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試し読み

〈一〉

 明るい茶虎ちやとらの雄猫、みかんは、蒲団ふとんの傍らで、ひょいと首をかしげた。
 生まれて間もない頃から、みかんを育ててくれたおこうは、最近寝込むことが多くなっている。だが今日は久方ぶりに、蒲団の上へ身を起こしたからだ。
「みゃん、香さん、大丈夫?」
 蒲団の上に乗り、人から聞かれないよう、声を落として問うと、お香はさっと辺りへ目を配った。それから優しくうなずき、近寄ったみかんののどでてくれる。そしてみかんへ、そろそろ言っておかなければならないことがあると、告げてきたのだ。
「あたしは、もう、余りたないみたいだ。だからみかん、よく聞いておくんだよ」
 先ほど、世話をしてくれている小女こおんなを、使いに出した。だからしばらくの間、二人きりで話せると、お香は笑ったのだ。
「み、みゃあっ。香さん、怖いこと言わないでっ」
 思わず声が大きくなったみかんに向け、お香は口の前に指を立てる。しかしみかんは、とてものこと黙れなかった。
「香さんは、みかんのおっかさんだ。どこにも行かないで。みかんを一人にしないで」
「みかん、あたしだって、みかんを置いていきたくはないんだ。だけどね」
 お香には、時が残っていないという。そして時は、みかんにも足りないのだと、言葉が続いた。
「みかん、お前はまだ二十年生きていない。あと一月ひとつきほど足りないんだよ」
「みゃん?」
 だから今、話すのだとお香は言う。みかんが首を傾げると、お香はみかんを撫でつつ、先を語り出した。
「みかん、お前さんは猫として、それは長生きな方だ。分かってるね?」
「うん……」
 みかんは頷いた。自分がこんなに長く生きてこられたのは、もちろんお香が可愛がってくれたからだ。猫まんまも鰹節かつおぶしも、いつも、たんとくれた。寒い冬は、火鉢のそばとうで編んだかごを置き、そこに小さな座蒲団を押し込んで、みかんの寝床にしてくれたのだ。
 おかげでみかんは飢えも凍えもせず、長く生きてこられた。長寿のせいか、ここ一年は、お香が何を話しているのかが分かった。
 いや、四月ほど前からは、こうしてお香と、話すようにすらなっているのだ。お香は両の手のひらで、みかんの顔をすっぽり包んだ。
「みかんはね、猫又ねこまたになりかかっているんだと思う。猫は、二十年以上生きると、猫又というあやかしの者になるそうだよ」
 だからみかんは、人と話が出来るのだ。その上、ここのところ、段々、若々しくなってきてもいる。
「まるで、一歳になったばかりの猫みたいだ。だから、間違いなく猫又になるんだと思う」
 その話に、みかんが魂消たまげ、手の中で瞳を細くすると、お香がまた笑った。
「この話は、あたしがこしらえたものじゃない。みかんをもらった時、お前を連れてきた若いお人が、あたしに話してくれたことなんだ」
「みゃん、若いお人?」
「あたしはその時から、元気に還暦を迎えて、猫又になったみかんを、そっと仲間達の所へ送り出そうと決めてた。あたしさえ元気なら、出来るはずだったんだ」
 たとえ世の中で、猫又が飼い主をたたると言われていても、どこに祟りがあるんだと、笑い飛ばせばいいと思っていたのだ。
 ところがお香は、病を得てしまった。みかんはまだ、猫又になっていないのだから、もちろん病は、猫又の祟りではない。だが最近、みかんを見る近所からの眼差しが、怖いものに変わってきたのを、お香は感じていた。
「だからね、みかん。ちょいと早いけど、お前、この家を出なさい」
「みぎゃっ? いやだ。われは、香さんから離れないから」
「早く逃げてくれないと、みかんのことが心配で、成仏出来なくなりそうだよ。お願いだから、あたしが死ぬより先に、この家を出ておくれ」
 あと一月、ねずみを捕るなり、町の残り物をあさるなりして、何とか別の場所で生き延びるのだ。
「そうすれば、みかんは猫又になれる。その内、仲間とも出会えるだろうから、きっと道は開けてくる。あたしがいなくなっても、みかんは大丈夫だから」
「香さんから、離れたくないっ!」
 もしお香がこの世から、どこかへ行ってしまうのなら、一日、一時いつときでもいいから、長く一緒にいたかった。お香のふところへ潜り込んで、みかんが、みゃあみゃあ泣き出すと、お香は、少し目を細めた。そして、子猫みたいに甘えてると言い、蜜柑みかん色の毛を、それは優しく撫でてくれたのだ。
「みかんがいてくれたから、あたしはずっと、寂しくなかった。こうして、あの世へ行く日が近くなっても、気になるのはみかんのことばかり。うん、死ぬのは大して怖くないんだ」
