浮雲心霊奇譚

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神永学が贈る怪異謎解き時代劇
『浮雲心霊奇譚 血縁の理』

御霊の理
 八十八が足を運んだのは、古い神社だった──。
 放置されて久しい。
 かつて朱色に塗られていたはずの鳥居は、ところどころ塗りが剝げているばかりか、わずかに傾いているようにも見える。
 境内には、雑草が生い茂っていて、狛犬はびっしりと青い苔に覆われている。
 この神社には、一人の男が棲みついている。
 神主というわけではない。廃墟となった社を、勝手に根城にしている罰当たりな男だ。
 名を浮雲という。
 それが本当の名ではない。名乗ろうとしないので、八十八が付けた呼び名だ。
 手癖が悪く、女にだらしなく、年中酒ばかり吞んでいる。おおよそ褒めるべきところがない男だが、生業としている憑きもの落としの腕だけは一流だ。
 これまで、幾度となく幽霊にからんだ怪異を解決してきた。
 八十八が浮雲と出会ったのも、姉のお小夜が幽霊に憑依された一件がきっかけだった。
 今日、八十八がこの場所を訪れたのも、まさに幽霊がらみの事件について相談があったからに他ならない。
 ──少しくらい掃除をすればいいものを。
 八十八は歩みを進め、崩れかけた社の階段を上り、格子戸を開けた。
「あれ?」
 いつもなら、社の中で昼間から酒を吞んで自堕落に過ごしているはずだが、今はその姿が見当たらない。
 猫又の一件以来、この社に棲みついた黒猫が、わずかに顔を上げてにゃぁーと鳴いた。
 社の中には、いつも持ち歩いている金剛杖も瓢もなかった。
 珍しく、どこかに出かけているようだ。
 仕方ない。また、改めて顔を出すことにしよう。引き返そうとした八十八の前に、急に誰かが立ちはだかった。
 突然のことに、八十八は「わっ!」と声を上げながら尻餅をついた。
「何をびくびくしてやがる」
 八十八を見下ろしながら、ぶっきらぼうに言ったのは浮雲だった。
 白い着物を着流し、赤い帯を巻いている。肌は着物の色よりなお白い。両眼は赤い布で覆われている。しかも、その赤い布には墨で眼が描かれている。
「急に現われたら、驚くのは当然じゃないですか」
「何を言ってやがる。おれは、ずっとお前の後ろにいた」
「ずっとって、いつからです?」
「呆けた顔で鳥居を潜ったときからだ」
「だったら、声をかけてくれればいいじゃないですか」
 八十八が言い募ると、浮雲はふんっと鼻を鳴らして社の中に入って行ってしまう。
「どうして、わざわざ声をかけなきゃならん」
 浮雲は、不機嫌そうに言いながら、壁に寄りかかるようにして座ると、両眼を覆った赤い布をはらりと外した。
 その下から、緋色に染まった双眸が現われる。
 浮雲は、両眼を赤い布で覆い、金剛杖を突いて盲人のふりをしているが、実際には見えている。
 自らの赤い両眼を隠すために、外を出歩くときは赤い布を巻いているのだ。
 しかも、その瞳は、単に赤いだけではなく、他人には見えないもの、死者の魂──つまり幽霊が見えるのだ。
 浮雲が、憑きもの落としとして優れているのは、その特異な体質によるところが大きい。
 何にしても、八十八からしてみれば、綺麗な瞳なのだから、隠す必要はないと思うのだが、そうでない連中の方が多いというのが、浮雲の考えだ。
「で、今日は何の用だ?」
 浮雲が、ぐいっと左の眉を吊り上げるようにして訊ねてきた。
 そうだった。肝心なことを忘れるところだ。
 八十八は、社の中に入り、浮雲の向かいに腰を下ろした。
「実は、相談したいことがありまして……」
 八十八が切り出すと、浮雲はにたりと笑った。
「相談とは、武家の小娘のことか?」
「違います!」
