『書楼弔堂 霜夜』ブックレビュー

『書楼弔堂 霜夜』が示す本の歴史と今
杉江松恋

 本は世界であり、世界は本となる。

 言語という手段を得た人間には世界を写し取ることができた。それが本である。最終巻『霜夜』が刊行された京極夏彦〈書楼弔堂〉連作は、その本の小説だ。

 京極はしばしば、物語という虚構と現実の関係を描いた作品を手がける。〈巷説百物語〉シリーズは虚構によって現実を転覆しようとする者たちが主人公であった。〈書楼弔堂〉では対象となるのは物語を扱った本だけではない。『霜夜』第二話の「複製」では浮世絵が扱われるし、第四話「永世」で植物学者・牧野富太郎が探しに来るのは江戸時代の本草学者・飰沼慾齋が開板した『草木圖說』草部二十巻、つまり植物分類の学術書である。 『破曉』『炎昼』『待宵』、今回の『霜夜』と続く四作では明治二十五(一八九二)年に始まる期間が描かれ、各巻ごとに五年ずつ時間が進んでいった。明治四十年の話である『霜夜』の頃には、現在の書籍流通の仕組みがほぼ完成している。書籍の大部数発行が実現し、一般消費者の購入が容易になったのである。

 本書の視点人物である甲野は、活版印刷に用いられる金属活字の、元になる字を書く仕事に就いている。書籍印刷についてはほぼ素人である彼の目から、近代的書籍流通体制完成前夜の状況が語られるのだ。最終話の題名は「誕生」、ここに行き着くために、過去三巻は書かれてきたのだ。思えばシリーズの最初、『破曉』第一話の題名は「臨終」であった。近世が終わり、近現代が始まるまでの物語だったことがわかる。

 江戸から東京と名称の変わった首都の、四谷から山側に入った小高いところに一見陸燈台と見紛う背の高い建物がある。物語の主舞台となる、書楼弔堂である。そんな変わった外観をしているのに、初めての訪問者は必ず見落としてしまい、なかなかたどり着けないという。現実の外にぽっかりと浮かんでいるような形で弔堂は存在している。

 その主人は年齢不詳の男性だ。還俗した僧侶という噂がある。他にいるのは撓という小僧だけだ。書舗の時は止まっているように見えるが、四巻の中で撓は少しずつ外見が成長していくので、現実と同じ空間の中に在ることがわかる。ただし、主人の外見はほとんど変化しない。

 入口に「弔」と記された簾がかかっていれば営業をしている証しである。なぜ「弔」なのか。「凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた」呪物であり墓のようなものだからである。「本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の生を与えてくれる」と主人は語る。訪れた客が望めば、その一冊となるかもしれない本を手渡してくれるのだ。

 第一巻の『破曉』でもその名を言及されていた夏目金之助が、『霜夜』第一話「活字」のゲストである。教職を辞して専業作家として生きる決意をした夏目漱石その人だ。このように、歴史上実在の人物が登場するというのが各話の基本形である。過去巻でも、浮世絵師・月岡芳年、小説家・泉鏡花、演歌師・添田啞蟬坊、思想家・平塚らいてう、ジャーナリスト・德富蘇峰、画家・竹久夢二と多士済々が弔堂を訪ねてきた。それぞれが成したことを挙げていけば、明治史の流れが見えてくるはずである。弔堂主人が訪問客に一冊の本を手渡すことで、彼らが人知れず抱えた苦悩や屈託を言語化し、導きの曙光を当ててみせる場面が各話の山場である。あの人にそんな本を、という意外さが興趣を醸す仕掛けだ。

 しかも全体を通しての色は一様ではなく、各巻ごとに視点人物を交代させることでその時代の特色を浮かび上がらせる工夫がされている。たとえば『破曉』の高遠は、文明開化の波に乗れず高等遊民を気取る男だ。彼の知る本や本屋は江戸時代のそれであり、旧い常識の中にまだいる。『炎昼』の塔子は女性であるために、新しい社会が到来しているにもかかわらず目の前で門戸を閉ざされている。本を自由に読むこともできないのである。『待宵』の語り手は弔堂にほど近いところで寂れた甘酒屋を営んでいる老人・弥蔵で、前時代の遺物となった存在だ。彼が感じる違和は明治の矛盾を読み解く鍵となる。こうした形でそれぞれの視点を通じ、当時の社会において本がどのような意味を持っていたかが描かれるのである。 『霜夜』の語り手である甲野は、長野版画を生業とする職人の家に生まれた。地方出身者である彼は、途中参加のような形で近代の体制がほぼ出来かかった東京にやってきたのである。時代を築く事業に自分のような者が関わっていいのか、という思いが甲野の中にある。

