「ほんと。バスケを続けるきっかけをあげたっていう最強のヒロインポジションをゲットしたのに、なにボサッとしてんのよ。さっさとしないと、そこらの脇役美女に奪われちゃうわよ?」
困る困る。それは困る。美女が出てきたら勝ち目はない。主役の座をあっさりと奪われてしまう。わたしは可愛くない。背は百六十センチくらいあるけど、スタイルは全然ダメだし、髪だってゴワゴワでメイク映えする目鼻立ちじゃない。どうやったって美女には太刀打ちできないよ。
「でもさ、なんていうかさ、タイミングを逃しちゃったのよね」と花耶は肩を落とした。
「タイミング?」
「告白するタイミング。そりゃあ、一緒に帰ることも多くなったし、他愛ないことを話せる間柄にもなれたと思うよ? だけど告白する雰囲気には、なかなかなれなくてさ」
「なら、今日告白すれば?」
「今日!?」
「思い立ったが吉日って言うでしょ」
「無理だよ無理! 今日は無理! 仏滅だし!」
「若いんだから仏滅とか気にしないでよ。じゃあ夏休み明けまで待つつもり? 来週から一ヶ月以上、逢えなくなるんだよ?」
「じゃあ夏休み中に逢う約束する!」
「ラインも交換してないのに?」
うっ……と、花耶はたじろいだ。未だにラインのIDも、インスタのアカウントも、電話番号も訊けていない。そんな臆病者の自分が情けない。
「知らないよ~。夏休みの間に彼にぶっちぎりに可愛い彼女ができちゃってもさ~」
ぶ、ぶっちぎり……。それは嫌だ。絶対にイヤだ。
よし、こうなったら――と、花耶は下腹部に力を込めて立ち上がった。
「分かった! する、告白! 今日、絶対する!」
橙色の教室に浮かない顔の花耶が一人。さっきから落ち着かなくて室内をぐるぐるぐるぐる回っている。壁の時計を見ると、もうすぐ部活が終わる時間だ。学校の規則で部活動は六時までと決められている。あと十分もしたら彼がここに来る。そして、あと十五分もしたら人生初の告白タイムだ。そう思うと心臓が口から飛び出して床を転がって埃まみれになってしまいそうだ。
さっきホームルームのあと、彼にこっそり「放課後、教室で、待ってる。話ある」と伝えた。死ぬほど緊張した。しゃべり方が壊れたロボットみたいになってしまった。それなのに、「好き」だなんて伝えたら、どうなってしまうか分からない。目とか口から出ちゃいけないものが出てしまうかもしれない。そのくらい過去最大級に緊張していた。
でもな、叶恵の言うとおりかもしれないな。今のままでいいわけないよね。クラスメイトって呼ぶにはちょっと物足りなくて、友達ともちょっと違う。かといって恋人と呼ぶにはまだまだ幼い。そんな関係に今日こそ終止符を打ってみせるんだ。う~~ん、でもなぁ! フラれたら気まずくなるよなぁ! 今の良好な関係が崩壊しちゃうよなぁ! それはすんごく困るよなぁ! と、さっきからそんなことを考えてばかりだ。そして教室をぐるぐる。身体中が汗でびっしょりだ。
「ごめん、安藤さん。待った?」と征一の声がして後方のドアが開いた。
黒板の前にいた花耶は石のようにカチンと固まる。彼が入ってきた。予定よりも五分ほど早い。まだ告白の言葉も決めていないというのに。
「は、早かったですな」
「なにその変な口調」と彼は目を糸のようにして愛らしく笑った。「三年生が引退して、新体制になったばかりだからね。ちょっとだけ早く終わったんだ。それで、話って?」
「あ、新体制ってことは、市村君もレギュラーになれるチャンスがあるってこと?」
「どうかな。難しいと思うな。まだ膝も痛いし、練習も時々休んでるから。みんなについていくだけで精一杯だよ。今の目標は引退までに一試合だけでもいいから出ることかな。それで、話って?」
「たった一試合だけでいいの?」
「うん、いいんだ。中学生の頃みたいにプレーすることはもうできないし、随分下手になっちゃったけど、こうしてバスケができているだけで嬉しいから。安藤さんのおかげだよ」
「わたしはなにも」
「ううん、感謝してる。ごめんね、ちゃんとお礼言ってなかったね」
「とんでもないっす……」
彼のこういうサラッと嬉しいことを言ってくる感じはズルいと思う。天性のイケメンスキルだ。ますます緊張してしまうじゃないのよ。
「それで、話って?」と征一がまた訊ねてきた。
