地面師たち アノニマス
戦場 青柳(石洋ハウス)
二〇一一年五月一日
早朝の国道はまだ車の影は少なく、通り雨で濡れた路面が陽光をはじき返してまばゆい。
ワンピースのゴルフウェアに痩身をつつんだ助手席のママが、化粧を直しながらあくびを嚙み殺している。前夜は自身の店がちょうど七周年で、遅くまで常連と吞み歩いていたらしい。ステーションワゴンのハンドルを握った青柳は、無理を言って付き合ってくれたママに感謝の念をおぼえつつ、湘南方面を目指して南下していった。
「いまどきのウェアっていやらし過ぎるよな。こんなオッパイ強調して。これ、中どうなってんだ」
松平の卑猥な忍び笑いが後ろから聞こえてくる。
「ちょっと、スカートめくらないでください」
モエの動揺をふくんだ声が車内にひびいた。
見れば、眉をひそめたママが、無言で青柳に抗議の視線を送ってくる。
ふだんはフリーランスのデザイナーだというモエは三ヶ月前に入店したばかりだという。二十代のアルバイトは貴重で、ママの反応は経営者として当然だった。青柳は申し訳ないと思いつつも、少々強引だが有力な地上げ屋であり、青柳の重要な取引先でもある松平の機嫌を損ねないよう、ここは耐えてほしいと顔をしかめてみせた。
ふと、さきほどからかすかに聞こえていたはずのサイレンの音が次第に大きくなってくるのに気づく。バックミラーに目をやると、荷室に積んだキャディバッグになかば遮られながらも、後方から赤色灯を忙しく回転させた消防車が接近しているのが見えた。
「ん?」
青柳は徐行して、車を路肩に停めた。
「なに、火事?」
ママが首をのばすようにして窓外に目をやっている。
緊急車両は一台だけではなかった。消防車や救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら次々と青柳の車を追い越し、前方の交差点を右折していく。
すぐに小さくなっていくかに思えたサイレンの音は一定の大きさで鳴りつづけている。現場はこの近くのようだった。
青柳はブレーキペダルから足をはなし、車を発進させた。
「この時間だから、寝タバコかもな。昔いたんだよ、だらしない近所のガキで。何度もボヤやって、最後は家ごと燃やしちまった」
バックミラーに映る松平が、賢しらな調子で意見しながら紙タバコを吸っていた。
「かわいそう」
モエがしおれた声を漏らす。
「命あるだけマシだけどな。命があれば、家がなくなろうとも水虫にかかろうとも、こうして泣く子も黙る、石洋ハウス開発本部の経費で美女とゴルフもできる」
「ちょ……太腿は駄目です」
モエの困惑する声に、たまらず青柳はおどけた調子でいさめた。
「シャチョウ、ここはセクキャバじゃないです。この時間はまだどこもやってません」
松平が愉快そうに笑う。
「青柳さん、そんな他人のことどうこう言える立場じゃないでしょう。来週、コンプライアンス委員会に呼び出されてるくらいなんだから」
「コンプライアンスって、法律がどうこうっていう─」
「ママさんね。青柳さんはね、こんな男前で、澄ました顔してBMW転がしといて、会社では部下をこっぴどく虐めてるんですよ」
「青柳さんそうなの?」
意外といったふうにママが驚いている。
「いやいや、ぜんぜん違います。部下にすごいメンタル豆腐の変なやつがいて、そいつが勝手に勘違いして通報しちゃっただけなんで」
「そうよね。青柳さんは愛妻家だから、そんなことしないよね」
ママの慰めとは裏腹に、バックミラーに映る松平が意味ありげに口元をゆるめている。青柳は舌打ちをこらえ、前方に視線をもどした。
その後、整備の行きわたったゴルフコースでラウンドを周り終え、車の荷室に乗り切らないキャディバッグの郵送手続きを済ませてから、青柳はロッカールームの奥に併設された浴場にむかった。
洗い場で汗を流し、ひろびろとした湯船に身をしずめる。疲労の蓄積した足をぞんぶんに伸ばし、束の間、窓ガラス越しにぼんやりと内庭をながめていると、あとからやってきた松平が青柳の隣に腰をおろした。
「お疲れ様です」
青柳はそう声をかけながら湯の中で居住まいを正した。
「来週はどちらでしたっけ?」
