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(集英社文芸ステーション)
いつか君が運命の人 #1 僕らはあの頃と変わらない/全文 宇山佳祐いつか君が運命の人 #1 僕らはあの頃と変わらない/全文 宇山佳祐

イラスト/つじこ

 

どうして? どうして? すごくすごく気になる。「どうして?」が頭の上でぐるぐる回った。
 花耶は自分の左薬指をもう一度見た。失言によって一度は消えたと思われた赤い糸。でもこの指からはまだかすかに糸が伸びているのかもしれない。まだ腐っていないのかもしれない。
 そして、ぎゅっと手を握りしめた。
 大丈夫だ。わたしは今も信じてる。彼が『運命の人』だって。だから諦めちゃダメだ。諦めたら糸が切れちゃう。それに簡単に諦められるような安い想いじゃない。だから――、
「あ、あの!」
 放課後の箱に花耶のこわばった声が響き渡った。上履きをしまってローファーを取り出していた征一は、彼女の声にビクリと肩を震わせた。こちらを見るなりムッと眉の間にしわを作って「なに?」と素っ気ない顔をする。その態度に花耶はひるんだ。でもここでビビったら負けだ。きっと一生後悔する。自分にそう言い聞かせ、全身全霊、頭を下げた。
「さっきは暗いなんて言ってごめんなさい! そんなつもりで言ったんじゃないんです! わたしはただ市村君がいつも寂しそうな顔をしているのが気になっただけなんです! ずっと心配してるんです! それで気になって、つい訊いちゃったんです! あなたの性格が暗いだなんてちっとも思っていません! むしろわたしと似てるって思ってるくらいです! わたしも友達作るの苦手だし、春のこの時期はいつもいっつも憂鬱なんです! だから、あの! こんなお願いしたらずうずうしいと思うかもしれないけど、もしよかったら、友達がいない者同士これから仲良く――」
 顔を上げたとき、彼の姿はどこにもなかった。
 神様、なんなんですか? このベタな展開は……。
 わたしって前世でなんか悪いことしましたっけ?
 学校を出ると、当てもなく彷徨さまよった。
 普段ならばけいきゆう線のはま駅から自宅最寄り駅であるさきぐち駅まで電車で二駅という距離なのだが、今日はなんだか寄り道したい気分だった。反対の上り電車に乗ると、そのまま横須賀中央駅で下車して、かさビル商店街でコスメをいくつか買った。おかげで財布の中身はほとんど空っぽ。お金もないし、やることもない。仕方なく海の方へと足を延ばした。ワシントンヤシモドキの木々が並ぶ海沿いの道をぶらぶら歩く。この日はうんと天気が良かった。夕方五時のあかねぞらには雲ひとつない。ぷかんと海に浮かぶさるしまの島影も太陽の光を浴びて鮮やかな色を放っていた。
 ため息がしおさいに溶けて消える。
 春の夕暮れは切ない。どんな季節よりもずっとずっと。海は薄紫色の絹が風になびくがごとく優しく、柔らかく、一定のリズムで気持ちよさそうに揺れている。その表面をオレンジ色の陽光が走ると、宝石をちりばめたように海面がキラキラときらめいた。波音が響く。時に大きく、時に優しく。まるで地球の鼓動のようだ。この星は生きている。八十億人近くの人たちを乗せて、今日も呼吸をしながら生きているんだ。その中のたった一人の女子高生の憂鬱なんて、知らんぷりして自分勝手に回っているんだ。そんなことを思いながら、灰色のように重くなった身体からだを引きずりながら歩き続けた。やがて公園が見えてきた。