も、もしかして勘づいてる? さっきから「それで、話って?」って連呼してくるし。
緊張が頂点に達した。束ねた髪からこぼれたもみれ毛を指先でくるくるさせる。花耶の強ばった表情に気づいたのか、征一も首の後ろを撫でて視線を逸らしていた。彼の緊張も痛いくらい伝わってくる。無言の二人。開かれた窓の向こうから下校途中の男子生徒の笑い声が聞こえる。金属バットがボールを弾く快音が響く。風がカーテンを微かに揺らす音。優しい夕風が迷い込んできた。
言葉って不思議だな……と、花耶は思った。
わたしはおしゃべりだから、いつも友達とどうでもいいことを何時間でも話してる。言葉の無駄遣いをしてばっかりだ。それなのに、今は「好き」っていう二文字が出てこない。たった二文字なのに、口にすれば一秒なのに、それでも、どうしても口に出せない。もし言ってしまったら世界の形が変わってしまうかもしれない。人生が変わってしまうかもしれない。そんな禁断の呪文みたいに思えて、どうやったって言葉が出ない。声がかすれちゃったらどうしよう。届かなかったらどうしよう。そんな臆病風がさっきから目の前の空気を揺らしているんだ。
何分くらいが経っただろうか? 体感では十分、いや、二十分以上が過ぎたようにすら思える。本当は十秒くらいなのだろう。もう限界だった。征一もそのようだ。「そろそろ帰ろうか」と苦笑いで夏服のシャツをパタパタさせて鞄を背負った。
ねぇ――と、黒板を背にして、思い切って彼を呼んだ。征一が目だけでこちらを見る。
花耶は熱い吐息に言葉を混ぜた。
「目を閉じて……」
「え?」
「お願い」
「う、うん」
彼は困惑しながら、静かにそっと目を閉じた。
中学生の頃、クラスの友達が好きな人にラインで告白しているのを知って「好きなら直接伝えるべきだよ!」なんて偉そうに語ってしまったことがある。でも今日、初めてみんなの気持ちが分かった気がする。フラれるのが怖いから。「ごめん」って言われてしまったら、そのあとの気まずい空気に耐えられないから。彼の微妙なリアクションを見るのが辛いから。必死な顔を見られたくないから。理由はたくさんある。だからついついラインに逃げちゃう。
だけど――花耶はチョークを手に取った。そして黒板に走らせた。
だけど、それより、わたしは見たい。
「いいよ。目、開けても」
彼のまぶたがゆっくり上がる。
見たいんだ。一番最初に好きって伝えたときのあなたの顔を。
だってそれって、人生でたった一度だけの瞬間だから。
後にも先にもこの一回だけ、そんな唯一の表情だから。
彼の整った顔が赤く染まったのは夕陽のせいじゃない。黒板の字を見たからだ。二人の間を強い風が通り過ぎると、カーテンが羽のように羽ばたいた。黒板の粉受けに積もっていたチョークの粉がその風に誘われて舞った。赤、黄、白の粒子が宙を泳ぐ。夕陽に照らされて鮮やかに輝いている。無言の二人の間に降り注ぐと、教室が虹色の雪の世界に変わった。その光の向こうに花耶の不器用で控えめな文字がある。そこには、こう書いてあった。
あなたのことが好き
その文字を見つめる征一の瞳が瑞々しい輝きに彩られている。熱そうなほっぺた。その下の厚ぼったい唇が微笑みの形に変わる。三日月のような優しい目。柔らかな笑顔だ。
「ありがとう」と、彼は言ってくれた。
でもそれ以上の言葉はなかった。花耶にも返事を訊く勇気はなかった。
帰り道、駅までやってきた二人はずっと無言のままだった。自動改札機に定期券をタッチしようとする花耶を、「あのさ」と征一が引き留めた。振り返ると、彼は頰を赤らめながらこう言った。
「スマホの番号、教えてくれないかな」
「え? ラインのIDじゃなくて?」
「うん、電話番号がいいんだ」と彼が俯きがちにぼそっと呟く。なんだかすごく緊張している。
言葉の意図は分からなかったが、花耶は自分の番号を口にした。彼はそれをiPhoneに入力する。連絡先のアプリの新規登録。名前と電話番号と誕生日。それから『関係と名前』の欄をタップした。親でも兄弟でも友達でもない。『その他』を選んで、こう打った。
僕の恋人――。
それからすごく照れくさそうに、上目遣いでこっちを見て、
「これで登録してもいい?」
さっきの告白の返事をしてくれたんだ。
