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いつか君が運命の人 #1 僕らはあの頃と変わらない/全文 宇山佳祐いつか君が運命の人 #1 僕らはあの頃と変わらない/全文 宇山佳祐

イラスト/つじこ

 霊安室のドアが乱暴に開いた。肩で息をした征一が入ってきた。バスケのユニフォームにジャージの上着を手にした姿だ。靴はバスケットシューズのままだった。事故のしらせを受けて試合会場から飛んで来たのだろう。彼は目の前の光景が信じられないようで、ドアの前で立ち尽くしている。目を真っ赤にした叶恵が声にならない声でなにかを叫んで彼の胸に飛び込んで泣いた。その拍子に彼の手からジャージが落ちた。
 ややあって、花耶の両親は征一を気遣い、叶恵の肩を抱いて出て行った。征一と横たわる花耶。二人だけの室内は、水を打ったように静かになる。
 彼は花耶の遺体から少し離れた場所で突っ立っていた。征一の方が幽霊のような真っ青な顔色だ。その姿を見つめる花耶は、いたたまれずに「征ちゃん」と弱々しく声をかけた。しかし彼には届かない。それがまた花耶の心をえぐるように痛くさせた。
「花耶……」と彼が呟いた。眠る花耶にその声は届かない。抜け殻になった彼女はなにも言わない。
 彼が右足を引きりながらゆっくり歩く。バスケットシューズの音が響く。征一は恐る恐る恋人の死に顔を覗いた。生々しい頰の傷が事故の凄惨さを物語っている。痛々しい傷だ。征一は手を伸ばして花耶の頰に触れた。しかし反射的にその手を引っ込めた。あまりの冷たさに驚いたのかもしれない。今まで何度も触れてきたはずの彼女のぬくもりは、もうどこにも残されてはいなかった。そんな無情な冷たさが彼の両目から大粒の涙を引っ張り出した。
「どうして……」
 征一の口元が震えだした。
「どうしてこんなに冷たいんだよ……」
 征ちゃん……と、花耶は届かぬ声で呟いた。
「試合、どうして見に来てくれなかったんだよ……」
 ごめんね、征ちゃん……。
「シュート、決めたんだ。たった五分しか出られなかったけど、ワンゴールだったけど、めちゃくちゃなフォームだったけど……それでも頑張って決めたんだ……花耶の前で格好つけたくて……」
 ごめんなさい……と、花耶は両手で顔を覆った。涙が溢れた。でも、その雫は地面に落ちる前にはかなく消えてしまう。
「それなのに」と彼は奥歯を嚙みしめて号泣した。
「それなのに、いつまで寝てるんだよ! 遅刻しないように頑張って起きるって言ってたのに!!」
 わたしが死んでしまったことを認めたくないんだ。そう思うと余計に泣けてくる。この涙を届けられないことが、この声を届けられないことが、この気持ちを、心を、なにも渡せないことがやるせなくてたまらない。この手を伸ばして彼の涙を拭ってあげたい。でも、手はすり抜けてしまった。それが辛くて花耶の瞳からは新しい涙が次々と生まれた。征一は声を上げて泣いている。膝から崩れて、床を拳で何度も叩いている。悲鳴のような泣き声が部屋に痛いほどだまする。花耶は彼の前にひざまずいて一緒に泣いた。手を握ろうとして何度も指をわせた。それでも触れることはできなかった。花耶も、征一も、子供のようにいつまでも声を上げて泣き続けた。