「千葉のPGMです」
渋滞に引っかからなければいいんだけどな、と松平が不服そうに顔をしかめている。
「大丈夫ですよ、早朝プレーですから。また女の子呼びますんで」
松平はかたい表情のままうなずくと、待ち構えていたように口をひらいた。
「今日さ、モエちゃんとエッチしたいんだけど、かまわないよね?」
威圧的な言い方だった。
「……それは、本人次第ですけど」
モエが松平に体を許すとはとても思えなかった。ママの憤った顔が目にうかぶ。
「それくらい、こんな汚れ仕事ばっかやらされてるんだからコーディネートしてもらわないと。今度のやつもヤル気でないよ」
「それは困ります」
青柳は血相を変えた。松平から用地を仕入れられなくなると、今期の予算が達成できなくなってしまう。そうなれば、ようやく手に入れた現在の課長のポストもあやうくなりかねない。それだけはなんとしても避けなければならなかった。
モエを説得してみるとつたえると、松平がどこか楽しげにほくそ笑んだ。
「それで、幡ヶ谷の件は大丈夫そうですか」
「ごねまくってた中華料理屋の方はもう手付打ったんで、あの現場は大丈夫です。隣のビルに入ってるラーメン屋も金額の折り合いがつきそうですから」
松平が地上げをおこなっているのは、四軒の古びた建物からなる現場で、まとまれば大通りに面した三百坪を超える一団の土地が生まれる。低層階に商業施設をようした地下一階地上十五階のマンションを建設できる希少な物件だった。
「ウチにお願いしますね」
青柳は念を押すように語気を強めた。
「わかってますって。そのかわり、もう二千万上乗せさせてください」
「……二千万ですか」
立ち退きに応じないテナントの店主に納得して明け渡してもらうには、店の移転準備金としてどうしても追加で必要なのだという。すでに松平から呈示されている仕入れ金額ですら、採算ラインの瀬戸際だった。部長を説得し、了承を得ることができるのか。
「無理なら、今期中に話をまとめるのは諦めてください」
足元を見るようなにべもない語調だった。
「わかりました」
青柳は覚悟を決めて言った。
「そのかわり、必ずウチでお願いしますね」
相手は満足げにうなずき、くつろぎきったように体勢を崩して肩まで湯に浸かった。
「そういえば、まだ表になってないけど、フォージーハウスが地面師に八億やられたらしいよ。北参道だったかな」
松平ののんびりした声が浴場にひびく。
「地面師に騙される奴なんているんですか」
にわかに信じられなかった。業界内でもっとも勢いのあるフォージーハウスがよほど油断していたとしか考えられない。
「現に、やられてるからね。青柳さんも気をつけた方がいいよ」
─私はそこまで馬鹿じゃないですよ。
そう鼻で笑ってやりたい衝動を必死にこらえ、青柳は神妙をよそおって低頭した。
役員会議室には、張り詰めた空気がただよっていた。
石洋ハウスの顧問弁護士であるコンプライアンス委員長の事務的な声が、さきほどから断続的にひびきわたっている。
「つづいて、平成二十三年◯月◯日午前九時頃、青柳課長がキャビネットに思い切り拳をたたきつけて『お前はほんとに使えねえな。ここは戦場なんだよ。お前みたいな雑魚は肉壁にもならねえからとっとと消えろ』と朝礼の場で罵った」
委員長はそこで言葉を切り、手元の書類に落としていた視線をあげた。
「これは事実ですか」
重厚なテーブルのむこうで委員長とともに居並ぶ、監査役や総務部長など各委員の視線が青柳のもとにあつまる。
歯がゆい思いで報告書を聞いていた青柳は、あわてて口をひらいた。
「いや、それはなんというか相手方の勘違いといいますか、解釈の違いといいますか。こちらとしては部下のことを思って奮起をうながしただけのことで─」
なおも弁解しようとして、委員長にさえぎられた。
「解釈ではなく、事実かどうかをお聞きしています。このような事実はあったんですか、なかったんですか」
答えに窮した。
顔色をうかがうように隣を一瞥する。直属の上司である開発本部長はまるで関心がなさそうに、無言でテーブルの天板を見つめていた。
青柳は意を決して言った。
「……ありません」
