序 月が出ていた──。
赤みを帯びた月が、ぽっかりと浮かんでいる。
お
小
夜
は、家路を急いだ。
提灯
は持っていない。
月の明かりだけが頼りだ。
数日前に降った大雨のせいで、足許がぬかるんでいて歩き難い。
まさか、こんなに遅くなるとは思ってもみなかった。
麴町の得意先に反物を届けに行くだけのはずが、足を運んだ先では、夫婦喧嘩の真っ最中だった。
犬も食わぬものだから、放っておけばいいのだが、お小夜はそれができない性質だ。
それぞれの言い分を吐き出させ、なんとか仲直りさせたときには、もう日が暮れかかっていた。
弟の八十八などは、他人の世話を焼く暇があるなら、自分の嫁ぎ先を心配しろ──などと冗談めかして言うが、かくいう八十八も、厄介事を呼び込む性質だから、お小夜のことを言えた義理ではない。
──何にしても急いで帰らなければ。
黒船が浦賀に来港してからというもの、攘夷だ何だと、色々と物騒になっている。
玉川上水沿いの道を歩き、四谷大木戸の辺りまで来たところで、お小夜はふと足を止めた。
夜風に混じって、微かに人の声がしたからだ。
じっと耳を澄ます。
それは、確かに聞こえる──。
女のすすり泣く声だった。
ぐるりと辺りを見回してみると、古い長屋が目に入った。
ずいぶん前から放置されているらしく、建物は朽ち果てている。
声はその中から聞こえて来るらしい。
一番奥の部屋だ。
「もし──」
お小夜は、声をかけながら部屋に歩み寄った。
戸が外れていた。
「どうかされましたか?」 お小夜は、首を突っ込み中を覗き込む。
暗闇の中に、何かがいた。
女だった──。
白い肌襦袢を着た女が、背中を向け、部屋の隅に蹲って震えている。
長い髪が、乱れていた。
──亭主に乱暴でもされたのだろうか。
「どうしました。何か困りごとでも?」 土間に入り、お小夜が訊ねると、女の泣き声が止んだ。
しかし、返事があるわけではない。
「もし──」
もう一度、お小夜が言うと、女が一瞬、目の前から消えた──。
が、しかし、女はいつの間にか、反対の隅に立っていた。
やはり、背中を向けたままだ。
「ここにも──」
お小夜が、声をかけようとしたところで、女が唐突に言った。
「え?」
「ない──」
「何ですって?」
「どこだ?」
さっきまで、あれほど弱々しく泣いていた女とは思えぬほど、力強い声だった。
背筋がぞくぞくっと寒くなる。
「あの……」
「どこへやった!」
女は、悲鳴にも似た声を上げながら振り返った。
血走った女の目が、真っ直ぐにお小夜を射貫く。
尋常ならざる形相に、逃げ出そうとしたが、禍々しい瘴気に満ちた視線に搦め捕られ、動けなくなった。
「ない──」
女が、己の腹に手を当てた。
すると、そこからみるみる赤い液体が溢れ出してきて、肌襦袢と女の手を染めていく。
あれは──血だ。
女は、血に染まった両の手を、真っ直ぐにお小夜に突き出す。
「どこへ──やった──」
ぬらりとした感触が、頰に触れる。
お小夜は、悲鳴を上げることもできずに、そのまま意識を失った──。
一 「本当に──ここか?」
八十八は、ぽつりと言った。
うだるような暑さだ。
刺すような日射しが照りつけ、立っているだけで、汗が滴り落ちてくる。
蟬の鳴く声が、うるさいくらいに耳にまとわりついていた。
古びた神社の前である──。
徳川の庇護の許、隆盛を極める周囲の寺社に比べ、あまりにひっそりとしている。
朱に塗られていたであろう鳥居は色褪せ、青々とした雑草が生い茂っている。
その先に、傾きかけた社がぽつんとあった。
屋根まで、草に覆いつくされている始末だ。
──まあ、ここで、あれこれ考えていても仕方ない。
八十八は鳥居をくぐり、神社の境内に足を踏み入れた。
目を向けると、苔に塗れた狛犬に、じろりと睨まれたような気がした。
──何とも薄気味の悪い場所だ。
社の前まで来たところで、改めて辺りを見回す。
神主の住居があっていいはずだが、それらしき建物は見当たらない。
八十八が、この神社に足を運んだのには理由がある。
姉であるお小夜が、数日前、幽霊だか、妖怪だかに出くわした。
以来、奇妙な行動を取るようになった。
父親の源太は、憑きものが付いた──と慌て、懇意にしている妙法寺に相談を持ちかけ、除霊をしてもらったのだが、一向によくなる気配がない。
どうしたものかと困り果てているとき、出入りしている行商の薬売りから、「それなら腕の確かな憑きもの落としがいる──」と、この神社を紹介されたというわけだ。
「こんにちは」
八十八は、社に向かって声をかけてみた。
返事はなかった。
「どなたか、いませんか?」
今度は、どこにともなく声を張ってみたが、やはり応答はなかった。
──仕方ない。
諦めるか。
くるりと社に背を向け、来た道を戻ろうとしたとき、声がした。
「何の用だ?」
低く、よく通る声だった。