 八十八は、強く否定した。
 浮雲が言う武家の小娘とは、萩原家の娘である伊織のことだ。
 伊織とは、ある心霊事件をきっかけに知り合った。武家の娘でありながら、呉服屋の倅である八十八などにも、分け隔てなく接してくれる優しい娘だ。
 どうも、浮雲は八十八が伊織に恋心を抱いていると思っているようで、何かというと、その話を持ち出す。
「何が違うんだ? お前は、あの娘が嫌いなのか?」
「そういうことじゃありません」
 伊織は優しいだけでなく、美しい娘だ。そればかりか、幾度となく命の危機を救ってもらってもいる。
 嫌いになる理由など、一つもない。
「じゃあ、どういうことだ?」
「何度も同じことを言わせないで下さい。私と伊織さんとでは、身分が違い過ぎます」
 町人風情が、武家の娘に恋などしていいはずがない。
「まだ、そんなことを言ってんのか。色恋は身分でするもんじゃねぇ」
 ──また始まった。
 理屈は分かるが、現実には、身分違いの恋など許されるものではない。やがて、伊織はどこぞの武家に嫁入りすることになる。
 どう足搔こうと、その事実は変わらない。
「その話はもういいです。それより、今日は幽霊のことで相談に来たんです」
 八十八が本題を切り出すと、浮雲が盛大にため息を吐いた。
「お前は、本当にどこから厄介事を拾ってきやがるんだ」
 そんなことを言われても困る。
 確かに、あちこちで厄介事を拾ってくるのは事実だ。自分のことより、他人の世話を焼いてしまうところがある。
 しかし──。
 浮雲と出会う前は、これほどまでに、厄介事が転がり込んでくることはなかった。少なくとも、幽霊に関する相談は受けなかった。
 そういう意味では、厄介事を呼び寄せているのは、何も八十八だけの責任ではない気がする。
 それに──。
「浮雲さんは、憑きもの落としを生業としているのですから、厄介事は望むところでしょ?」
「阿呆が」
「どうして阿呆になるのです?」
「おれは、暮らせるだけの金があればいい。この前の一件で、蓄えもできたから、無理に仕事をする気はねぇ」
 この前の一件とは、堀口家の幽霊騒動のことだろう。
 大変な騒動ではあったが、あれで浮雲がかなりの褒美を貰ったのは事実だ。怠け者の浮雲が、仕事をしたがらないのも当然かもしれない。
「お金目当てでやってるんですか」
「否定はしねぇ。いいか、おれの生業は憑きもの落としだ」
「知ってます。だから、憑きものを落としてほしいと」
「それが阿呆だと言うんだ。生業ってことは、それが仕事ってことだ。つまり、生活をするためにやってることだ」
「生活できているのであれば、無理にやる必要はないと?」
「その通りだ。おれは、大金が欲しいわけじゃねぇ。気ままに暮らしていけるだけの金があればいいんだよ」
 得意げに言う浮雲を見ていて、何だか腹が立ってきた。
「見損ないました」
「お前は、おれをどう見ていたんだ?」
「困っている人を、放っておけない情の厚い人だと思っていました」
 八十八が口にすると、浮雲はふんっと鼻を鳴らして笑った。
「だとしたら、見誤ってるぜ」
「そうですね。そのことが、痛いほどに分かりました。もう頼みません」
 八十八は怒りに任せて立ち上がった。
 浮雲が、こんなにも薄情な男だとは思わなかった。浮雲の言葉を借りれば、それこそ見誤っていたのだろう。
「用がないなら、さっさと帰れ」
 浮雲が、追い出すように手を払った。
 益々むっとした八十八は、格子戸を開けて出て行こうとしたのだが、それを遮るようにすぐ目の前に人が立っていた。
 薬の行商人である、土方歳三だった──。
「何をそんなに言い争っているのですか? 外まで聞こえていましたよ」
 いつもと変わらぬ人懐こい笑みを浮かべながら、土方が言った。