 スケボーエリアとバスケットコートを有する海沿いの公園は、休日こそ人が多いが、平日のこの時間はほとんど人の姿はない。花耶は歩き疲れたのでしばらく休むことにした。近くの自動販売機でサイダーを買って園内を散策する。ペットボトルのキャップをひねると、プシュッと大きな音を立ててサイダーがあふれて手がれてしまった。
 あーもう、最悪……。またため息が溢れそうになった――が、ふと顔を上げた。
 バスケットボールのドリブルの音が聞こえたのだ。
 その音の方に目を向けると、征一がゴールに向かってシュートをしている姿があった。花耶はサイダーで濡れた手を拭うのも忘れて見入っていた。指先からしたたり落ちる透明なしずくゆうを浴びて光る。スローモーションで落ちてゆく。征一の汗もまた夕陽色に染まっていた。
 すごい……。花耶はごくりと息をんだ。征一の放つシュートも、ドリブルも、身のこなしも、素人とは到底思えない。どう見たって経験者だ。しかもかなり上手い。どうしてバスケ部に入らなかったんだろう。
 夕陽と同じ色をしたボールがネットをまた揺らすと、地面の小石に弾かれてイレギュラーにバウンドした。こちらへ向かって一直線に転がってくる。そして花耶の靴にぶつかって止まった。
 ボールを追いかけてきた征一が花耶に気づく。驚いた表情だ。すぐに気まずそうに顔を背けた。
 し、しまった。ストーカーだと思われた……。
 花耶は慌てふためいた。その拍子に手に持っていたサイダーのボトルが滑り落ちて中身がボールにかかってしまった。「ご、ごめん!」と慌てて拾って、ガーゼのハンカチで拭こうとしたが、征一は「いいよ」とそのボールを強引に奪った。興をそがれたせいか、ボールがベタベタになってしまったせいか、彼はかばんと脱ぎ捨ててあったブレザーを取って帰ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、花耶は今度こそ神様のことを心から恨んだ。
 神様、なんなんですか? まじでほんとに。
 わたしって前世で人でも殺しましたか? これはその報いですか?

 その夜、食事を終えた花耶はリビングのソファでスマートフォンをいじっていた。今日の数々の失態を思い出すと穴の中に埋まって五十年くらい熟成されたい気分だ。さっきから『激ヤバ変身メイク動画』が頭に一切入ってこない。
 アプリを閉じて検索ボックスに『市村征一 バスケ』と入力してみた。しかし彼にまつわる情報はなかった。花耶は自分の行いをまたも恥じた。
 なにしてるんだろう。これじゃあ本当のストーカーだよ……あれ?
 気になるページを見つけて手を止めた。開いてみると、それは二年前に横浜市内で行われた中学生のバスケットボール大会の結果だった。その最優秀選手の名前に目が行った。
『市村征一』と書いてある。
 名前の下には、今より幼い征一の写真が載っていた。中学二年生のときのようだ。彼はバスケットボールを持って満面の笑みを浮かべている。
 可愛い……。待ち受けにしたい。そんな気持ちもよぎったけれど、それよりも「どうして?」という疑問が頭を支配した。
 こんなに優秀な選手だったのに、どうしてバスケをやめたんだろう?