待ち構えていたように委員長が眼鏡の鼻あてに手をやり、別の書類に目を落としている。
「先方の弁護士から、一連のやり取りを記録した日記と音声データがあるという通知書がきています」
顔から血の気が引いていくのが自覚された。
「裁判になれば証拠採用される可能性が高いです。あるいはそうした証拠がマスコミに流れても、甚大なレピュテーションリスクとなりえます。青柳さん、正直にお答えください。本当に事実ではないのですか」
嫌な汗が全身の毛穴から一斉に吹き出してくる。助け舟が欲しかった。視界の片隅に映る開発本部長は黙ったままだった。
かたく口をつぐんでいた青柳は唇をかすかにふるわせながら、
「……申し訳ありませんでした」
と、言葉を絞り出した。
委員会の事情聴取を終えて開発本部にもどると、すぐさま本部長室に呼ばれた。
本部長室のドアを開けると、エグゼクティブチェアに腰掛けた本部長が苛立たしげに眉をひそめていた。
直立不動の姿勢をとった青柳は、顔がひきつっているのを自覚しながら深々と頭をさげた。
「どうしてくれんだ、おめえ」
おごそかな本部長の低声が耳朶にふれる。
「申し訳ありませんでしたっ」
よもや録音されているとは思っていなかった。
「俺さ、お前に気をつけろって言ったよな?」
「……功を焦りすぎました」
青柳は伏し目がちに言った。
「おい」
苛立たしげな声だった。
「功を焦ることと俺に迷惑かけんのとなんか関係あんのか」
答えられず、唇を引きむすんだ。
「功はもっと焦れ。幡ヶ谷の件どうなってんだ、間に合うのか」
ほんのわずかだが、期待をふくんだ訊き方に聞こえた。にわかに気持ちが明るんでくる。
「幡ヶ谷は大丈夫です。近日中にまとまります」
いっさいの迷いを振り捨てて言い切った。自然と声に力がみなぎっていた。
「それきっちりやれたら、コンプラのやつはなんとかしてやる」
青柳は救われた思いで低頭し、本部長室をあとにした。
課にもどってくると、部下たちが軽薄な笑みをうかべて雑談に興じているのが目に入った。
青柳は入り口で足を止めた。
「松尾」
呼ばれたことにも気づかず、談笑をつづけている。
もう一度名前を呼ぶかわりに、かたわらのキャビネットを思い切り拳でたたきつけた。話し声が止み、静まり返る。
「松尾さ」
ささやくような声で言った。
「俺が本部長に𠮟られてんのがそんなに面白いか」
松尾が度をうしなったように中途半端に腰をうかす。
「……いえ、そんな」
瞠目して口ごもっている。
「お前、今期未達だったら徹底的に潰すからな。いいな。いっさい容赦しねえから」
青ざめた表情の松尾を無視して自席に腰をおろすと、サーフィンで真っ黒に日焼けした課長補佐が書類をかかえてやってきた。
「高梨さんところが、池袋の案件買わないかってきてます」
指定暴力団がメインの金主と噂される地上げ屋だった。大型開発が見込める池袋の種地をおさえ、立ち退き交渉をしているというのは以前から知っていた。地上げが成功したら競合ディベロッパーに卸すと聞いていたが、交渉に時間がかかって経費がかさみ、金額で折り合いがつかなくなったのかもしれない。
「いくらだ?」
「二十四億からです」
思ったよりも相当に高い。
「買いか?」
「うちのフォーマットでやるとすると、こんな感じです」
課長補佐が試算表をしめしてくる。
青柳はそれを見て眉をひそめた。この価格だと利益が出るどころか、かなりの赤字を引き受けなければならなかった。幡ヶ谷の案件で今期のノルマは達成できるとはいえ、これだけの規模の土地はそう簡単には出てこない。
少し思案したのち、険しい表情のままかぶりを振った。
亀有の駅にほど近い夜明けの住宅街をBMWが走り抜けていく。この時間はまだ薄暗く、ひっそりとしていて人影もほとんどない。
青柳は、築浅の大型マンション前の路肩に車を停め、松平に電話をかけた。呼び出し音は鳴るものの、応答がない。約束の時間が過ぎても電話はつながらず、メッセージの返信もこない。自宅の部屋番号を聞いていなかったのは迂闊で、焦れた思いでエントランスを注視していても、ベルディングのキャディバッグを肩にかけた松平はいっこうにあらわれてこなかった。
