地面師たち アノニマス
ルイビトン 竹下(図面師)
二〇一一年五月八日
「ルイビトンっ」
五月の微風がわたるスタンド席には、本命が差し切ったメインレースの熱気がいまださめやらず、興奮した群衆の歓声で騒々しい。座席に腰をおろすことなく競馬新聞を握りしめた竹下は、血走った目で最終レースの出走表をにらみつけていた。
直感だった。
この日は朝から負けつづけていた。もしかしたら、過去の戦績や下馬評にまどわされすぎていたのかもしれない。
「こうなったら一点勝負だろ」
そうつぶやきながら、マークカードの7番「ルイビトン」の単勝をプラスチックの短い鉛筆で乱雑に塗りつぶす。聞いたこともない馬の、十三頭立ての十番人気だった。名前の語感だけで決めた。勝って豪遊するつもりでひさびさに競馬場をおとずれたが、これで負けると、今月の家賃すら払えなくなってしまう。この馬に賭けるしかなかった。
刺繡がびっしりと入った赤いナイキのジャージに身をつつんだ竹下は、ポケットに無造作に突っ込んでいた皺だらけの札を取り出した。数えてみると、残っているのは二万七千円だけだった。セカンドバッグに入れて有り金すべて持ってきた七十万円はすでにハズレ馬券となって消えていた。
隣の座席に目をやった。退屈しきった蘭子が、画面にクモの巣状のヒビが入ったスマートフォンを気だるそうにいじっている。五十歳をむかえた年初に、錦糸町の店で引っかけた四十すぎの女だった。
「あといくらある?」
なにか言いたげな顔を浮かべたあと、蘭子が二つ折りのグッチの財布をひらく。
「一万」
「ちょっとだけ貸しといてくれよ、あとでガツンと返すから」
まったくもって少ないが、いまは文句を垂れている場合ではない。投票締め切り時間がせまっていた。
「やめといたら?」
「いいからいいから」
「ぜんぶ使っちゃったら、焼き肉行けなくなっちゃうよ?」
焼き肉へ行くと言って無理やり連れてきたのを忘れていた。
「いいから早く出せって。大丈夫だよ、ぜったい来るから」
蘭子の金をつかむと、竹下は投票所を目指して階段を駆け上った。
投票券を買ってもどってくると、ちょうど眼下のダートコースのゲートに、出走馬たちが係員に伴われて集められていた。
竹下は腰をおろし、座席にそなえつけられたモニターを見つめた。
手持ちの金すべてを注ぎ込んだ七番ルイビトンには、オレンジ色の帽子と青の市松模様の勝負服をまとった騎手がまたがっている。単勝一五六倍、もし的中すれば五百七十七万二千円を手にすることになる。本業の不動産ブローカーの仕事からすればたかが知れているものの、いまは金がない。ここしばらく、いい案件がまわってこなかった。なんとしても当てなければならなかった。
「蘭子、なんか欲しいものあるか? 来たら半分やるよ」
いつの間にか気分が昂っていた。的中する気しかしない。
「うーん、なんだろ。前歯、ぜんぶセラミッククラウンにしたいかも。タケちゃんマンみたいに真っ白なのはイヤだけど」
蘭子が歯をむき出しにして笑う。歯列の乱れた前歯の一部が黒く欠け、全体にタバコの脂で黄ばんでいた。
「ばーか、五百万かかってんだよ」
舌先で前歯の裏側をなぞる。二年前に、シンナーのやりすぎでボロボロだった歯を便器みたいに白い人工のものに変えた。
「タケちゃんマンはなにほしいの?」
「そうだな。ひとまずヴィトンで全身決めて、蘭子連れてハワイでも行くかな」
そう笑い飛ばしながら、コースに視線をむけた。まもなくゲートが開き、十三頭の馬が一斉に飛び出す。
竹下は目をこらし、コースとモニターに交互に視線を走らせた。間もなく一頭が馬群から抜け出し、先頭に立つ。ルイビトンだった。
「ルイビトンっ」
思わず立ち上がる。
最終コーナーを抜けても、背後に馬群をしたがえたルイビトンがなお先頭を走っている。
「ルイビトーンっ」
絶叫し、拳を振り上げた。
残り二百メートルを切った。まだかろうじて一馬身差離している。追いすがる他馬がみるみる距離を詰めてくる。
「そのままっ」
喉が痛む。
「そのままーっ」