「こーら!」と頭を叩かれた。お母さんだ。
「花耶、あんた勉強は? もうすぐ中間テストでしょ?」
「もうちょっとしたらやるよ」
「またそんなこと言って。どうせ今日もやらないつもりでしょ」
「やるってばぁ! 自分だってこれからネトフリで韓国ドラマ観るくせに」
「あら、言ってくれるじゃない。お母さんはいいの。仕事頑張ってるご褒美だもん。眼福よ、眼福。でもあんたはダメー。全然勉強しないんだもの。学生の本分は勉強なのよ。まったく」
 小言がはじまったので、「はいはーい、やりますよーだ」とリビングから逃げた。
 二階へと続く階段の途中で足を止め、もう一度思った。市村君、どうしてバスケやめちゃったんだろう。横浜市の最優秀選手になるほどだったのに。あんなに上手だったのに……。

 あくる日、学校が終わると、花耶は電車に乗って横浜方面へと向かった。かみおおおか駅で普通電車に乗り換えて、二つ隣の駅で下車すると、そこから地図アプリを頼りに十分ほど歩いた。やがてクリーム色の外壁がすすで汚れた古びた校舎が見えてきた。征一の出身中学校だ。
 き、来てしまった……。花耶は自分のストーカー的行動力に若干引いていた。昨日の夜から「どうしてバスケをやめちゃったんだろう」という疑問が頭から離れずにいた。気になって仕方なかった。とはいえ、彼に直接訊くわけにもいかない。ネットのどこを探しても理由なんて書いてない。こうなったら直接母校で聞き込みをするしかない。そう思って、帰宅途中に反対方面の電車に反射的に飛び乗ってしまったのだが……。
 彼にバレたら絶対引かれるよな。ううん、引かれる程度じゃ済まないよ。軽蔑されるよ。それなのに、なにしてるんだろう。薬指から伸びる赤い糸で自分自身の首を絞めるようなをして。
 若干の後悔を胸に、花耶は校門をくぐって体育館の方へと向かった。下校が一段落したようで生徒たちの姿はもう少ない。校庭では陸上部と軟式野球部の部員たちが汗を流していた。
 無断で入ったことを叱られやしないだろうかと心配しながら体育館まで辿たどり着くと、バスケ部が練習をする姿があった。どうやら強豪校らしい。部員数が男女合わせて四十人を超える大所帯だ。花耶は体育館のドアのところからこっそり中を覗いていた。すると、スリーメンの練習をしていた生徒の一人がこちらに気づいて、顧問らしき体格の良いジャージ姿の男性になにやら耳打ちをした。
 ヤバい、怒られる。ネズミのように勢いよく逃げようとしたが、それよりも先に「そこの君! なにしてるの!?」と男性が駆け寄ってきた。花耶は観念して、ぺこりと会釈をひとつした。
「――市村がどうしてバスケをやめたか?」
 顧問であるぐち教諭と花耶は、体育館の前の石段に並んで腰を下ろしている。
「はい、教えてほしくて」と花耶はしおらしくうなずいた。
「でもなぁ、そういうのは個人情報だからさ」と江口教諭は困っていた。
「ちなみに、君は市村とはどういう関係? 同じ高校?」
 かなり怪しんでいるようだ。太い眉の下の目を糸のように細めて、こちらをじぃっとにらんでいる。
「関係ですか? ええっと……」
 なんて言おう。正直にクラスメイトですって言おうかな。でも関係が薄すぎるよな。ただのクラスメイトがなんで彼の過去を詮索してるんだろうって思われそうだ。じゃあ友達? でもな、友達だったら直接訊けばいいじゃないかって思うよね。よし、やっぱりここは、これしかない。
「恋人です」
「恋人?」と江口教諭は目をしばたたいた。
「はい。恋人なんです。最近お付き合いをはじめたんです。市村君、ううん、征一君、入学初日にわたしのことを好きになったみたいで、それで彼の方から告白してくれたんです」
 言っててちょっとむなしくなった。現実とは真逆だ。あまりにかけ離れすぎている。それに、こんなのはどうでもいい情報だ。早く本題に戻らなきゃ。花耶は早口で続けた。
「付き合ってから今日まで、いろんな話をしてきたんですけど、バスケをやめた理由だけはどうしても言ってくれなくて。彼ってば、わたしのことが大好きだから弱いところを見せたくないのかもしれません。でもわたしとしては市村君、ううん、征一君のことはなんでも知っておきたくて」