自宅まで迎えに行くと約束している女性参加者二人に、それぞれ遅刻する旨メッセージを送っていると、ふと、エントランスに目がいった。
ゴルフウェア姿の松平がスーツ姿の男たちに囲まれて出てきた。あとにつづいて、同様にかたい表情をした数名の男が段ボールをかかえている。
彼らを待ち受けていたのか、物陰から二人の男性が飛び出てきて、不快そうに眉間に皺を寄せている松平にビデオカメラをむけながら、しきりになにごとか話しかけていた。
突然のことに事態が吞み込めず、青柳は混乱したまま車を降りた。
スーツの男たちにうながされ、前方に停まっていたセダンに身を入れようとした松平が青柳に気づいた。
「青柳っ」
静かな早朝の住宅街に怒声がひびきわたる。
「てめえのせいだからな。おぼえとけよっ」
男たちが松平の頭をおさえるようにして後部座席に押し込むと、すぐに車は走り出した。
記者とおぼしき男が、走り去る車にビデオカメラをむけている。青柳はおぼつかない足で記者に近づいていった。
「なにがあったんですか」
記者の顔に不審の色がうかぶ。
「松平さんの知人です」
そう告げると、相手が納得するようにうなずいた。
「警察にしょっぴかれたんですよ、地上げの非弁行為で。不法侵入と脅迫もつくって話ですけど」
なにかの間違いだと思いたかった。
「……非弁行為って、じゃ、刑務所入るんですか」
「相当めちゃくちゃやったみたいだから、執行猶予はつかないと思いますよ」
まさか刑務所に入るなど思ってもみない。松平がいなくなったら、幡ヶ谷の案件はどうなってしまうのか。得体のしれない焦燥感が胸中で膨らみつづけ、息苦しかった。
「申し訳ないんですが、顔は出さないんで、コメントいただけませんか」
記者がそう言ってビデオカメラをむけてくる。
青柳は、焦点の合わない目を路上にすえたまま、その場に立ち尽くしていた。
運転席にもどり、車を発進させる。松平の自宅マンション前をはなれ、やみくもに車を走らせた。
「……どうすんだ」
頭の中がいぜんとして錯乱している。どうすべきか考えが少しもまとまらない。
ふと見ると、助手席に転がしてあるサムスンのスマートフォンが鳴っている。迎えに行くと約束していた女性の一人だった。相手にしている場合ではなかった。
軽快な曲調を奏でる着信音がやんだ。
青柳は助手席に手をのばすと、静かになった端末をつかみ、課長補佐の携帯電話にスピーカーモードで発信した。二十コールを数えて、ようやく相手が出た。
「お疲れ様す」
寝ていたにしては威勢のいい声だった。
「お前、いまどこだ」
「幡ヶ谷の現場にむかっているところです」
課長補佐の声の後ろで波音が聞こえている。
「噓つくなっ」
「すいません。外房の海です」
この非常時に、吞気に波遊びをしているのが許しがたかった。前方の信号が黄から赤に変わる。青柳は慌ててブレーキペダルを踏んだ。
「池袋の案件、まだ間に合うか」
激した感情をおさえてたずねる。
「買うんですか」
「俺が買えって言ってんだからつべこべ言わずに買えよ、この野郎」
怒りにまかせてステアリングに拳を打ちつけた。衝動的にスマートフォンをつかみとり、送話口にむかって、
「なんでもいいからいますぐ買え。買えなかったら、お前を地図帳で撲殺する」
と、苛立った声をぶつけた。
電話を切り、気づいたときには会社にむかって車を走らせていた。日曜日でも、たいていは午前中から会社にいるのを知っていた。
会社に着き、本部長室のドアをノックする。膝頭の震えが止まらない。
許可を得て室内に入ると、本部長はデスクの奥で書類に目を落としていた。唇がわななくのもかまわず、青柳は口をひらいた。
「幡ヶ谷の案件……今期中は難しくなりました」
手元の書類にむいていた顔がおもむろにあがった。
「お前、なに言ってんだ?」
背筋に冷たいものがおりてくる。逃げ出したいほど冷酷な表情だった。屈するようにその場で膝をつく。本部長の足元に置いてあるルイ・ヴィトンのブリーフケースが視界に入っていた。
「申し訳ございません。必ず今期中に、他の案件で埋め合わせますっ」
青柳は声を張り上げると、全身に脂汗をかきながら床に額を押しつけつづけた。