 みかんのおかげだと言う、お香の言葉が優しくて、必死にその手にしがみついた。お香は、もう二十年近くもったんだねと言い、みかんを引き取った日のことを語り出した。

〈二〉

 今、お香とみかんが暮らしているのは、浅草寺せんそうじの北、日本堤にほんづつみ近くにある、吉原よしわらという町の中であった。お香はそこで若い頃から、髪結いをしているのだ。
 吉原は江戸で唯一、幕府から公に認められた遊女町で、二万七百坪ほどの広さがある。そしてそこに、花魁おいらんなどの遊女や、女達を置く遊女屋の楼主達、それに町そのものを支える商人あきんどや職人達など、一万人ほどが暮らしていた。
 奉公の契約期限が来ていない者、つまり年季の明けていない遊女を外に出さない目的で、吉原という町は、周りをぐるりと黒板塀に取り囲まれている。そして更に、その外を堀が囲んでいた。吉原は他の町とは違う、遊女屋が集まる場所、くるわなのだ。
 しかし吉原に七つある町には、ちゃんと町名主もいるし、同心、岡っ引きも来ている。町の入り口、大門おおもんから見て右側にある町、揚屋町あげやまちには、遊女屋ではなく、ごく普通の長屋や、店が並んでいた。魚屋、八百屋、菓子屋に左官など、他の町と変わらないものが、吉原にもそろっているのだ。
 そんな町で暮らすお香の亭主新助しんすけは、易者だったが、四十になる前に死んでしまった。夫婦には子供もおらず、先々が心配になったが、この吉原で髪結いをしていたことが、お香を助けた。
 髪結いは毎日、妓楼ぎろうへ向かい、遊女達の髪を結うから、仕事が途切れることがなかったのだ。お香は一人になっても、食べていくことが出来た。
 そして、一人の暮らしにも慣れた頃、お香は新たに同居の者を迎えることになった。揚屋町の長屋へ、ふらりと顔を見せたのは、亭主と縁のあった同業の占い師、和楽わらくだった。
 まだ若く、大層見目好みめよい男は、繁盛している易者だと聞いていたが、どこで暮らしているのかも知らなかった。しかし亭主が亡くなった後、線香を上げに来てくれたのは情のある話で、ありがたいと思ったのだ。
 和楽は長屋できちんと手を合わせ、供え物までしてくれた後、不意に、思わぬことを語り出した。
「お香さん、そろそろ暮らしが落ち着いたようで、良かったよ。だが新助さんがっちまって、一人でいるのも寂しいだろ」
 だから良き縁を持ってきたと、和楽が笑う。
「いえ……あたしは」
 つまり、縁談でも持ち込んできたかと思い、お香はいいとしだからと、さっさと断ろうとした。ところが、占い師が懐から出してきたのは、まだ本当に小さい子猫であった。
「あら、まあ。蜜柑みたいな色の子だわ」
 お香は思わず、笑みを浮かべた。小さい猫の毛色は、明るめなことがよくある。しかしそれにしても鮮やかな色味で、和楽の手の中で、もそもそ動いている子猫は、ふわふわの蜜柑のように見えた。
「蜜柑か。はは、こいつはいいや」
 子猫は目の色も、少しばかり変わっているというので見てみると、右目が青で、左目が黄色をしていた。
「いわゆる金目銀目きんめぎんめだ。縁起の良い猫だよ」
 だから、相棒として飼ってみないかと言われ、お香は思わず、頷いてしまった。確かに、少々寂しくなってきた時だったし、縁談を持ち込まれるより、はるかに気楽な頼まれ事だと思ったからだ。
 すると和楽は子猫を差し出す前に、突然、顔つきを真面目まじめなものにした。そして、目の前の子猫を引き取るのは、いささか大変なのだと言ってきたのだ。
「どうしてなんです?」
「お香さん、猫又という者が、この世にいることを、ご承知かい?」
「猫又? 猫のお化けでしたっけ?」
 お香が首を傾げると、和楽は明るい笑い声を立てた。
「猫又とは、二十年以上生きた猫が、妖と化した者のことだよ。こいつが人の世で、評判が悪くてね。飼い主を祟るなどと言われてる」
 何しろ猫又は妖だから、人の言葉が分かる。話したり、人に化けたりもする。尻尾しつぽ二叉ふたまたに分かれ、踊ったりするとも言われている。とにかく並の猫とは大いに違い、気味が悪いのだろうと和楽は語った。もっとも和楽によると、もとには猫又の他にも、河童かつぱ天狗てんぐなど色々な妖がいるのだそうだ。
「猫又は、そこいらにいる猫の間から、生まれてくるものなんだ。猫として生まれ、長生きの後、猫又となる」
 だから人に化けた猫又達は、江戸の町で長生きしそうな子猫を見つけると、大事に育ててもらえるよう手を打つのだそうだ。上手く生き延び、猫又の仲間となって欲しいから、良き飼い主を探したりする。