「そうか」と教諭はうなるように呟いた。心が動いているようだ。よし、あと一押しだ。
「だから母校の先生に教えて頂きたくて今日はお邪魔したんです。ぶしゅつけ? ぶしゅつ?」
しつけ?」
「それ! 不躾! な、お願いだって分かっています。でもお願いします! 教えてください!」
「無理だな」
「えええ!? なんで!?」
「市村が言いたくなくて黙っているなら、他人である俺が告げ口をするような真似はできないよ」
 ド正論だ。この男、なかなかの教育者じゃないのよ。花耶は歯ぎしりする思いで江口教諭の横顔を見た。体育系の部活の顧問なんて、ちょっと情にほだされれば簡単に口を割るような単純熱血野郎ばかりだと思っていた自分が恥ずかしい。
「まぁでも、市村と付き合ってるなら、これだけは言っておくよ」
 教諭は膝に両手をついて立ち上がると、
「あいつの右膝、これ以上、悪くしないように注意してやってくれ」
「膝?」と花耶が目をパチパチさせていると、江口教諭はおうように頷いた。「これで分かるだろ?」と目顔で告げてくる。その表情でピンときた。
 そうか、彼は右膝をしてバスケをやめたんだ……。でも本当は続けたいんだ。だからあんなふうに今も一人で練習を続けているんだ。それでも治らずに苦しんでいるのかもしれない。
「市村は良い選手だったよ。練習熱心だし、チームメイトを大切にする優しい心もあった。なにより才能に恵まれていた。俺が受け持った選手の中では一番だったな。こいつはきっとプロになる。入部初日にそう思ったよ。その証拠に、二年生の時点で有名高校から続々とスカウトがくるような選手になってくれた。将来を期待したくなる、そんな自慢の生徒だったな。だからこそ高校の三年間は市村にとって大事な時間になるはずだった。あいつもそれをよく分かっていた」
 それなのに怪我を……ん? 待って。よく考えたら、この人、結局市村君の秘密をペラペラ話してるじゃん。そう思いつつも、花耶は江口教諭の話の続きに耳を傾けた。
「プロのスポーツ選手を目指すやつにとって、高校三年間は特別な時間なんだ。三年間で将来進める道が決まってしまうかもしれないからな。高校時代にどれだけ活躍できたかで、プロの門をくぐれるかどうかが決まると言っても過言ではない。いわゆるゴールデンコースなんだよ、高校時代で活躍してプロの世界に入ることは。無論、その分、競争も激しい。もしもプロへの切符を逃すといばらの道だ。大学でもまた活躍が求められ、そこでもこぼれると今度は社会人、トライアウトで争うことになる。体力はだんだん落ちて動きも鈍くなってゆく。周りと争うだけでなく、自分の衰えとも戦うことになる。だから高校時代は、プロを目指す選手にとって重要な時間なんだ。それなのに――」
 江口教諭は、遠くで金属バットを振る軟式野球部の生徒を見ながら寂しそうな声音で続けた。
「市村の時計は止まってしまったんだ。中三の春でな」
 彼の時計の針はもう動かないんだ。がゆいはずだ。悔しいはずだ。何度も何度もその針を動かしたいって願ったはずなのに……。だから今もあんなふうに練習を続けているんだろう。もしかしたら時計が動くかもしれない。怪我が治るかもしれないと思って。
 わたしには夢はない。将来どんな仕事に就きたいかなんてまだ分からない。だから市村君がどれだけ悔しい思いをしているか、その気持ちの百分の一も理解できないと思う。
 でも――花耶は痛む胸に手を当てた。
 彼の怪我が治ってほしい。その気持ちは市村君に勝るとも劣らない。
 ないのかな。わたしにできること、なにかひとつでもいいから……。

「なんにもないでしょ、そんなの」
 断言するような叶恵の口調に、花耶はちょっとだけムッとした。
 数日後の昼休み、他に友達がいない花耶は、この日も叶恵にお昼ご飯を付き合ってもらっていた。
 五月も中旬を過ぎて、校内の雰囲気は少しずつ中間テストへと向かっている。高校最初の試験ということもあって、みんな良いスタートを切りたいのだろう。もちろん、勉強とは無縁の生徒たちもたくさんいる。彼らはいつものように友達との他愛ない会話に興じていた。花耶もその一人だ。