 お寺の斎場で執り行われた花耶の通夜には、クラスメイトのみんなが来てくれた。一年生のときのクラスの友達もいる。最初はなかなか馴染めずにいたけれど、今はこんなにもたくさんの人が自分のために泣いてくれている。それが嬉しくもあるが、同時に悲しくも思える。もっとたくさんの「ありがとう」を伝えればよかった。わたしの友達になってくれてありがとうって。でも花耶にはもう伝えられない。祭壇の脇でうずくまって自分の通夜を眺めることしかできないでいる。
 涙で濡れた膝頭から顔を上げると、目の前に並んだ椅子で背中を丸める叶恵が見えた。しようすいしきっていて目には生気がない。中学生の頃からの友達が死んでしまったのだ。仕方ないことだ。
 花耶は親友のことが心配で心配でたまらなかった。
 通夜が終わっても叶恵は椅子から動こうとしなかった。叶恵の母親が隣で娘の肩をさすっている。彼女は「花耶と二人だけにさせて」と弱々しく言葉を吐いた。母親は不安そうだったが、その願いを聞くことにしたようだ。後ろ髪を引かれるような表情で部屋をあとにした。
 しんと静まりかえった室内に風はない。立ち上る線香の煙がまっすぐと天井へ昇ってゆく。天国へと続く糸のようだ。その煙の向こうでは、弾けるような笑顔の花耶がいる――遺影だ。叶恵と遊園地に遊びに行ったときの笑顔を切り取ったものだ。
 叶恵が遺影を眺めながら「あんたってひどい奴よね」と微苦笑した。その乾いた声に誘われて、花耶はゆるゆると顔を上げる。立ち上がり、叶恵の隣に静かに座った。
「横浜に買い物に行こうよって誘ったのに、あんたってば、わたしよりも彼氏のことを優先させるんだもん。わたしの方が市村君より付き合いが長いんだよ? 中学の頃からずっと仲良かったのに、それなのに彼氏ができた途端、友達より恋人を大事にするんだもん。ひどいよ。花耶はひどい奴だよ」
 涙で震える声を聞いていると胸が苦しくなる。花耶はたまらず俯いた。
「でも、一番ひどいのはわたしだね」
 顔を上げて叶恵のことを見た。
「ごめんね、花耶……」
 どうして謝るの? 花耶は心の中で訊ねた。
「無理矢理にでも買い物に連れて行けばよかったよ」
 叶恵は泣きながら、悔しそうに固く握った拳で膝を叩いた。
「彼氏なんてどうでもいいじゃん。それよりわたしとの買い物の方がずっとずっと大事でしょって、そう言えばよかった。わたしはあんたの親友なのよ。だから付き合いなさいよって、そう言って嫌がられてでも無理矢理連れて行けばよかったよ。そしたらあんな事故……だから……だから……」
 親友はしゃくり上げながら泣いた。
「許して、花耶……」
 彼女の膝の上で震える手に、花耶は左手を重ねようとした。しかし握ってあげることはできない。
「それと、もうひとつ」
 叶恵が涙を拭って遺影を見つめた。
「奇跡なんて起こらないって言って、ごめんね」
 花耶の視界が涙で歪んだ。そんなことを気にしていたんだ。征ちゃんのためになにかできないか悩んでいるとき、叶恵がなに気なく言った一言だ。他愛ない言葉だったのに。
「わたしが奇跡を信じなかったから、あんたのこと助けられなかったのかなぁ……」
 違うよ。叶恵はなにも悪くないよ。悪いのはわたしだ。試合に遅れちゃうと思って、無理して赤信号を渡ろうとしたからだ。全部わたしのせいなのに。
「今更だけど、起きないかなぁ」
 叶恵はまた泣き出した。
「奇跡が起きてほしいよ……」
 友達の悲しみに染まる声を聞くのは、心に無数のガラス片を突っ込まれるほど痛かった。
「お願い……帰ってきて……花耶……」
 わたしはたくさんの人を悲しませている。お父さんを、お母さんを、おばあちゃんを、クラスのみんなを、叶恵を。それに――と、左手で涙を拭った。まだそこで輝いているシルバーの指輪。征一がくれた人生最初の、最高のプレゼントだ。
 花耶は、この場に姿を見せなかった恋人のことを想っていた。

