愛しい私のあなた、独りで悩まないでください。いざというときには、たとえ火の中でも、水の中でも、私は飛び込んでみせるから。
千二百年以上も昔の人も、わたしと同じように思っていたんだな。この歌を詠んだ人は、愛しい人のためにすべてを捧げたのかな。わたしは恋するあの人のために、一体なにができるんだろう。奇跡を願うことくらいしかできない、こんなわたしなんかに……。
その日は、静かな放課後だった。テスト期間中は部活動がすべて休みになるため、夕方になると校舎は怖いくらいに静まり返る。図書室で明日の試験科目の勉強をしていた花耶は、見回りの先生に帰るように促され、勉強道具を鞄に突っ込み廊下へと出た。これっぽっちの勉強でどうにかなるとは思っていない。付け焼き刃もいいところだ。でも今日の惨敗の罪悪感から、少しくらいは勉強しなくてはと思ったのだった。
下駄箱でローファーに履き替えて校舎の外へと一歩出ると、そこはもう見渡す限りオレンジ色の世界だった。いつもより影法師の色を濃く感じる。黒が長く伸びて校庭に横たわっている。その漆黒をまたぐように大股で校門へと向かう。そのときだ。ダム……と、バスケットボールが弾む音が聞こえた。体育館からだ。その音が、あの公園で聞いた音と重なる。征一だとすぐに分かった。しかし花耶は視線を逸らして無視するように俯いた。どうせわたしは嫌われているんだ。それにわたしじゃなにもできない。顔を合わせたところで意味なんてない。そう思いながら下を向いて歩いた。
しかし心が身体を止めた。足の裏が地面にくっついているみたいに動かない。
このまま逃げていいの? 本気で思ったんじゃないの? 彼のためなら、たとえ火の中、水の中でも飛び込んでみせるって。それなのに、このまま下を向いて逃げてもいいの?
暮風が花耶の背中を押す。風が「行きなさい」と言ってるみたいだ。
その風に力を借りて、花耶はゆっくり踵を返した。
そして踏み出した。右のローファーが地面の砂埃を舞い上げる。
それが、彼女の人生を動かす一歩となった。
体育館では征一がシュート練習をしていた。無造作に床に置かれたブレザーの影が伸びるコートで、小気味よいバスケットシューズの靴音が鳴り響いている。
彼が放ったジャンプシュートがリングに嫌われる。ボールが床を跳ねて花耶の方へと転がってくる。追いかけてきた征一が彼女に気づいて、あの日のように視線を逸らす。花耶はボールを拾って彼に差し出した。征一は「ありがとう」と短く呟き、花耶の手からボールを取ろうとしたが、
「怪我のこと、聞いたよ」
征一の手が止まった。前髪の間から覗く片方の目が驚きで丸くなっている。
「ごめんなさい。市村君の通っていた中学校に行って、顧問の先生に訊いちゃったの」
どうして正直に言っちゃったんだろう。嫌われるに決まっているのに。軽蔑されるって分かっているのに。でも嫌だった。好きな人に噓だけはつきたくないんだ。
「ストーカーかよ」と吐き捨てると、彼は乱暴にボールを奪った。それから背を向け、ドリブルしながら歩き出した。
「どうしてバスケ部に入らないの?」
彼はなにも言わない。
「膝の怪我が治っていないから?」
なにも言わない。
「有名高校からスカウトがたくさん来るような選手だったんでしょ? もったいないよ。もう一回頑張ってみなよ。わたし応援する。上手くいくように毎日神社でお祈りする。だからもう一回――」
「うるさい」と彼は語気を強めた。それから「お前には関係ないだろ」とシュートを放った。
彼の戸惑いを乗せたボールはまた外れてしまった。着地した途端、右膝が痛んだのか、征一は顔を歪めた。花耶は靴を脱いで体育館の中へ入ると、ブレザーの脇に転がったボールを拾った。そして、ボールを見つめながら叶恵が言っていたあの言葉を思い出した。
――願ってみれば? 奇跡が起きることを。
わたしにできることは奇跡を願うことだけだ。それでも――花耶は決意を込めて振り返った。
「ねぇ、市村君。奇跡って信じる?」
「奇跡?」と征一は眉をひそめた。
「うん、奇跡」
それでも、心から願えば起こるかもしれない。
「わたしが奇跡を起こしたら、もう一度バスケをやってみない?」
「なに言ってんの? 奇跡なんてどうやって起こすんだよ」