「もちろん、猫を大事に飼ってくれる猫好きで、優しい人でなきゃならない。そしてね、猫まんまや鰹節を買える、稼ぎのある人じゃなきゃね」
 そして、猫又には、決まりというものがあると、和楽は続けた。猫達は、生まれた里で育つものと、決まっているというのだ。
「その決まりを知らない人が、猫を遠くへやってしまうのは、仕方がない。だけど我らは養い親を、子猫が生まれた里で探すんだよ」
 お香は、御伽おとぎ草子ぞうしのような話が楽しくなって、乗った。
「あら、じゃあこの蜜柑色の猫ちゃんも、猫又になりそうな、筋の良い猫なんですね。それで和楽さんはあたしに、二十年以上大事に飼うよう、頼んできてるんだ」
「おおっ、お香さん、話が早くてうれしいよ」
 お香は優しそうだから、何も言わず、子猫を託すという手もあったと、和楽は言ってきた。しかし、だ。
「猫又になる猫は、二十年生きると、人の話が分かるようになる。中には二十年経つ前に、話し出す猫もいるんだ」
 二十年というのは、猫又になれるかどうかを分ける、大事な時であった。猫が話し出したことに驚いたら、お香は猫を恐れ、家から放り出してしまうかもしれない。それが元で妖となれなかったら、老いた猫は遠からず、ただ死ぬしかなかった。
「そんなことには、なって欲しくないんだ。だから、今から伝えておく」
 和楽は至って真面目に、そう語ったのだ。
「そして出来たら、猫又を気味悪がる周りの者達から、こいつをまもってやって欲しい」
 猫又になってしまえば、その猫は、猫又仲間の所へ行ける。その時は、快く送り出しておくれ。和楽はそうも告げたのだ。
「あらまあ、色々忘れちゃいけないことが、あるのね。大変、大変」
 お香は子猫へ、笑みを向ける。だが、その話が本当だとすると。
「目の前にいる和楽さんは、人ではないってことになるわね。だって、子猫の先々を案じるのは、猫又なんでしょう?」
 つまり和楽は妖、猫又なのだ。お香が楽しげに言うと、和楽が困ったような顔をしている。だが和楽をからかいつつも、お香の気持ちは、既に固まっていた。
「それでもいいわ。あたしがこの子を、ちゃんと二十年間護っていくことにする。還暦を目指して元気にやっていければ、一緒に暮らすこの子も、無事猫又になるってものよ」
 すると和楽は、温かくて、ふわふわの子猫を、お香の膝へ置いてきた。
「みゅーっ」
 頼りなげな子猫の声を聞くと、愛おしいという気持ちが、湧き上がってくる。
「名は、みかん。これしかないわね」
 笑いながら和楽を見た、その時だ。お香の顔から、笑みがすっとんだ。
 和楽の羽織の下から、長い尻尾が出てきて、それが膝の上にいるみかんを、優しく撫でていたのだ。和楽は両手を懐手にしていたし、誰かが太い尻尾を、どこかから動かしているようには、全く見えない。和楽のぐ後ろには壁があるきりだ。部屋には二人の他に、誰もいなかった。
「あ、あれ? あの、その、和楽さんは」
 もしかすると、もしかして、本当に。
 お香の目の前から、家内の風景が消えた気がした。鏡や行李こうり、風呂敷に入った髪結い道具や、まくら屛風びようぶが見えるはずなのに、それが目に入らない。目の前にあるのは、和楽の若々しくて、大層綺麗きれいな顔ばかりであった。
「ね、こ、ま、た、なの?」
「我らはね、今、大変な時を迎えているんだ」
 和楽は確かな返事をせず、代わりに淡々と、猫又の話をし始めた。何でも猫又には、今まで何度かの〝危機〟があったらしい。
「第一次猫又危機とか、第五次猫又危機の時は、そりゃあ大変だったんだ。猫又が滅びかねないほどの、め事があった」
 そしてだ。新たな〝猫又危機〟の時を、江戸の猫又達はじき、迎えるという。
「何故なら、〝猫君ねこぎみ〟が、その内現れるという話だからね」
「あの、猫君って、何?」
「ああ、つい話しすぎた。こういうことは、人に告げてはいけないんだよ」
 とにかくその内、大騒ぎの時が到来するとのうわさに、猫又達の目が今、子猫達に行き届かなくなっている。おかげで猫達は、二十年生き延びることが、余計大変になっているのだ。だからお香のように優しい者が、子猫を護ってくれなくてはならない。
「みかんを、猫又になる歳まで、大事にしてやってくれ。この通り、お願いする」
 和楽は深く深く、頭を下げた。
「こういうことを人に頼むと、なぜ己達で子猫を育てないのか、問われることもある。だがな、猫は猫又となって、妖の力を持たなくては、我らの里へは入れないのだ」
 だから猫又達は、ただの猫である時、人の世で育つ。いにしえからそう決まっていると、和楽は言った。
「そうなの」