叫ばずにはいられなかった。
ゴール寸前で数頭が団子になり、そのままなだれ込んだ。
「ルイビトンだろっ」
新聞をテーブルにたたきつけ、すぐさま着順掲示板に目をむける。一着と二着が空欄のまま、その横に〝写真〟と掲示されている。
息を詰めるように無言で見守った。心臓が激しい音を立てて脈打っている。
やがて結果が確定した。ルイビトンはハナ差でとどかず、二着だった。マークシートを握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。
「……負けちゃったね」
なぐさめるような蘭子の声がかえって神経にさわった。
「うるせぇんだよ、この野郎。ぶっ飛ばすぞ」
「だからやめた方がいいって言ったのに」
竹下がなおも怒鳴り散らそうとしたとき、ポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴っているのに気づいた。見れば、ディスプレイには手下のマルの名前が表示されている。
「んだよ」
竹下が送話口にむかって苛立ちをぶつけると、それが特徴の吞気な声が返ってきた。
「目黒なんですけど、面白いの出てきました」
店内のカウンターでは、ママ相手に若いひとり客が静かに酒を口にしている。何度か来たことのあるスナックで、錦糸町では珍しくまだ出禁を食らっていない。
竹下は蘭子とともに奥のボックス席に陣取り、キープしてあったボトルの水割りを片手に、マルの報告に耳をかたむけていた。マルによれば、都心の一等地にある邸宅の所有者が一昨年亡くなり、香港に暮らすひとり息子に相続されたが、どういう事情かいまだ名義変更がされていないのだという。物件は敷地面積が八十坪におよぶうえ、駅からほど近い第一種中高層住居専用地域の通りに面している。買い手には困らない。現況は誰かが住んでいたり管理されていたりする様子はなく、写真で見るかぎり野ざらしの状態だった。
「いいじゃねえか、これ」
竹下は労をねぎらうようにマルの分厚い肩をたたき、グラスの酒を乾した。
「だから言ったじゃないですか」
嬉しそうに笑い、ただでさえ肉で埋まりそうな目を細めている。
もともと相撲部屋にいたマルは、上背はないのに、現役引退して二年経ったいまも百三十キロを下回っていない。相撲の世界しか知らないせいか、当人の資質のせいか、せっかく仕事についても長続きせずクビになってしまうため、知人に請われる形で、ときどき竹下の仕事を手伝わせている。
「ウラ取ってあんだろうな?」
ついこないだもヘマをやらかしたばかりだった。
「近所に住んでる町内会のおばちゃんも言ってたんで、間違いないす」
マルが額に汗をにじませながら慌てて言った。
「よし、ハリソン山中にこの話持っていこ。あいつなら形にしてくれる」
「なにその、ハリソンなんちゃらって?」
慣れた手つきで竹下の水割りをつくっていた蘭子が口をはさんだ。
「有名な地面師す。不動産の専門家みたいもんすよ」
「変態だけどな。けど、仕事は間違いない。きっちり金にしてくれる」
にわかに気持ちが軽くなってくる。この仕事がうまく嵌まれば、億からの金が転がり込んでくるかもしれない。たかだか数十万円のはした金を競馬ですったくらいで気を揉んでいたのが馬鹿らしかった。
「金の算段もついたし、河岸変えるぞ」
竹下は残りの酒をあおると、腰をうかしてマルに顔をむけた。
「お前、ここ出しといて」
「え。自分金ないっすよ」
目に当惑の色をにじませながら巨大な尻を浮かし、ジーンズの尻ポケットに突っ込んでいたナイロンの財布をひらいている。信じがたいことに札が一枚も入ってない。
「んだよ、てめえ。使えねーな」
竹下はフェードカットしたマルの頭を力まかせにたたき、カウンターのむこうに立つママにむかって愛想笑いを浮かべた。
「悪いんだけどさ、今日のやつ、ツケといて」
「……ツケって、それは困ります。前回とその前の分もいただいてないですから」
予想に反し、毅然とした態度で断られる。水を差された思いだった。