我慢しなきゃ顔が緩んで溶けてしまいそうだ。なんて答えていいか分からない。だから「いいっすね。いい感じっす」と意味不明なことを言ってしまった。彼は「なにそれ」と笑った。それを合図にいつもの二人に戻れた。ううん、いつもとは違う。全然違う。
今日から恋人。恋人同士。新しい二人だ。
帰りの電車の車窓に広がる世界の色が、毎日のように見てきた退屈な風景が、今日は噓みたいに鮮やかで素敵だった。恋は、世界の色を変えてしまう不思議な魔法みたいだ。
茜色の夕陽が架線柱や送電線に遮られて黒い影のアクセントを作る。花耶は嬉しそうにその光景を見て笑っている。彼女の心は今、夕陽よりも眩しい色に染まっていた。恋という名の美しい色で。
こうして花耶の恋ははじまった。運命の人との初めての恋が。
あっという間に終わってしまう、ほんの束の間の短い恋が……。
初めてのプレゼントは可愛らしい指輪だった。
花耶の十六回目の誕生日。寒い冬の日、部活が休みだった彼と出かけた遊園地でもらったのだ。
シンプルなクロスリングの真ん中で小さな石が光っている。イミテーションのダイヤだけれど、太陽にかざすと誇らしげにキラリと笑うように輝いていた。普段ピアスやネックレスをつけない花耶にとって――つけたい気持ちはあるけど恥ずかしいのだ――人生最初のアクセサリーがこの指輪だった。だから嬉しさもひとしおだ。感激のあまりキャーキャー騒いで周囲の人たちに白い目で見られてしまった。彼も恥ずかしそうだった。だけどこの喜びは止められない。
「ねぇ、つけて!」と彼に渡すと、征一は迷いなく花耶の左手を取った。彼女は驚いた。
「左の薬指につけるの!?」
そう告げた途端、彼の顔は節分の鬼のように真っ赤になった。きっと頭の中で〝結婚〟の二文字が浮かんだのだろう。慌てて左手を離して反対の手を取ろうとしたが、花耶は右手を引っ込めて顔をしかめる。ううんと首を大袈裟に振る。人生最初の指輪だ。最初の恋人からの贈り物だ。どうせだったら特別な指につけてもらいたい。そう目で訴えると、征一は観念したようだ。もう一度、花耶の左手を取り、はにかみながら薬指に指輪をはめてくれた。二人を祝福するように、真っ白な初雪がふわりと彼らを優しく包んだ。
二人の恋は順調すぎるほど順調だった。付き合って半年、周りから見たら亀のような歩みかもしれない。それでも二人の恋には二人だけのリズムがあった。二人だけの呼吸があった。二人にしか分からない特別な時の流れがあるように思えた。とはいえ、百パーセント完璧な恋など存在しない。不満という名の小さなシミは純白の恋を汚してしまうものだ。花耶にとって唯一であり最大の不満、それは、征一が「好き」と言ってくれないことだった。今では花耶が口癖のように「好き」と伝えている。最初はあんなに伝えるのが大変だった特別な二文字は、一度口にしてしまうと、洪水のように溢れ出して止めることができない。だから逢うたびに、一日の終わりに、学校で隠れて、たくさんたくさん「好き」って伝えた。だけど彼から一度だって「好き」という言葉をもらったことがない。今は指輪のプレゼントで満足だけど、それでもいつかはとっておきの「好き」が欲しいのです。と、そんなことをぶつぶつ叶恵に文句を言う花耶だった。もちろん、叶恵は「恥ずかしいから、他の人には言っちゃダメよ」とからかってくる。でも恋とは常に恥ずかしいものなのだ。
高校二年生になると、征一とは別々のクラスになってしまった。叶恵とは同じクラスになれたが、花耶はショックで昼食の菓子パンをふたつからひとつに減らすくらい食欲を失っていた。
「たちかへり 泣けども吾は 験無み 思ひわぶれて 寝る夜しそ多き」
「なにそれ? どういう意味?」と叶恵が箸を止めた。
「万葉集に載ってる中臣宅守の歌。『春がめぐってきても、私は何度泣いてもどうしようもない。あなたを思い、やるせなく眠る夜が多いのです』って意味。今のわたしにぴったりだと思わない? やっと春が来たっていうのに、クラス替えで彼と離ればなれになるなんて。やるせない夜が多いわ」
「はいはい、ごちそうさま。でもさ、よかったんじゃないの?」
「よかった? どうして?」
「勉強に集中できるじゃん。大学、行くことにしたんでしょ?」
「まあね」と花耶は恥ずかしそうにほっぺたを搔いた。