 話している間に、いつの間にか和楽の長い尻尾は消え、お香は夢でも見ていたのかと、己を疑ってしまう。
 ただこれだけは、はっきり言い切った。
「約束する。このみかんは、ちゃんとあたしが育てていくから」
 そして今日の出来事が、真昼の夢でないのなら。
「いつかみかんと、話が出来たら嬉しいわ」
 お香の言葉を聞いた和楽が、綺麗な顔へ、鮮やかな笑みを浮かべた。

 

 お香の話が終わり、みかんは蒲団の脇で首を傾げた。
「みゃあ、和楽? 知らない」
「みかんを連れてきた人よ。そういえばあの後、二度と吉原で見かけなかったわね」
 それでお香は猫又について、あれ以上の話を、聞きそびれてしまったのだ。河童など他の妖達を見ることもなかった。
「でもとにかく、みかんを大事に育てれば良かったの。あたし達、気があったわよね? 一緒に暮らせて、楽しかったわ」
 みかんを貰って十九年が過ぎると、お香の言葉を分かっているのではと、思われるような素振りをした。そして四月前、お香が倒れた日、夜、傍らで、いきなり話し始めた。おかげでお香は、人を呼んできてもらえて、助かった。その後、病の身になってから、何かとみかんを頼り、何とか長屋で暮らしてこられたのだ。
 ただ。最近吉原では、猫の動きが変で、気味が悪いとの噂が立っていた。
「みかんに何度も頼ったのが、いけなかったのかも。長く生きてることは、長屋の皆も知ってるし。みかんが猫又になったんじゃないかって、噂を聞いたわ」
 このままではきっと、お香が死んだ途端、みかんの身は危うくなる。隣のおたけも、長屋の差配も、最近みかんの二叉に分かれかけている尻尾を、気にしているのだ。
 だから。
「みかん、逃げてちょうだい。そうしてくれたら、あたしはほっとすると思う」
 最後まで一緒にいたいが、危うすぎる。お香は何度もそう言ってきたが……みかんは長屋から動かなかった。
「言われてみれば、小女さん、われの尻尾をよく見てますね」
 一応笑いながら言ってはみたが、みかんにも、自分が危ういことくらい分かっていた。しかしどうしても、弱っているお香と離れ、どこか知らない場所へ行く気には、なれなかった。今離れたら、お香とは二度と会えないに違いない。
 みかんは猫だが、お香の子のつもりなのだ。弱っていくお香から、離れてはいけない。
(われが、猫又ってものになるまで、あと一月なんだって)
 お香は、それまで無事でいてくれるだろうか。みかんは猫又になったら、どう変わるというのか。
 一人になったら、化け猫だと言われて、殺されてしまうのか。
「みゃあ、怖いよう」
 思わずそうつぶやき、慌てて両の前あしで、口元を押さえる。そんな言葉を具合の悪いお香へ、聞かせてはいけないのだ。
「われは大丈夫。きっと大丈夫。それより、香さんが大事だ」
 みかんは歯を食いしばって、お香に寄り添い続けた。

〈三〉

一月経たないある日、暮らしが突然ひっくり返った。
 ある朝お香が、起きてこなかったのだ。亡くなってしまったのだと、みかんは蒲団の傍らで知った。
「香さん、われの香さんっ」
 枕元で、必死に名を呼んでいる時、後ろで悲鳴が上がった。いつも来ている小女が、今日は目をり上げて、みかんをにらんでいた。
「この猫、今、しやべったよね? やっぱりみかんは、猫又になってたんだ」
 二十年近く生きた猫にしては、妙に若々しい様子なのも、気になっていたらしい。
「お香さんが、猫又に取り殺されたっ」
 小女はきびすを返すと、悲鳴を上げつつ部屋から飛び出していく。
「ち、違う。われが殺したんじゃないっ」
 言いかけて、みかんは慌てて口をつぐんだ。そしてお香から、何度も繰り返し言われたことを、思い浮かべることになった。
「われは……そうだ、逃げなきゃ」
 外へ出なくては。このまま人に捕まってしまったら、最後まで側にいたことを、お香が嘆くに違いなかった。
「でも、どこへ行けばいいんだ?」
 とにかく前肢で、障子戸をちょいと動かし、狭い縁から路地へ出る。右手の道の先に、大店おおだなの奥に建つ、大きな蔵が見えた。
 左手には長屋の井戸や、小さな稲荷いなり神社があったが、そこにはいつも人がいる。小女が駆けていったのも、多分井戸端だから、そちらへは行けなかった。
「だけど、鍵の掛かった蔵へも入れないよ。あんな大きな建物の、屋根まで登るのも無理だ」
 足がすくんで動けずにいると、怖い声が迫ってきた。
「いたっ、みかんだ。あの猫が、お香さんを取り殺したんだよっ」
「違うっ」
 怖さに押し出されて、必死に長屋から飛び出た。途端、井戸端から、悲鳴が聞こえてくる。長屋のおなご達が、見慣れているはずのみかんを見て、大声を上げたのだ。
(何で?)