「そうだなぁ」と花耶は斜め上を見た。
それからひらめき、「あ!」とボールをポンと叩いた。
「わたしね、バスケってほとんどやったことがないの。中学の体育の授業でちょこっとボールを触ったくらい。だからめちゃくちゃ初心者なの」
「だから?」
「だから、今から十回連続でシュートを決めたら、それって奇跡だって思わない?」
征一は呆気にとられていた。口が半開きになっている。
「フリーなんとかラインから十回連続でゴールを決めたら奇跡決定! そしたら市村君はもう一度バスケを頑張る! どうかな!?」
彼は口の端を微かに歪めた。馬鹿にして笑ったんじゃない。虚を衝かれて思わず苦笑いが漏れたのだろう。「どうせ無理だと思うけど」とステージの上に腰を下ろした。
どうやら誘いに乗ってくれたみたいだ。花耶は嬉しくなって彼を指さし、
「言ったね! 約束だよ!」
そして、勢いよくブレザーを脱ぐと、靴下まで脱ぎ捨てた。彼に裸足を見せるのはなんだか恥ずかしいけど、滑ってシュートを外したら元も子もない。こうなりゃ本気だ。なにがなんでもゴールを決めてやる。その気概でフリースローラインの前で仁王立ちした。
しかし「ゴ、ゴールまでってこんなに遠いの?」と臆してしまった。
口の端をヒクヒクさせながら彼のことを見ると、征一は冷ややかな目をこちらへと向けていた。ハナから成功するとは思っていないようだ。さっさと終わらせてほしいと言いたげな憎たらしい表情を浮かべている。その顔にムカついて、花耶のハートに火がついた。
よぉし、やってやろうじゃないのよ。気合いを入れて、両手のひらにそれぞれ息を吹きかける。両手でボールをしっかり持って頭上で構えた。そして思った。
どうしてこんなにムキになっているんだろう。市村君と仲良くなりたいから? 好きになってもらいたいから? どれもちょっと違う気がする。ああ、そっか。わたしはただ――、
両膝に力を込めてジャンプした。そして、思い切りボールを放った。
ただ、見たいんだ。
彼が笑ったところを……。
ボールが不器用な軌道を描いて飛んでゆく。
入学してから今日までずっと寂しそうな顔をしている彼が、思いっきり、心から、笑うところを。楽しそうに笑う姿を。わたしはただ、見たいだけなんだ。
だからお願い。神様、奇跡をください。
ボールがリングの手前にぶつかって上へと跳ねた。花耶は「あ!」と声を上げた。
もう一度リングの縁でバウンドすると、ボールはそのままネットを揺らした。
「やったぁ!!」
バンザイして喜ぶ花耶。征一は無表情だ。ステージから降りてきてボールを拾うと、ワンバウンドさせてこちらへパスをした。それから「二本目」と冷たく言った。
あと九本もあるのか。奇跡への道のりはなかなかに遠い。花耶は深呼吸してボールを構えた。さっきの感じを身体が覚えている。同じように、同じリズムで、同じタイミングでボールを放つんだ。
奇跡を信じてシュートを打った。
ボールは美しい軌道でリングをくぐった。その途端、冷静だった征一もちょっとだけ動揺したようだ。花耶はしてやったりと言わんばかりの表情で彼のことを見やった。
「ふふふ、わたしって天才かも!」
そしてボールを拾って再びラインに立った。
なんだろう。すごく嬉しい。シュートが二本連続決まったからじゃない。高校生になってから、こんなに楽しいのは初めてだからだ。高校デビューに失敗して、クラスに馴染めず、友達もできなくて、なんだかいつも息苦しかった。ため息ばかりの毎日だった。でも今日、久しぶりに心から笑えている。心からワクワクしている。そんな自分が嬉しいんだ。
彼の笑ったところを見たいだなんて思ったけど、でも違うや。笑顔にしてもらったのはわたしの方だ。一人で勝手に盛り上がって笑っているだけだけど、それでも、今日のこの笑顔は市村君がくれた笑顔だ。生まれてからの十五年間で一番最高の笑顔だと思う。
この気持ち、彼に返したいな。
深呼吸をひとつした。三投目だ。花耶はありがとうの気持ちをボールに込めた。そして願いと共にシュートを放った。彼も笑ってくれますように……と、心から願って。
ボールが綺麗な弧を描く。空気中を漂っていた埃の膜を裂いて、窓から差し込む夕陽を浴びて、ゆっくりと、美しく飛んでゆく。太陽の光を受けて、ボールの縁が笑うように輝いた。
