、尻餅をついた。
すぐに、逃げだそうとしたが、腰が抜けて動くことができなかった。
とんでもないものを目にしてしまった──。
部屋の中に、一人の女が立っていた。
その女は、長い髪をだらりと垂らし、口許に薄く笑みを浮かべながら、じっと倉吉を見下ろしていた。
もしかして、あれが幽霊。
──そんなはずない!
お香は頭の中で強く否定する。
何かの見間違いだと思おうとしたが、女の姿が目に焼き付いて離れない。
お香は、息を吞んだあと、改めて障子の隙間に目を向けた。好奇心からではない。女の姿が消えていることを願ってだ。
女が消えていれば、それは単なる見間違いということになる。
お香は顔を近づけて、そっと部屋の中を覗いた。
倉吉は、相変わらず眠っている。
女の姿はどこにもなかった。
──やっぱり、見間違いだった。
ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、障子の隙間に、目が現われた。
目だけではない。
女が──。
さっきの女が、障子の隙間から、じっとお香を見据えていた。
その目は、ひどく血走っていて、射竦めるような、冷たい光を放っていた。
「いやぁ!」
お香は、悲鳴を上げると同時に意識を失った──。
二 「それは、恐ろしいですね──」
お香の話を聞き終えるなり、八十八は大きく息を吐きながら言った。
八十八の部屋である。
対座するお香の顔は、すっかり青ざめ、死人のような有様だ。普段は、口数も多く、明るいお香だからこそ、余計にそれが際立つ。
「大丈夫だからね」
お香の隣に座っていた八十八の姉のお小夜が、優しく声をかける。
相談したいことがある──そう言ってお香が八十八の許を訪ねて来たのは、昼過ぎのことだった。
お香は、近所にある桝野屋の女中で、八十八より二つ上の十八だ。
呉服問屋桝野屋は、呉服屋を営む八十八の家からすると、仕入れ先にあたる。届け物やら何やらで、お香とは知った仲で、年齢が近いこともあり、親しくしていた。
そんなお香から相談──と言われ、最初は困惑したが、話を聞いてみれば、幽霊がらみの事件だったというわけだ。
「八十八さんが、こういうことに長けていると聞いたので……」
お香が、潤んだ目を八十八に向ける。
本人は怖くて涙を浮かべているのだろうが、妙に艶っぽく見えてしまった。
「いや、詳しいのは私ではないんですよ」
八十八は、苦笑いとともに口にした。
どうやら幽霊がらみの怪異の解決に、八十八が長けているという噂が広まっているようだが、残念ながらそうではない。
はっきり言って、八十八にできることなど何もない。
これまで、幽霊がらみの怪異の解決に立ち会ったことは何度もある。しかし、それは文字通り立ち会っただけだ。
実際に解決したのは、八十八ではなく、浮雲という名の憑きもの落としなのだ。
それがどういうわけか、八十八自身が詳しい──という話にすり替わっていて、最近、この手の相談をよく受けるようになってしまった。
「お願いです。私……本当に恐ろしくて……」
お香が、身を乗り出して八十八の手を取る。
ひんやりとした指先の感触に、八十八は思わず身を引きそうになる。
「分かっています。私自身は何もできませんが、憑きもの落としの先生に相談はしてみます。でも……」
八十八は、その先を考えて憂鬱になり、ふうっと肩を落とした。
「でも、何ですか?」
「その憑きもの落としの先生は、少しばかり値が張るんです」
それが厄介なところだ。
浮雲の憑きもの落としとしての腕は一流だ。八十八自身が、何度も目の当たりにしているのだから間違いない。
だが、浮雲はとんでもない守銭奴なのだ。おまけに手癖も悪い。八十八などは、初対面の折に財布の中身を盗まれている。
「大丈夫よ」
あっけらかんと言ったのは、お小夜だった。
「え?」
「浮雲さんは、困っている人を見て放っておける人じゃないもの。ちゃんと説明すれば、引き受けてくれるわ」
お小夜の言葉に、八十八はため息を吐いた。