 土蔵の方へ走った。脇の路地へ突っ込むと、みかんはべそをかきつつ、置いてあった紙くず買いの籠を足場にして、塀へ飛び乗った。そしてそのまま塀の上を駆け、長年暮らした長屋から離れることになったのだ。
 それでも、お香と最後まで一緒にいたことに、後悔はなかった。そして嘆いている余裕があったら、考えねばならないことがあると、分かっていた。
 そうしなければ、この身が危ういのだ。
(もう、香さんの部屋へは帰れないんだ。どこへ行けばいい?)
 涙をこぼしたまま、必死に走り続けていると、その内塀が途切れたので、長屋の屋根へ飛び移った。そしてじき、木戸が見えてきて、屋根も端が近くなる。みかんは大きな道へ、行き当たってしまったのだ。
(あ、なかちようだ)
 町と名が付いているが、吉原にある仲の町は、入り口の大門から吉原の反対側の端、水道尻すいどうじりまで続く、大きな通りであった。
 お香と暮らしていた揚屋町の端も、この道に面していたから、みかんもここへ来たことはある。ただ大層広い上、両側に赤い提灯ちようちんを下げた、派手な二階建ての店が並んでおり、何か気圧けおされるような通りだった。
 おまけに仲の町では、花魁道中という、派手な練り歩きも、しょっちゅう行われている。つまり、道には多くの人が行き来しており、横切ると蹴飛ばされそうで怖い。猫にとって仲の町は、縁遠い場所なのだ。
 ところが、道へ踏み出すのを躊躇ためらっている間に、恐ろしい声が追いついてくる。
「おい、みかんは、まだ見つかんねえのか。派手な色の猫だ。目立つだろうに」
「逃がすな。お香さんのかたき討ちだ」
「あっ……ああ」
 このまま揚屋町の端で止まっていたら、怖い人達に捕まってしまう。
(道を渡らずに左へ曲がって、大門へ行くのはどうかな。そうすれば、吉原の外へ出られるのかもしれない)
 けれど、吉原唯一の出入り口である大門の脇には、四郎兵衛会所しろべえかいしよというものがあって、人がいつも、たくさん詰めているとお香が言っていた。もしそこに、みかんを捕まえるため誰かが行っていたら、捕まえられてしまう。
(でも、道を渡らずに済むし)
 地面へ降りると、左へ曲がって、大門を目指してみた。大きな帯を前に締めた遊女達や、客を案内する幇間ほうかん達が、横を通ってゆく。猫になど、誰も目を向けてはこない。みかんは、沢山の足をけ、せっせと歩み続けた。
 その内大門が見え、側に、大勢の人がいるのも分かってくる。
(あれ、あの門、あんなに沢山、人が集まっている場所だったっけ?)