いけ……! 花耶は拳を握った。
しかし、リングにかすることなく無残に地面に落下した。
体育館にボールの弾む音が響く。乾いた寂しい音だった。花耶は言葉を失った。一方の征一は至極当然と言わんばかりの表情だ。ボールが舞台下の収納台車にぶつかって、こちらへ戻ってくる。裸足の足元で止まると、花耶は無言でそれを拾った。彼が「まぁ、頑張った方だと思うよ」とやってきた。手のひらを向け、ボールを返すよう目で言ってくる。もう帰りたいようだ。
花耶は「うん、頑張ったよね」と、わずかに笑った。それからボールを彼に渡して、
「じゃあ、次は市村君の番だね」
「は?」
「君が十本連続ゴールを狙う番」
「なに言ってんだよ。話が違う――」
「今度は」
大きく放ったその声に、征一は思わず言葉を吞んだ。
花耶は真剣なまなざしで彼に伝えた。
「今度は、君が奇跡を信じる番だよ」
呆気にとられていた彼の口の端に皮肉の影が浮かぶ。
「奇跡なんて起こるわけないだろ」
「うん、そうかもしれない。でも奇跡が起こるかどうかを決めるのは、市村君じゃないよ」
「誰だよ? 神様とか言うつもり?」
「違うよ」
「じゃあ誰?」
「未来の君だよ」
征一の目に微かな光が宿った気がした。
「だから答え合わせしようよ。市村君が十本連続ゴールを決めて奇跡を起こせるかどうかを。その奇跡が起これば、次もまたきっと起こるはずだよ。バスケだってきっとできるよ」
征一は俯いた。ボールを持つ手に力がこもっている。自分を信じたい気持ちと、信じられない気持ち、その二つの間で揺れているのだ。闘っているのだ。それが分かるから、花耶はなにも言わずにただただ祈った。負けないでほしいと願った。
今の自分に負けないでほしい。未来の自分を信じてほしい。
征一が動いた。フリースローラインに立つと、ワイシャツの胸の辺りをぎゅっと摑んだ。自分自身に立ち向かう決意をしたのだ。花耶はゴール下の邪魔にならない場所から彼を見守ることにした。
さすがは横浜市の元最優秀選手だ。あっという間に五本連続でシュートを決めてしまった。花耶はボールを拾うことだけに徹した。応援はしなかった。彼の闘いの邪魔はしたくなかった。
六本目、七本目、八本目……ボールは綺麗にネットに吸い込まれていった。あと二本。そう思った途端、花耶の心臓は早鐘を打った。たったあと二本。しかしすさまじいプレッシャーの中で決めなくてはならない二本だ。わたしなら耐えられない。花耶は背中が汗ばんでいるのを感じた。
九本目。ボールはゴールの輪を迷いなくくぐった。いよいよあと一本だ。
フリースローラインに再び立った彼も緊張しているみたいだ。しきりに右の膝を撫でている。痛いのかもしれない。声をかけてあげたい。でもその気持ちを固唾と一緒に吞み込んだ。
そして最後の一投。彼がボールを構えた。
そのとき、二人はふっと目が合った。
征一が薄く笑った気がした。気のせいかもしれない。でも今まで見たことのない柔らかな表情だ。
驚いたのも束の間、彼はその手からボールを放った。
夕空が頭上に広がっている。群青色の空の隙間には、微かに太陽の名残を感じさせる橙色が混じっている。学校から駅までのなだらかな坂道はうら寂しい空気に包まれていて、人の気配はほとんどない。花耶は並んで歩く征一のことをバレないように横目で何度も見ていた。無言のまま俯いている征一。その横顔はなんとも悔しそうだ。
十本目のシュートは惜しくも外れてしまった。
たったあと一本。奇跡まであと一歩だったのに。
花耶は無言の重圧に耐えきれず「神様ってほんとムカつくよね!」と明るい声音で話しかけた。
「だってあと一本だよ? 一本くらいおまけしてくれてもいいじゃんね。でも十本中九本でもすごいよ。本当にすごい。もうさ、奇跡って呼んでもいいと思うけどな」
「ダメだろ。外したんだから」
ですよね……と、花耶は心の中でしょんぼりした。
困ったぞ。元気づけようと思ったのに、これじゃあ逆効果だよ。きっと彼は今、心の中で「僕ってやっぱりダメな奴だ」って思っているに違いない。これでバスケを完全に諦めちゃったら……。それってわたしのせいだよね。あーもう駅に着いちゃうよ。なんて励ましたらいいんだろう。