 あくる日、自分の身体が火葬されると、花耶は自由になれた。今までは遺体から遠く離れることはできなかった。十メートルも離れようとすると、足の裏が地面にくっついて動けなくなってしまっていた。でも骨になった途端、どこへでも行けるようになった。だから花耶は征一の家へ向かった。かつて一度だけお邪魔したことのあるJR横須賀駅の近くのマンションだ。自動ドアをすり抜けて二十階にある彼の自宅に入ったが、征一の姿はどこにもなかった。
 花耶は踵を返して走り出した。必死になって彼を捜した。太陽が沈みはじめた街角を。初めてバスケをしているところを見た海沿いの公園を。秋のデートで出かけたはまの花畑を。冬に二人で歩いた近所の海を。バスケを続けることを宣言してくれた駅のホームを。
 しかし彼の姿はどこにもなかった。思い当たる場所はもうひとつだけだ。
 この日の学校は静かだった。花耶の死を受け、喪に服すために数日間は部活動が中止のようだ。
 体育館の扉は固く閉ざされている。中には誰もいない。教室へ行ってみよう。花耶は渡り廊下を通って校舎へ入った。橙色に染まる階段を上って、二階の廊下の突き当たりにある二年A組の教室の前までやってきた。ドアをすり抜けて中へ入ると、そこに彼を見つけた。
 膝を抱えて死んだように座っている征一がいる。黒板の前で静かにうずくまっている。大きな彼の身体が今日はとても小さく見えた。
「征ちゃん……」と声をかけたが、その声はやはり届かない。花耶は下唇を嚙んだ。
 それから何時間くらい経っただろうか。太陽は明日へ帰り、月が命を宿したように窓の向こうで白く輝いている。それでも征一は動かぬままだ。花耶は少し離れた席から彼のことを見ていた。
 げつが教室の床に青色の光のまりを作っている。真夏にしてはやけに冷たい夜風が開かれた窓から迷い込んで、慰めるように彼の肩を叩く。その風の感触に誘われて征一がゆるゆると顔を上げた。涙で腫らした両目は真っ赤だ。月明かりの中でもそれがよく分かる。なんて痛々しいのだろう。
 彼が「花耶……」とささやいた。花耶は思わず立ち上がる。
 もしかしてわたしの気配を……?
 入学式のあとのように目が合った気がした。しかし気のせいだ。征一は首を振る。こんなところにいるはずもないのにと苦笑している。それから彼は這うようにして立ち上がった。そして、風に消えてしまいそうなほど小さな声でなにかを呟いた。花耶は聞き漏らさぬように耳をすました。
「約束……」
 約束? 花耶は首を傾げた。
「守れなくて、ごめんね……」
 約束って? 彼女は心の中で訊ねた。
「ちゃんと言ってあげればよかったね」
 涙の予感で鼻の奥が痛くなった。その約束がなにか分かったからだ。
 征一は、あの日の花耶のようにチョークを取った。そして黒板に走らせた。
 彼女の頰が涙で濡れたのは月の光のせいじゃない。黒板の字を見たからだ。二人の間を強い風が通り過ぎると、カーテンが羽のように羽ばたいた。黒板の粉受けに積もっていたチョークの粉がその風に誘われて舞った。赤、黄、白の粒子が宙を泳ぐ。月光に照らされて鮮やかに輝いている。言葉を交わせぬ二人の間に降り注ぐと、教室が銀色の世界に変わった。その光の向こうに征一の整った文字がある。そこには、こう書いてあった。

  僕も君のことが好きだよ

 初めて伝えてくれた「好き」って言葉だ。そのたった二文字の短い言葉が、なによりも尊くて、なによりも愛おしい。ずっとずっとほしかった特別な言葉だ。
 彼は黒板に背中を預けると、チョークの粉で煌めく教室内をぼんやりと見つめていた。
「征ちゃん」
 花耶は届かぬ声で彼に言った。
「目を閉じて……」
 届かないことは分かっている。それでも伝えた。
「お願い」
 すると、チョークの粉が目に入ったのだろうか。彼がそっと両目を閉じた。その拍子に涙が一筋頰を伝った。それを合図に花耶は歩き出した。宙を舞うチョークの粉の輝きの中を進み、まっすぐ、一歩一歩、征一に向かってゆく。そして彼の前に辿り着くと、愛おしげに征一を見上げた。
 花耶は征一にくちづけをした。
 それはただの仕草にすぎない。触れられないキスだ。
 それでもよかった。どうしても最後に一度だけしたかった。
 ぬくもりのないキスを交わす二人を月が照らす。床に伸びた影はひとつだけだ。彼の右腕に触れる仕草をする花耶の左手で指輪が輝いている。大好きな征一がくれた一番のプレゼントだ。
「変わらないよ」と彼の声がした。
 花耶が目を開くと、もう一度だけ、目が合った気がした。今度は気のせいなんかじゃない。しっかりと、あの桜の朝のように、目が合っている。
「ずっと変わらないからね。花耶のこと、ずっと好きだからね……」
 その宝物のような言葉を抱いて、花耶は心の奥でそっと思った。
 ずっと運命の人がほしかった。
 この世界にいる唯一の誰かと出逢いたかった。初めてあなたに逢ったとき、この人だって確信したんだ。バカみたいに心から信じたんだ。でも――。
 わたしたちは、運命の人同士じゃなかったね……。