 首を傾げた、その時だ。
「みぎゃっ」
 痛いと思った時、みかんは宙を飛んでいた。幇間の後ろから来ていた客が、邪魔だとばかりに、足下のみかんを蹴り上げてきたのだ。
 思わず悲鳴を上げたら、皆がみかんを見てくるのが分かった。みかんを見つめてきた若い男を、何故だか怖く感じて、地に降りて直ぐ行き先を変え、道を斜めに突っ切ることにした。必死に駆け出すと、後ろからも向かいからも、誰かが見ている気がした。
 怖さがみかんの背を押し、道を横切らせる。総毛を立てつつ、江戸町二丁目の木戸内へ飛び込むと、やはりというか、足音が追ってきているように思う。
(ああ、怖いっ)
 怯おびえて足がもつれ、みかんは道でよろけると、頭から何かへぶつかった。直ぐに人の足下あたりで、着物の裾にからめ捕られたと分かった。
(ひええっ)
 焦っている間に首元をつかまれ、ふわりと浮き上がる。そして……いきなり誰かの懐へ突っ込まれると、羽織がみかんを隠した。そしてその時、みかんを捜す声が近寄ってきた。
「おい兄さん。茶虎の猫が、こっちへ走ってきただろ。見なかったか」
 声に聞き覚えがあった。お香と親しかったお竹の亭主、貞吉さだきちだ。みかんに時々、目刺しの尻尾をくれたりする、いい人だったのに、今日みかんを捜す声は、ひどく冷たい。
「揚屋町で、猫又になった猫がいてな。飼い主を取り殺して逃げやがった。許せねえ」
 捕まえて、猫取りに売り払ってやるというから、怖い話だ。みかんが、誰だか分からない者の懐で、必死に身を縮こまらせていると、笑い声が聞こえてくる。
「この吉原で、誰かが猫又に殺されたとは、とんでもねえ話だ。いや、お江戸の中だって、本当に猫又に殺された人にゃあ、おれは会ったことがねえ。こりゃすごいな」
 よっぽど丈夫だったお人が、病でもないのに、急に身罷みまかったんだろうと、声が続く。
「死んだのは、若いお人だったんですかい?」
「い、いや」
 すると貞吉が戸惑うような声で、言ってきた。
「お香さんは、もうすぐ還暦、つまり六十近かったな。最近は寝付いていることも、多かったが」
 途端、周りから男達の、笑うような言葉が伝わってくる。
「それ本当に、猫又に取り殺されたのかい? ただ、病で死んだように聞こえるが」
 貞吉が、言い返した。
「あのみかんてぇ猫は、二十年近く生きてたんだよ。尻尾も、二叉になりかかってたって、小女が言ってたんだ」
 みかんを懐に入れている誰かが、その話を聞き、溜息ためいきを漏らした。
「おやおや、お前さんときたら、尻尾が怖くて、猫を追いかけ回しているんですかい?」
 吉原では、猫を飼っている花魁もいると聞く。なのに猫を可愛がるどころか、猫取りに売るというのだ。怖い話だと声が続いた。
「お前さん、おれをその話に、巻き込まないでおくんなさいよ。猫嫌いと噂が立ったら、花魁どころか、羅生門河岸らしようもんがしねえさんにさえ、もてなくなっちまう」
「てめえ、猫又をかばうのか。どういう了見なんだ」
 貞吉の凄むような声が、近寄ってくる。周りから聞こえていた他の声が一寸ちよつと途切れ、みかんは総身を硬くした。
 すると、その時だ。近くから、優しげな言葉が聞こえてきたのだ。
「あら、猫の話でありんすか。わちきの猫は白毛で、可愛い子ですわいな」
 男達の声が、ぱっと明るく、嬉しげなものに変わった。
「これは花菊はなぎく花魁。今日もお綺麗で」
「花魁、わっちを覚えているかい? もう何度も店へ、通ってるんだぜ」
「花魁、花魁の白猫は確か、白花しろかと言ったよね」
「あらぬしさん、覚えていてくれなんしたか。主さんは確か、加久楽かぐらというお人でしたわな」
 花魁が、猫の名を口にした加久楽へだけ、言葉を向けたものだから、あっという間に場の風向きが決まった。吉原に来ている男達は、もちろん綺麗な遊女達から、優しい言葉を貰いたいと思っているのだ。つまり。
「花魁が猫好きとなれば、おれ達はもちろん、猫が好きさ」
 花菊が明るく笑い、寸の間の後、周りの男らがおおっと、羨ましげな声を上げたのが分かる。
(何があったのかしら)
 すると、みかんを懐に入れている加久楽が、ひょいと動いた。待てという貞吉の声は、直ぐに遠ざかる。花魁が吸い付け煙草たばこを渡して、誘ったのは加久楽だ。 くなと、貞吉へ言う声が聞こえた。
「妬いてんじゃねえ。おれは、猫又を捜してるんだ」
「だから兄さん、妙な猫なんか、近くにゃいねえんだよ。ここは吉原、いるのは遊女と野郎ばかりさ」
 笑うような男達の声も、やがて耳に届かなくなってゆく。みかんは加久楽と一緒に、どこかの階段を上っていった。

〈四〉

 加久楽が、懐からそっとみかんを取り出し、ふすまを閉めた部屋の、真ん中に置いた。みかんは、助けてくれた加久楽と、その横にいた二人のおなごを、この時初めて目にすることになった。