困ったことに、お小夜は、浮雲が単に人情に厚い男だと思い込んでいる。
おそらく計算しているのだろうが、浮雲はまだ、お小夜の前では守銭奴の一面を見せていない。あくまで、いい人を演じている。
その理由は明白。下心に他ならない。
お小夜だけ──ということならいいのだが、浮雲は誰でもいいのだ。
話をしていても、すぐに床の話にすり替わる。
つまり、色を好む男でもあるのだ。
「姉さんは、浮雲さんを買い被っている」
「どうして?」
「あの人は、人情だけで動くような人じゃない」
「これまで散々、お世話になっておいて、酷い言いようね」
「でも、それが本当だから……」
「そんなことないわ」
否定するお小夜の声が、わずかに怒りをはらんでいる。
八十八が、浮雲の本性を明かそうとすると、いつもこんな調子になってしまう。
あまり考えたくはないが、お小夜は、浮雲のことを信頼して止まない。もしかしたら、好意すら抱いているかもしれない。
それを考えると、より一層、気分が重くなった。
何だかんだ言いながら、八十八は浮雲のことを嫌いではない。しかし、お小夜の相手となると話は別だ。
「あの……お金のことでしたら、大丈夫です」
八十八の考えを遮るように、お香が言った。
「え?」
女中であるお香の稼ぎは、たかが知れている。貯えがあったとしても、浮雲の憑きもの落としの値段は、そんなものを簡単に吹き飛ばす額だ。
「お金は、桝野屋で払うことになると思います」
「桝野屋で?」
お香が働く桝野屋の主人、倉吉は、気のいい男ではある。だが、商売に関しては妥協を許さないことでも知られている。
そんな倉吉が、女中が見た幽霊の怪異を解決するために、高額な費用を払うとは到底思えない。
これに関しては、お小夜も同感だったらしく、不思議そうに首を傾げている。
「実は、話には続きがあるんです……」
お香が、神妙な面持ちで言った。
「続き?」
「はい」
お香の声は、さっきまでより震えていた。
まるで、これまでの怪異話が前置きであったかのようだ。
「私は、必死で部屋にとって返して、他の女中を起こし、一緒に来てもらったんです。でも、みなが駆けつけたときには、もう幽霊の姿はありませんでした」
「それで?」
「幽霊を見たと言っても、寝ぼけただけだと相手にされなかったんですが、旦那様の部屋の前で、ある物を見つけたんです」
「何を見つけたんですか?」
「櫛です」
「櫛?」
「はい。
ただの櫛ではありません。お嬢様が使っていた櫛だったのです」
「お嬢様って、あのお房さんですか?」
八十八が訊ねると、お香が大きく頷いた。
桝野屋の主人、倉吉の一人娘お房は、姿形がよく、気立てもいいと評判の看板娘だった。日本橋の酒卸問屋である上州屋の倅が、お房に一目惚れして、婿入りすることが決まっていたらしい。
それが七日前、急に亡くなってしまった。
八十八も、取引先ということもあり、葬儀に顔を出したが、倉吉の沈みようといったらなかった。
「お房さんの櫛が落ちているなんて、おかしいじゃありませんか」
「それは、本当にお房さんのものだったの?」
「はい。
間違いありません。埋葬するとき、棺桶の中に一緒に入れたものなんですから」
「何でそんなものが……」
八十八は、驚きとともに口にした。
「それについては、旦那様もいたく気にされまして……墓を掘り返そうということになったのです」
お香が目を伏せた。
「もしかして、実際に掘り返したのですか?」
「はい」
膝の上に置いたお香の手が、落ち着きなく震えている。
何だか、この先は訊いてはいけない──そんな気がした。しかし、黙っていたところで、何も解決しない。
「それで?」
八十八は、息を吞みながら先を促す。
「空っぽだったんです……」
お香が、酷く掠れた声で言った。
「空っぽ?」
「はい。
お嬢様の亡骸が、なくなっていたんです」
「何と!」
八十八は、思わず腰を浮かせた。
もし、今の話が本当であるなら、死人が墓から這い出した──ということになる。