 次の春がやってきた。
 あれから九ヶ月が経ち、征一は三年生になった。学校は今も休みがちだ。行けば花耶の面影を探してしまうからだろう。かといって、家にいると親を心配させる。だから毎日のように海辺の公園で過ごしていた。バスケットコートを有する公園では、少年たちが3オン3のゲームに興じている。その様子をベンチに座って眺める征一。その傍らには花耶がいる。
 あれから彼女は、毎日毎日、征一の隣で過ごしていた。
 毎日毎日、泣き続けている恋人の姿を、ただただ横で見つめ続けた。
 毎日毎日、苦しくてたまらなかった。辛い辛い日々だった。
 春色の公園。ソメイヨシノは満開に咲き誇り、憎らしいほど愛らしい花を枝にまとっている。
 征一は手のひらの上の指輪をぼんやり見ていた。花耶にプレゼントしたあの指輪。遺品として譲り受けたものだ。収まる場所を失った指輪は彼の悲しみを反射するように鈍い色に光っている。
 ひとひらの花びらが征一の髪に止まると、花耶は「桜、ついてるよ」と微笑んだ。本当ならこの手で取ってあげたい。でもそれはできない。だからこうして見守っている。
 征一も気づいたようで髪から桜を摘まんで取った。
 するとそこにバスケットボールがバウンドしてやってきた。少年の一人がキャッチミスをしたらしい。オレンジ色のボールが征一の隣に置いてあったペットボトルを倒して地面へ落とす。サイダーがこぼれてボールが濡れてしまった。まるであの日のようだ。征一は指輪をズボンのポケットにしまってベンチから立ち上がると、ボールを拾って「ごめん、濡れちゃったよ」と少年に返した。
 地面にできたサイダーの水たまりに桜の花びらが落ちる。
 ゆらゆらと泳ぐ薄紅色の花を見て、彼が「花耶」と囁いた。
 なに? と花耶は応えた。
「あの日、この公園で君に冷たくしちゃったね」
 本当だよ、とむすっと眉をひそめた。
「ごめんね……」
 ううん、と首を振る。そして思った。
 ねぇ、征ちゃん。わたしたちは運命の人同士じゃなかったね。
 運命の人なら、ずっと一緒にいられたもんね。でも――、
「でも、あのとき実は、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
 そう言って、征一は恥ずかしそうに微笑んだ。
「僕を気にして、追いかけてくれたことが」
 運命の人じゃなくても、この恋は――、
「だから、ありがとう。花耶」
 運命の恋だって信じたい。
「僕は変わらないよ」
 わたしも変わらないよ。
 あの頃となにも変わらない。
「ずっとあの頃と変わらないから」
 征一は、声を震わせながら言った。
「ずっと、ずっと、大好きだよ……」
 わたしもだよ。ずっと、ずっと、あなたが大好き。
 花耶は左の薬指で薄ぼんやりと光る指輪を見つめた。
 ――指輪って、心とつながるものなんだ。
 あの日、この指輪をくれたデートの帰り道で、茶化すようにロマンチックなことを求めたときに彼が言ってくれた言葉だ。
 子供の頃から思ってた。遠い未来のことなんて分からない。永遠の愛とか、消えない想いも、来世も、別に信じてなかった。そんな不確かなものよりも、それよりも今、この瞬間に「好き」って言葉がほしかった。でも、彼の言葉だけは信じたい。ずっと変わらないよって言葉だけは。それに、征ちゃんがくれたこの指輪があれば、わたしたちの心はずっと一緒だ。
 わたしの心は、この想いは、ずっとずっと残り続ける。だから――、
 征一が力なく歩き出す。その背中を見つめる花耶。
 彼が去った場所には、指輪がぽつんと残されていた。
 ボールを取るとき、ポケットからこぼれ落ちてしまったのだろう。
 花耶は指輪に視線を向けた。
 お願い。彼に奇跡を届けてあげて。
 そして、左の薬指の指輪を外した。
 宝物の指輪にひとつの願いを込める。
 征一が落としていった指輪の上に重ねた。
 溶けるように、指輪がひとつに合わさった。
 そっと微笑み、心から祈った。本気で祈った。
 神様に、世界のどこかにいる誰かに、届くように。
 未来の彼に、どうか奇跡が起こりますように……と。