(みゃあ、綺麗な人、ばっかり)
 部屋も立派で、お香の部屋にあったものより、ずっと綺麗で立派なものが置いてある。顔を上げると、花菊花魁が笑みを浮かべ、みかんを見ているのが分かった。あでやかで、みかんは寸の間見とれる。すると。
「この子、目の色が左右で違うわ。可愛い」
 もう一人いた芸者姿のおなごが、自分は紅花べにかだと言い、みかんを腕に抱いてくる。こちらも華やかなお人で、みかんが思わず身を硬くすると、花魁も同じ部屋にいるというのに、己は猫又だとあっさり言ってきた。
「みゃん、あの、その……」
「まあ、ちゃんと喋れるのね。加久楽は、みかんが猫又と化す日は、二日後だって言ってた。だから、まだ話すのは無理かなって思ってたの」
 だが、既に話せるなら都合がいいと、紅花は言い、みかんにあれこれ聞いてくる。必死に答えると、笑みが返ってきた。
「じゃあ、みかんは自分が猫又になるってこと、飼い主から聞いてるのね? 江戸じゃ、猫又になった者が出ると、同じ猫又仲間が、迎えに行くことになっているの。そのことは……ああ、知らなかったんだ」
 江戸には六つ、猫又の陣があって、その内に猫又達が暮らす里がある。四つが、男猫又の陣、この吉原も含め、二つが女猫又の陣と決まっている。
 おなごの里で生まれた、みかんのような男の子には、四つの男里から順番に迎えが来る。男陣で生まれた女の子は、吉原のある花陣はなじんと、もう一つの女里の姫陣ひめじんへ、交互に引き取られるのだ。
 すると横から、加久楽が言葉を挟んでくる。
「迎えに来た者は、新しく猫又となった者の、兄貴分となるんだ。つまりみかんを導く兄者あにじやは、この加久楽ってわけだ」
 だから加久楽は、自分を助けてくれたのかと、みかんはびっくりして、背の高い男を見つめる。つまり、だから。
「加久楽も、猫又なの?」
 すると、偉そうに頷いた加久楽の背を、紅花が引っぱたいた。
「兄者なのに、加久楽の迎えが遅いから、みかんに、怖い思いをさせちゃったじゃない。今日みかんは猫又だからって、追いかけられてたのよ」
 ごめんねぇ、頼りない兄者に決まっちゃってと言い、紅花が謝ってくる。新米猫又の担当は、どこの里でも猫又達が、順番に引き受けることになっているのだ。
「運が悪かったわねえ、みかん」
 紅花に言われ、加久楽が口をとがらせた。
「おい、おれが遅れたんじゃない。吉原の猫又が揉めてるんで、おれは廓の内へ、直ぐに入れなかったんだ。そっちのせいだろ」
 みかんは首を傾げる。
 すると紅花は、花菊花魁と顔を見合わせてから、廓が閉じられた訳を語り出した。
「この吉原にある猫又の里、花里はなさとで、大事おおごとが起きてしまったの。実はね、みかん。花魁の飼っていた猫、白花が、三日前から行方知れずになってるのよ」
 その白花は猫又になった女の子で、生まれたこの里で、白花という新しい名前を貰ったばかりだという。みかんは目を見開いた。
「吉原には、猫又が沢山いるんだね。猫又の里になるくらい、多いんだ」
 花菊花魁が頷いた。花菊は並の人だが、先代の花魁から白花を託され、猫又のことも伝え聞いているという。白花もみかんのように、子猫のときから猫又になるのではと、言われてきた猫だという。
「だから花魁は、白花のおっかさんで、あたし達の味方よ」
 紅花が、白花の姉者あねじやなのだ。そして白花は、新入りの猫又が入る学び猫宿ねこやどへ行く用意をしていたところだったという。
「猫宿は一つしかなくて、いつも春から始まるの。六つの里から新米達が集うわけ。本当は猫宿へ行くまで、わりとすんなり事が運ぶはずなんだけど」
 なのに白花は三日前、急に消えてしまった。猫宿へ行くのを、楽しみにしていたのに、だ。
「きっと白花の身に、何かとんでもないことが起きたのよ。人にさらわれたのか、他の妖に襲われたのか。とにかくあの子を助けなきゃ。あたしが白花の姉者なんだから」
「わちきも、何でも手を貸しいす。白花を、助けて下さんし」
 花魁と猫又は、白花を取り戻すまで、この吉原の猫の出入りを、許さないと決めた。白花はまだ新米猫又だから、人に化けることが出来ない。だから、もし吉原から連れ出されるとしたら、猫として大門をくぐるはずだからだ。
「ええ、もちろん猫又だけが承知の話で、花魁以外の人は、知らないんだけど」
 ところがそのために、困ったことが起きてしまった。ここで加久楽が口を挟む。
「みかんの兄者であるこのおれが、なかなか吉原へ入れなかったんだ。みかんの所へ行くのが遅くなったのは、そのためなんだよ」
「廓のお客達はいつものように、大門から入れたのよ。要するに、加久楽の化け方が下手だったのが、いけないの。花里の仲間に猫又だって見破られたから、入れてもらえなかっただけじゃない」