征一と付き合ってからの一番の変化は、夢ができたことだと言っても過言ではない。
花耶の夢、それは――、
「大学でなんの勉強がしたいの?」
「わたしね、先生になりたいんだ。高校の先生」
「へぇ~、あんたが先生ねぇ~」と叶恵は驚嘆の吐息を漏らした。
「バスケを頑張ってる彼を見て、わたしもなにか頑張らないとって思ったの。でね、自分の好きなものってなんなんだろうって改めて考えてみたんだ。それで気づいたの。勉強は嫌いだけど、唯一和歌は好きかもって。だったらそれを仕事にしたいなって」
「いいんじゃん。似合うと思うよ。生徒にナメられてる先生の花耶って」
そう言って茶化してきたけど、叶恵の優しげなその目は、花耶の夢を心から応援してくれていた。
自分の中に隠れている新しい想い、新しい目標、新しい夢。そういうものに出逢えるきっかけをくれた恋人に改めて感謝したい気分だ。もちろん応援してくれる親友にも。
「指定校推薦取るつもりなんでしょ? だったら次の試験は頑張らないとね。あ、じゃあ、その前に横浜に買い物にでも行かない? 明日はどう? 夏休み初日だし!」
「ごめん! 明日は用事があるの!」
「用事?」
「うん。明日、征ちゃんが初めて試合に出るの」
彼はあれからも努力を続けていた。未だに膝は完治していない。レギュラーの座もまだまだ遠い。しかし先日、バスケ部の顧問の先生から「次の試合では出番を作るから、しっかり用意しておけよ」と言ってもらえたのだ。彼は大喜びだった。その夜は珍しく一時間以上も長電話をして喜びの声を聞かせてくれた。以来、彼は練習に燃えている。逢う時間がますます減ったのは寂しいけれど、それでも彼の努力が実ろうとしていることがなによりも嬉しい。だから明日は、その雄姿をどうしてもこの目に焼きつけたかった。
「そっか。じゃあ、しっかり応援しておいで」
叶恵が先に教室に戻ると、花耶は一人、夏空を見上げた。そしてもう一度、奇跡を願った。
明日、征ちゃんが大活躍できますように……と。
その夜、征一にラインを送った。
『明日の試合、10時からだよね! 遅刻しないように、がんばって起きるね!』
『多分途中交代で出ることになると思う。相手はかなり強いから。だからあんまり期待しないで』
『ううん、期待期待! 大期待だよ! めちゃくちゃ期待してます!』
『とりあえず、ワンゴール決めることを目標にするよ』
『うん! がんばって!』
『ありがとう。じゃあまた明日。おやすみ』
『待って!』
『なに?』
『今日も征ちゃんのことが大好きだったよ』
『それはどうも……』
『征ちゃんは?』
困り顔をしたネズミのスタンプが届いた。
『おーい、スタンプで逃げるなー』
『明日、言うよ』
『ほんとにぃ~?』
疑いのまなざしのスタンプを送った。
『明日、シュート決めたら言うから』
『ほんとね!? 約束だよ!』
『うん、約束』
しかし、その約束は叶わなかった。
あくる日の試合会場に向かう途中で、花耶は車に撥ねられて死んだ。
彼がシュートを決めたかどうかを知ることもなく、教師になるという夢を叶えることもなく。運命の人と結ばれぬまま、花耶は十六年という短い生涯を風のように駆け抜けていった。
お母さんが泣いている。お父さんも、おばあちゃんも。それに、叶恵も……。
病院の霊安室のベッドの上に亡骸になった自分がいる。花耶はその姿をただ呆然と部屋の隅から見つめていた。自分はここにいるのに誰にも話しかけることができない。触れることもできない。ただこうしてみんなが泣いているのを見ているだけだ。身体がやけに軽い。その気になれば、どこへでも飛んでゆけそうなくらい体重を、いや、命の重さを感じることができなかった。
なんだか悪い夢を見ているみたいだ。花耶は両手のひらに目をやった。傷ひとつない肌は白く透き通るように美しい。しかしそこに血の巡りを感じないのは、命が尽きてしまったからなのだろうか? でも今もこうしてここにいる。そんな曖昧な存在の自分が恐ろしく思えた。
わたしはこれからどうなるんだろう。そう考えた途端、言い知れぬ恐怖が胃の底から込み上げてきて吐き気に変わった。不安という刃物で心を引き裂かれているようだった。しかしそれよりも、目の前で泣いている大切な人たちの涙が、今の花耶にはなにより痛くてたまらなかった。