二人は無言のまま改札をくぐった。征一は「上り電車だから」と奥の階段に向かってゆく。
結局、声はかけられなかった。花耶は肩を落として目の前の階段に足をかけた。
駅のホームには二人以外誰もいない。向かいのホームの征一は黙ったまま黄色い線の内側に立っている。真正面からその姿を見ている花耶は、こうしている間も必死に言葉を探していた。彼を元気づける言葉が心のどこかに落ちていないか懸命に探している。
「あの!」と花耶が声を上げた。その途端、電車の訪れを告げるベルが鳴る。彼女の声はかき消されてしまった。ガタンガタンと響く車輪の音が近づいてくる。花耶が乗る下り電車だ。
電車が来ちゃう。言葉が出ない。こんな肝心なときなのに。
花耶は唇を嚙みしめて俯こうとした。
そのときだ。
「悔しかった!」
その声に、はたと顔を上げた。
「あのとき、最後のシュートを打つとき、安藤さんの言葉を信じてみたくなったんだ! 本当に奇跡が起こるような気がしたんだ!」
わたしの名前、覚えていてくれたんだ……。
「それなのに、決められなくて悔しかった! めちゃくちゃ悔しかった! あんなに悔しいのはバスケをやめてから初めてだったよ! それで、思ったんだ!」
花耶は我が目を疑った。嬉しさで涙腺が焼けるほど熱くなった。
征一は笑っていた。満面の笑みだ。
「こんな悔しい思いするのは、きっと人生でバスケだけだって!」
彼の健康的な白い歯を電車のライトが眩しく照らす。警笛がひとつ鳴った。
「だから、信じてみてもいいかな!」
「え?」と花耶は首を傾げた。
「未来の僕が奇跡を起こせるかどうか、もう一度、信じてみてもいいかな!」
「それって……」と呟くと、赤い車両の電車が二人の間に割って入った。
ドアが開いて何人かの乗客が降りてゆく。そしてドアが閉まった。重たげに走り出す電車。やがてホームは再び静寂に包まれた。反対ホームの征一の顔に新しい笑みが咲いた。電車に乗らなかった花耶を見て笑ったのだ。
花耶も笑っていた。満面の笑みで。
そして親指を立てて彼に言った。
「そんなの、信じていいに決まってるじゃん!」
彼は決意したんだ。自分の未来を、人生を、信じようって。だったら――、
「だって市村君の人生だもん!」
だったらわたしは願うだけだ。こうなりゃとことん願ってやる。神様が嫌がるくらいに。
彼の人生が、ずっとずっとこの先ずっと、遠い未来の果てまで幸せでありますようにって。
征一がバスケ部に入部したのは中間テストのすぐあとのことだった。
膝の怪我のせいでハードな練習はできない。だから入部の許可が下りるか不安だった。しかし文武両道を掲げる学校は、部活動も教育の一環だということで、征一の入部を快く認めてくれた。顧問も部員たちも怪我のことを理解して、できる限り練習に参加することで受け入れてくれたのだ。
部活初日の朝、長かった髪を切って教室に現れた征一は、女子たちの注目の的となった。突然現れたイケメンのスポーツマンにみんな驚き、あっという間に虜になってしまったようだ。
花耶は色めき立つ女子たちを見て、ヤキモチを焼きすぎて焦がしそうになった。彼の格好良さに最初に気づいたのはわたしなんですけど? とクラスメイトに宣言したかった。でもそんな勇気はない。それでも、クラスの真ん中で照れくさそうに笑っている彼を見ると幸せな気分になれた。
征一がこっちを見て小さく笑う。二人だけにしか分からない特別な合図だ。それがなによりも嬉しい。彼の笑顔を独り占めしているみたいで幸せだった。
「――それで、いつ告白するわけ?」
ぐいっと顔を寄せてくる夏服姿の叶恵のプレッシャーに花耶は思わず目を背けた。
輝くような青い夏空の下、久しぶりに叶恵と昼食を共にしていると、触れられたくない話題に触れられて困ってしまった。おかげさまで、あれから親しい友人がクラスに数人ほどできた。だから叶恵とこんなふうにご飯を食べるのは本当に久しぶりだった。
「あれから市村君と仲良くしてるんでしょ? 知ってるのよ? 部活終わりにしょっちゅう一緒に帰ってること。それなのに、なんでさっさと告白しないのよ」
「だって部活大変そうだし、邪魔したら悪いかなぁって……」
「彼って髪切ってから、めちゃくちゃモテてるのよ? この間も美人の先輩に告白されてたし」
「うそっ!」