「はあ? おれが悪いのかよ」
 しかし紅花は、みかんへは、ごめんなさいねと謝ってくる。みかんは、大丈夫だと口にした。今、心配しなければならないのは、消えた白花のことに違いない。
「みゃん、早く見つかるといいね」
「みかんは良い子ねえ。この先、兄者みたいになっちゃ駄目よ」
 紅花がみかんを、きゅっと抱きしめる。横で頰を膨らませていた加久楽は、畳の上で居住まいを正すと、思わぬことを言い出した。
「それでな、みかん。これからの話だが。おれとお前も、白花が見つかるまでは、この吉原を出ないことにする」
「みゃん? 出してもらえないから?」
「あら、二人は出ても、大丈夫でありんすよ」
 ちゃんと大門にいる仲間へ、話を通しておくと花魁が言う。だが、加久楽は首を横に振った。
「だってな、花菊さん。おれ達だけが、吉原を出て里へ戻った、猫又や猫だったとする。そしてこの後、万が一、白花が見つからなかったりしたら、大事になるだろ?」
 白花を連れ出したのは、実は加久楽達ではないかと、他の陣から疑われかねない。そんな立場になるのはご免だと、加久楽は口にしたのだ。
「だからおれ達は吉原に残る。でもって、白花捜しに力を貸してやるよ。花里の猫又は、おなごばかりだ。野郎が山と来る吉原だから、男がいた方が良いことも、あるだろう」
「あら、そうね。加久楽、猫宿にいた頃に比べて、少しは気が利くようになったじゃない」
 昔の加久楽は、結構猫宿の師匠から𠮟られていたと、紅花が笑いながら、みかんへ話してくれる。
「あたし達、同じ年に、猫宿にいたのよ」
 しばらく吉原にいるのなら、後で加久楽の昔話などしてあげると、紅花が言った。加久楽は、要らぬことを言う代わりに、白花を捜しに行くぞと言い、さっさと紅花の腕を摑み表へ出て行った。
 みかんは花魁と部屋に残されたが、花魁はこの後、花魁道中をしなければならないと言い、部屋の鏡に向かった。みかんは少し心配して、閉まった障子戸へ目を向ける。
「二人、喧嘩けんかしてたみたいだけど、大丈夫かな?」
 すると花魁は、少し笑った。
「仲は良さそうゆえ、大丈夫でありんすよ。力を合わせ、白花を見つけてもらえますと、わちきは嬉しい」
「仲、いいの? あれで?」
 みかんは首を傾げ、また障子戸を見る。今日まで、揚屋町の中で暮らすことがほとんどだったが、その外には、不思議なことが満ちていた。みかんは今、真剣にそう思っていた。

 

 花魁が用で部屋から出てしまうと、一人ぼっちになったみかんは、落ち着かなくなった。部屋は華やかすぎたし、周りから大勢の声が聞こえ、今にも障子戸が開きそうで怖い。
「みゃん、加久楽が帰ってくるまで、屋根裏にでもいよう」
 高い場所で、狭くて、およそ人では入れないような所なら、みかんが勝手に入っても大丈夫だと思う。ただ落ち着いたせいか、朝から何も食べていないのを思い出し、ちょいとお腹を鳴らしてしまった。
 加久楽がいる内に、煮干しの一匹でも、ねだっておけば良かったと、みかんは少しだけ耳を寝かせた。お香のことが恋しい。
「大丈夫、紅花さんが帰ってきたら、きっと猫まんまを貰えるから」
 とにかく屋根裏へ登ろうと、花魁の部屋の天井を見てみたが、やはりというか、猫が潜り込めるような穴など空いていない。仕方なく、そろりと部屋から出てみたところ、それこそあっという間に、見つかってしまった。
「あれま、猫っ」
おでれぇた。どっからへえったんだ」
 捕まって、どこかへつながれてしまうのは剣吞けんのんだ。みかんは必死に走って逃れようとしたが、前を客の男に塞がれ、慌てて反対側へ駆けだした。しかしそこには、何人かのおなご達がいて、捕まりそうで怖い。みかんは仕方なしに、妓楼の階段を駆け下りた。
 追っ手には捕まらなかったが、一階へ降りた途端、奥の板間や土間から、それは多くの者らが、みかんを見てきて怖い。咄嗟とつさに、人が少ない左手の方へ逃げた。怖い声が、背中の方から聞こえてくる。
 二つ、だだっ広い部屋を抜けた。蒲団がたくさんあり、天井の隅に穴も見かけたが、上へ登れるような家具はない。更に奥へと抜けると、やたらと行灯あんどんばかりが並んでいる部屋があり、積まれていた行李の上から、潜り込めそうな天井の穴も見つけられた。
「みゃん、良かった」
 みかんは一気に行李を駆け上がると、暗い穴の中へ飛び込む。
 途端、とんでもないことが起きた。みかんは突然、正面からの一撃を食らってしまったのだ。何を考える間もなかった。
 体がはね飛ばされ、天井に空いた穴から、行灯部屋へ落ちていく。穴から白い猫の顔が、こちらを見下ろしているのが分かった。

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