 新しいことが始まるとき、すべての従事者が熱意溢れる先駆者であったはずはない。甲野のような気後れを抱えていた者はいただろうし、迫りくるものへの思いは千差万別だったはずだ。甲野の視点は、そうしたまだらな状況を描くために必要なのである。文明開化、近代化というと物事の積極的な面のみが謳われることが多いが、その中では次の時代における宿痾が萌芽もしていた。最終話の一つ前、「黎明」ではそれが描かれる。

 今はまだ知識が足らず、活版印刷もそれによって実現される書籍流通の形も、夢のようにあやふやに見える。甲野の気持ちを勝手に代弁するならそういうことになるだろうか。弔堂を訪れる人々との出会いが彼の認識を改めていく。

 第二話「複製」に登場するのは日本における美術史学研究の礎を築いた岡倉天心である。彼は浮世絵の肉筆原画と刷り物には別個の存在意義があることを語り、活版によって同じ本が大量に印刷される社会への展望を甲野に与える。第三話「蒐集」に登場する帝國圖書館初代館長の田中稲城は、大量に本が流通する社会において、網羅的にそれを所蔵することの重要さを知る者だ。続く第四話「永世」には、前述の牧野富太郎が登場する。彼が考えているのは、知の大系を資料として永続させるためにはどうすればいいかということである。同じ活字を使っても使う紙で仕上がりは異なるという事実を突きつけられた甲野は、牧野と会ったことで印刷の新たな側面を知ることになる。

 甲野が見ている本の世界は次第に立体化されていく。「蒐集」では当時の流行である浪花節への言及があり、技術革新が大衆の娯楽を享受する機会を増やしたことが示唆される。そのように本以外の歴史的背景も随所に織り込まれ、明治という時代への理解が深まるのだ。本書を読めば、既知の書籍文化がどのような要素で構成されているかを、改めて認識することにもなるだろう。その発見は、経済後退で市場が縮小し、過去の慣例が通用しなくなってきた書籍流通の現在を見直すための視座を与えてくれるのである。

 全四巻を通読して改めて気づいたことがある。物語の中心人物である弔堂の主人が大きな空白であるということだ。人それぞれが出会うであろう、真に大切な一冊に、彼はまだ巡り合っていないのである。多くの訪客に運命の一冊であるかもしれない本を手渡し、道を見つける手伝いをしてきたにもかかわらず、仏教用語で言えば、彼は覚者からは程遠い。〈百鬼夜行〉シリーズの中禅寺秋彦が〈憑物落とし〉と呼ばれながら事態の単なる解説者に徹しているように、〈巷説百物語〉の又市が妖怪という虚構で現実を塗り替えるトリックスターであっても時代そのものを覆すには至らないように、書楼弔堂は人が本を発見する場を提供するための機会であるにすぎないのだ。書籍流通史そのものが本作の主人公である。

 虚構は虚構であり、現実に取って代わるようなものではない。本はそれ自体が一つの世界となるが、その中にあるのは現実とは別のものだ。ゆえに物語によって現実を上書きすることは慎むべきであり、時にそれは危険な行為ですらある。

 京極作品には、物語と現実との間にあるべき距離について触発を受けるものが多い。〈書楼弔堂〉もそうした系譜に連なる作品だろう。物語と本は、物語と本に過ぎず、それ以上のものではない。だが、何物にも代えがたい豊穣を与えてくれる。だからこそ人は本を作り、流通させることを選んだのである。本と人との出会いがいかに奇跡的で、多くの叡知に支えられているかを〈書楼弔堂〉は物語る。この一冊が、弔堂主人の言う「本当に大切な本」になった読者もいるのではないだろうか。その人の世界は本と共に在る。

すぎえ・まつこい ◉ 68年生まれ。ミステリー小説の書評を中心に執筆を行う。古典芸能にも造詣が深く、『浪曲は蘇る玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰』『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』(玉川祐子との共著)を上梓。他の著書に『芸人本書く派列伝』『日本の犯罪小説』など。