「んなこと言ったって、いま手持ちないんだよ。今度まとめてドカッと色つけて払うからさ、いいじゃん」
道化を演じるように手を合わせて頼んでみる。相手の笑いを引き出せばいいだけのことだった。
「でも、支払っていただかないと、次いついらっしゃるかもわからないし」
笑うどころか、ますます態度を硬化させていく。
「ママもわかんねー女だなぁ」
あまりにも聞き分けが悪い。わずらわしくなってきた。
「今度来たときにちゃんと払うって言ってんじゃん。金はあるの。心配いらねーから、ダイジョブダイジョブ」
竹下はぞんざいに言い残して蘭子とマルを連れて店を出ると、カウンターで静観していた男が追いかけてきた。
「無銭飲食ですよ。払わないんなら警察呼びます」
竹下は踵を返し、苛立ちをおぼえながら男とむかいあった。なにかしら運動習慣があるのかもしれない。座っているときにはわからなかったが、思いのほかがっしりした体格をしている。
「なんだお前、関係ねえだろ」
巨体を揺らしながらすかさず割って入ってきたマルが、男ににじり寄って肩を小突く。
「おい、やめろやめろ」
ここで警察沙汰にでもなったら、せっかく盛り上がった気分が台無しだった。
「竹下さん大丈夫す。自分にやらせてください」
逆上したマルが、感情に流されるままもう一度男に手をのばす。
もみ合いが始まり、瞬間、男が素早く身をひるがえしたかと思うと、マルの巨体を背負ってそのまま体に巻き付けるように倒れ込んだ。素人の芸当ではない。武道の心得がある見事な背負い投げだった。
背中からアスファルトの地面に叩きつけられたマルが悶絶している。
「おい、平気か」
竹下は声をかけてみたものの、激昂してまったく耳に入っていないらしい。
マルは顔をしかめながら立ち上がると、男めがけて突進していった。男が軽やかな身のこなしで、暴走する巨体をかわす。
気づいたときには、体勢を崩したマルが目の前にいた。竹下は避けきれず、マルに突き飛ばされるように地面に倒れ込んだ。縁石に顔面をぶつけ、鈍い音がする。突っ伏したまま顔をゆがめて目をあけると、すぐそこに白い石ころがいくつも転がっている。焦点が暈けて、輪郭が曖昧だった。
背中にマルがのしかかり、息が苦しい。
「どけ、デブっ」
鉛でできた布団のようなマルを突き飛ばし、あらためて石ころを見てみると、視界に飛び込んできたのは、粉々になったセラミッククラウンの歯にちがいなかった。
おそるおそる舌先で前歯の裏をなぞってみる。隙間だらけだった。
「畜生っ」
血の混じった唾液が滴り落ちるのもそのままに、竹下は粉々の人工歯に鉄槌を振り下ろした。
ぼんやりと待っていると、やがてホームに地下鉄の列車が轟音をあげながらすべりこんできた。竹下は乗客が降りるのを待ってから、車内に乗り込み、手近の吊り革をつかんだ。
列車に揺られながら、なにげなくドア上にかかげられた路線図に視線をむける。目的の駅のひとつ隣であり、国技館のある〝両国〟に目が留まった。
相撲つながりで、半年前に故郷の大分に引き上げたマルのことが連想され、ついで、一年半ほど前のスナックでの騒動が思い起こされた。チャップリンの映画でも観ているようなあまりの間抜けさに、笑いがこみあげてくる。
竹下は、笑いを押し隠すようにして、窓ガラスに映る自身の姿に目をやった。
つい先日、仕事の成功を祝って銀座店で購入したルイ・ヴィトンのセットアップに身をつつんでいる。七十万円ほどしたが、紺色の生地には小さなロゴが隙間なくあしらわれていて、気分を高めてくれる。
窓ガラスに映る自分を見つめたまま、口角をあげて笑う。ゆっくりと前歯をむき出しにしてみる。数日前に、歯医者で新たに入れてもらった人工歯だった。縁石にぶつかって粉々になったのと同じように、陶器みたいに真っ白にかがやいている。
正面の座席では、若いサラリーマン二人が会話を交わしていた。どこか楽しげな口調で仕事の愚痴やプライベートな話題を行き交わせている。
竹下は彼らの目を気にすることなく、窓ガラスに映る自分に笑いかけるように繰り返し白い歯列をむいていた。