八十八は足を止め、慌てて辺りを見回してみる。
しかし、人の姿はどこにもない。
「どこを見ている。ここだ。ここ──」
声に誘われて目を向けた先は、社だった。
八十八は、おっかなびっくりへっぴり腰になりながらも、社に歩み寄って行く。
腐りかけた木の階段を上り、社の格子戸に顔を近付け、中を覗こうとしたまさにそのとき、どんっ──と内側から扉が開いた。
「わぁ!」
八十八は、驚きで仰け反り、その拍子に階段を踏み外した。
必死に伸ばした手は、空を摑むばかりで、尻で階段を滑り落ちた。
「痛てて……」
八十八は、痛みに歪んだ顔を上げる。
開け放たれた社の戸口のところには、一人の男が立っていた。
異様な男だった──。
真っ白な着物を着流している。帯をまとめるでもなく、だらりと垂らし、胸の辺りが大きくはだけていた。
髷も結わないぼさぼさ頭で、肌は着物の色に負けないくらい白い。線が細く、以前に見た円山応挙の幽霊画から飛び出してきたような風貌だ。
そして、何より際立っていたのは、両眼を覆うように巻いた赤い布だった。
あれでは、何も見えない──いや、盲目なのかもしれない。
さらに奇怪だったのは、その赤い布の上に、黒い墨で眼を描いていたことだ。
「騒々しい。何の用だ」
男は、持っていた金剛杖を八十八の眼前に突きつけた。
布の上に描かれた眼が、八十八を見下ろしている。
何とも、形容しがたい威圧感がある。
「あ、じ、実は……石田散薬の土方さんから、聞いてやって来たんです」
「石田散薬? ああ、あのバラガキか……」
「何でも、ここにたいそう腕の立つ、憑きもの落としの先生がいらっしゃるとか──」
「歳三の阿呆め。余計なことを」
男は、顎に手を当てて苦い顔をした。
この反応からして、どうやらこの男が目当ての憑きもの落としのようだ。
改めて見ると、異様だと感じていた風貌が、威光を放っているように見えるから不思議だ。
八十八は立ち上がり、居住まいを正してから腰を折って頭を下げる。
「どうか、姉さんを助けて下さい」
「知らん」
即答だった。
土方から、腕は確かだが、偏屈な男だと聞いていたが、ここまでとは──しかし、ここで退き下がるわけにはいかない。
お小夜が死んでしまうかもしれないのだ。
「そんなこと言わずに、どうかお願い致します」
八十八は、改めて頭を下げる。
「分からん奴だな」
「はい?」
「頭を下げられたって、一文の得にもならんと言ってるんだ」
男は、金剛杖を肩に担ぎ、どっかと階段に腰を下ろすと、八十八の前にぬうっと手を差し出した。
──ああ、そういうことか。
「もちろん、それ相応の謝礼はさせて頂きます」
「五十両」
「え? そんなに?」
「何か文句でもあるのか?」
男は口をへの字に曲げる。
「いや……しかし、五十両というのは、いくら何でも……」
「払えないなら帰れ」
びた一文まけるつもりはないらしい。男は、躊躇い一つ見せずに立ち上がると、くるりと背を向けて社の中に戻ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
五十両は高いが、お小夜の命には代えられない。
「払う気になったか?」
「はい」
「だったら、ほれ」
男が、ひょいっと手を差し出す。
八十八は、持参していた金を財布ごと男に手渡した。男は、さっそく、財布の中身を広げ、指で感触を確かめながら数えていく。
全てを数え終えるなり、男は八十八に顔を向けた。赤い布に描かれた両眼で、睨んでいるようだった。
「全然足りねぇな。手前、おれのことを盲目だと思って、足許見てんだろ」
男は、八十八の襟を摑み、ぐいっと引き寄せた。
あまりの迫力に、八十八は息を吞む。
「こ、これは前金です。憑きものが落ちたら、残りを払います」
「うるせぇ。さっさと消えろ」
「いや、しかし、それでは姉さんが……」
「だから、知らねぇよ」
男は無情に言うと、金を財布の中に戻し、土の上に放り投げた。
「あの……」
「何だ。まだ帰らねぇのか。だったら、こっちが出て行くまでだ」
男は、吐き捨てるように言うと、八十八を押し退け、神社の外に向かって歩き始めた。
「待って下さい」 八十八が追いすがると、男はくるりと振り返る。
「姉さんを助けたいと言いながら、金をけちったんだ。もし、死んだら、お前のせいだな」
男は、そう言うと赤い唇を歪めて笑った。
──私のせい。
八十八は、思いもよらぬ言葉に啞然とした。
「まったく。酒でも吞まねぇと、やってられねぇよ」
男は金剛杖をつきながら、神社の鳥居をくぐり、歩き去ってしまった。
夕暮れ迫る神社で、八十八はしばらく呆然と突っ立っていた。
完全に機嫌を損ねてしまった。
何とかしなければ──八十八は、考えを巡らせながら財布を拾った。
「あれ?」
違和感を覚え、改めて財布を取り出し、中を確認してみる。
「何だ──これ?」
財布の中には、金ではなくたくさんの小石が入っていた。