「なんにもないって、そんな言い方ひどくない?」と花耶は隣で弁当をつついている叶恵のことをじろっと睨んだ。しかし彼女は表情ひとつ変えずに、アッシュグレーのインナーカラーの入った髪を揺らして首を振った。そして「花耶に限らずだよ」と冷静な口調で言葉を続けた。
「わたしたちみたいな子供にできることなんて、ほとんどなんにもないと思うよ」
「子供?」
「そう。わたしたちなんてまだまだ子供だよ。社会的な立場もなければ、お金も、特別なスキルもない。高校生って無力な存在なんだよ」
「叶恵って変なところ冷めてるよね」と花耶はむぅっと片頰を膨らませた。「もしかしたら彼のこと、慰めてあげられるかもしれないじゃん」
「慰めるねぇ。彼、本当にそんなこと求めてるのかなぁ」
「そりゃあ……求めてる……でしょ。ちがうの?」
「わたしは志望校に落ちたとき、慰めなんていらなかったな。ほしかったのはチャンスだけ。もう一回チャレンジできるチャンス。市村君もそうなんじゃないかな。膝の怪我が治るチャンスがほしいはずだよ。慰めの言葉よりも優秀な医者の方が、今の彼にとってはずっとずっと必要なんだよ」
「だったらわたしがそのお医者さんを探すよ!」
「無理でしょ、そんなの」
「どうして!?」
「彼の方がずっと前から探してるって。それでも治ってないってことは、お医者さんが見つかってないか、治る見込みがないって言われたんだよ」
「なんか納得いかないな」と花耶はねて顔を背けた。
 子供みたいにくされていると、叶恵が「ごめんごめん」と肩にポンと手を置いてきた。
「じゃあさ、願ってみれば?」
「願うって、なにを?」
「奇跡が起きることを。奇跡が起きて、彼の怪我が治ることをさ」
「奇跡……」
「まぁ、奇跡なんてそう簡単には起こらないと思うけどね」
 奇跡……か。奇跡が起こらないと彼の膝は治らないのかな。夢はかなわないのかな。
 叶恵の言うとおり、奇跡は簡単には起こらない。起こし方も分からない。そんなのきっと、この世界の誰も知らない。じゃあ、わたしにできることって、もうなにもないってこと?
 それから数日してテスト期間がやってきた。
 花耶は真っ白な答案用紙を前に絶望していた。真面目に勉強してこなかったから敗戦は濃厚だったが、まさかここまでの惨敗だとは思いもしなかった。お母さんになにを言われるか分かったものじゃない。お小遣いカット。塾への強制収監。絶望的な未来が予知できて恐ろしい。
 本当はもうちょっと勉強するつもりだった。しかし机に向かっても集中できなかった。征一のことを考えてばかりだった。彼の負った怪我がどんなものかは分からない。それでも傷ついた膝を治せる医者がいないか、スマートフォンを使って調べたりしていた。登下校中も、授業中も、家に帰ってからもずっとずっと。実際に病院に電話をかけて質問もしてみた。でも彼の膝の状態が分からないと答えようがないと言われてしまって成果はゼロ。徒労に終わっただけだった。
 こうなったらわたしが将来お医者さんになって、彼の膝を治せばいいのでは!? とも思った。
 しかしこんな学力で医学部に入るなど夢のまた夢。仮に入学できたとして、花耶が医者になる頃、征一はもう二十代半ばだ。そこからプロスポーツ選手を目指すのはかなり難しい。だから今の花耶にできることと言えば、近所の神社に毎日通って、なけなしの小遣いからおさいせんを捻出して祈ることくらいだった。無力な自分にほとほと嫌気が差す思いだ。
 わたしにできることってなにもないんだな……。花耶は完璧に打ちのめされていた。
 試験監督の先生にバレないようにため息を漏らすと、ひとつの設問に目が留まった。
 和歌に関する問題だ。

   我が背子は 物な思ひそ 事しあれば 火にも水にも 我がなけなくに

 万葉集に載っているべのいらつめの歌だ。
 その意味で正しいものを選びなさいという問題だった。
 勉強はできないけれど、和歌はロマンチックなものが多くて大好きだ。だから得意中の得意だ。答えは簡単。四択の中から選んで解答用紙に番号を書いた。
 わたしもこの歌と同じ気分だよ。花耶は問題用紙の和歌の意味を指先でなぞりながら思った。