キャラクターは京極小説の核ではない
最終話「誕生」は一回書き直しています。本当は釈宗演回でした。釈宗演が弔堂に行って、禅問答のようなことを繰り返すのを横で甲野が聞くという。ただ、書いてみたはいいものの、これが面白くないんですよ。いや、書くのは面白かったんですけど、多分作者以外の人は面白くない。坊主と坊主の闘い、僕は得意なんです(笑)。でも、わかりにくい。だから釈宗演はちょい役に落として書き直しました。
──最終話らしく、前の巻に出てきた懐かしい人も顔を出しますね。
最終回だから全員出しました、みたいなほうが、坊主が禅問答で形而上的な謎かけをするよりはいいでしょう。私はそんな高尚な小説を書きたいわけじゃないし(笑)。それから、ある人物は、名前こそ出していないけど、すでに〈百鬼夜行〉シリーズにも登場しています。だから〈書楼弔堂〉でそうなった経緯を説明しておかなくちゃいけなくて。
──改めて振り返ると、明治二十五年から四十一年が日本の出版史上極めて重要な時代であったことがよくわかります。これで弔堂とお別れというのは少しさみしいですが。
書籍流通の仕組みができ上がるまでを見届けたら、お役御免ですから。まあ、弔堂は作中、北へ向かうと言ってます。北に何があるのか、ということはまたいつか。
──いや、気になりますよ! でも毎回思いますけど、京極さんはいつも魅力的なキャラクターを作られますが、そのキャラクターは絶対小説の中心にならないんですよね。
キャラクター小説も面白いんですけど、基本的に構造は全部同じになるので、書き手としては飽きちゃうんですよね。キャラクター小説自体は魅力的なジャンルなので、僕じゃなくて他の誰かが書いてくれればいいと思ってしまう。
──本作も真の主人公は書籍流通の仕組みなんですよね。弔堂自体は巨大な空白に近い。
〈書楼弔堂〉シリーズに登場する歴史上の人物は、ある程度史実に基づいて書かなければいけない。僕が勝手に作っていいわけではないんです。実はそっちのほうがはるかに面倒くさいんですけどね。だから、それ以外の人間はなんでもいいわけで。主人は流通の化身みたいなものだし、語り手はどうしようもない人たち。これ、実在の人物が出てこなかったら、本当につまらないですよ。小僧の撓はよくわからない子ですしね(笑)。
──シリーズを振り返ってみて、最初の構想から何か変わったことはありますか。
僕は最初に決めたまんま全部書いちゃうので、途中で話をいじって変えることは通常あまりないです。だから最初に考えた通りではあるんですが……間が空くと忘れちゃうこともある(笑)。本来甘酒屋は死んでたような気もしますね。
──デビュー三十周年にあたる本年は、〈巷説百物語〉シリーズが『了巷説百物語』で完結しました。同作では妖怪を仕掛けに使うことが不可能な時代に入り、登場人物たちが一斉に退場して、活躍の場はもう物語の中だけになるだろう、と宣言して終わりました。弔堂が自分の役目を終えて消えるという本書の終わり方には同書と共通するものを感じます。
『鵼の碑』『了巷説百物語』『書楼弔堂 霜夜』は間を空けずにほぼ続けて書いていますから、どこか似てしまったのかもしれませんね。『了巷説百物語』も『霜夜』もやるべきことはやったからおしまい、という内容で湿っぽくはないのですが、これで最終回、はい、さよなら、と作者が肩の荷を下ろした感じは少し出てしまっているかも(笑)。