地面師たち アノニマス
剃髪 川合菜摘(尼僧)

二〇一一年一月十八日

 昼食が終わった時間を見計らって病室に入ると、ベッドに横たわった母が半身をおこして窓の外をながめていた。七十歳を超えてから以前より物思いにふけることが増えたような気がする。
 ヘリコプターがそう遠くないところを飛行しているらしい。特徴的な騒音が室内にまで透過し、ドアを閉める音もかき消された。
 来訪者に気づいて、母がそっと頰をゆるめる。
「髪、切ったのね」
 川井菜摘はうなずいて、ベッド脇の椅子に腰かけた。
 昨日、セミロングだった髪をベリーショートにしてきたばかりだった。美容師にすすめられた髪型とはいえ、母に対する自分なりの譲歩のつもりだった。
「似合うじゃない」
 どことなく皮肉をふくんでいるように聞こえた。
 ありがとうと返して、つい相手の頭に目がいった。入院してから剃髪がむずかしくなり、その結果いくらか伸びていた髪は、先日からはじまった抗癌剤治療の副作用でいまは半分ほどが無惨に抜け落ちてしまっている。
 母が、おもむろに視線を窓へもどす。
「なつかしいわ」
 しみじみ漏らす母の言葉にうながされるように、そちらへ顔をむける。眼下に築地市場がひろがっていた。扇状の敷地に何棟もの建屋が寄せ集まり、その隙間を移動する車両や人の姿も見える。市場のむこうを流れる隅田川の水面が、冬の陽光をうけてかがやいていた。
「小さいとき、川井の祖父の幼馴染みが仲卸だったからよく連れてってもらったの。まだ晴海通りにチンチン電車が走ってて」
 前にも聞いた話だと思いつつも、川井は黙って耳をかたむけていた。
「あと何年かしたら豊洲に移転してなくなっちゃうのね。寂しいわ」
「二〇一四年だっけ」
「けど、そのときには私も死んでるから、壊されるところ見なくて済むわね」
 母が平然としながら自嘲気味に笑っている。
「お母さん、先生も大丈夫だって言ってるんだから、冗談でも、そういうのやめて」
 これまで病気らしい病気をしてこなかった母が子宮頸癌のステージ2と診断されたのは、去年の秋のことだった。担当の医師からは順調に治療が進めば克服できると言われている。
「諸行無常ね。私も、私なりにがんばってきたつもりだけど」
 物憂げで、どこか当てつけるような言い方だった。安土桃山時代からつづく寺を尼僧として引き継ぎ、今日まで守ってきた母の気苦労がにじみでている。
「ちょっと……もう終わりみたいなこと勝手に言わないでよ」
 つい先日、母の体調を考慮して、彼女がになっていた寺の宗教法人の代表役員に選任されたばかりだった。時代を超えて受け継がれてきた寺に生まれた以上、いつかはそうしなければならないのは理解していた。
 それでも、正直なところ気乗りはしない。古い因習にしばられながらなにかを守り抜くよりも、既存のものを打ち壊しながら新たなものを創造していく生き方に惹かれる。法事の読経くらいはあげるつもりでいても、母のように剃髪する気はさらさらなかった。
「カズくんだって施設の方がんばってくれてるし」
 寺から少し離れた大通り沿いに立つ女性専用の更生保護施設は、刑務所を出ても帰住先のない女性がいることを知った、祖父の進言をうけて母が設立したもので、仮釈放者や満期出所者の社会復帰を支援する目的で運営されている。年少の夫であるカズキは、母からそこの運営をまかされ、一定期間、被支援者の住居や食事の提供をしていた。
「マサルおじさんだって、今度の理事会もそうだけどなにかと気にかけてくれてるんだから」
 母方の従伯父は企業勤めをしながら寺の責任役員をつとめ、新人住職をささえてくれている。春には、ドイツに駐在中の一人娘であり、寺の後継者でもある紗都美も帰ってくる。
「身内が一番油断ならないんじゃない」
 母が鼻で笑う。
「それは……お母さんが」
 そのさきをつづけようとして、慌てて口をつぐんだ。
 母が婿入りした父と決裂し、もつれにもつれた離婚が成立したのは、十年近く前のことになる。決裂の原因は、父が無断で家の金に手をつけて投資していた株の失敗だった。いくばくかの和解金をわたして父に出ていってもらったらしいが、それ以来、母はますますその狷介な性格を強くした。
 母が疲れ切った表情で築地市場を見下ろしている。いぜんとしてヘリコプターの音がかすかながら聞こえていた。

 満員の世田谷パブリックシアターが盛大な歓声と拍手につつまれる。
 川井も座席から腰をうかす。青春の追憶を呼び起こすような非日常の余韻にひたりながら、壇上でカーテンコールにこたえる役者陣に拍手を送った。
 幕がおりたあと、出口へむかう観客の人波をはずれ、楽屋を訪れた。座長をつとめる麻子の顔を見つけると、川井はハイブランドのサングラスをはずして手をあげた。
 汗みどろで化粧の崩れた相手が嬉しそうに歩み寄ってくる。
「やだ、サングラスしてるからどこの大女優かと思った。菜摘、髪変えたの? カッコいいじゃん」
「ちょっと、からかわないでよ」
 川井はわざとらしく眉をひそめて笑った。
 麻子は、大学時代に青春のすべてをそそぎこんだ演劇サークルの仲間だった。母の執拗な反対にあって演劇の世界で生きることを断念した川井とは対照的に、麻子は卒業後も地道に活動をつづけ、いまではテレビドラマや映画でも活躍するトップ女優として華ひらいている。
「すごいよかった」
 川井は、いましがた劇場で感得した興奮をつたえた。
「ありがと。和田先生にも観てもらいたかったけど」
 麻子は、年始に亡くなった演出家の和田勉と何度も仕事をともにし、昔から私淑していた。
「でも、菜摘が差し入れしてくれた叙々苑弁当のおかげ。ちょっと待って、みんなにお礼言ってもらお」
 麻子は楽屋にいる共演者やスタッフにむかって、弁当の礼を述べるよう大声で呼びかけた。川井は気恥ずかしさをおぼえながらも、低頭した。
「あれ、今日はイケメンの旦那は一緒じゃなかったの?」
 観劇するときはなるべくカズキと一緒に来るようにしている。芝居を観たあとに、互いに感想を交わしながら評判のレストランで食事をするのが、変化のとぼしい日々の中で至福の時間だった。このあとも、食事だけは一緒にすることになっている。
「来る予定だったんだけど、急な仕事が入っちゃったみたいで。ごめんね、せっかくチケットいただいたのに」
 施設の運営者としての仕事は、入所者の自立支援はむろんのこと、受刑者の面接や釈放者の出迎え、委託費や補助金からなる予算の編成や配分、常勤、非常勤をふくめた職員の管理、保護司や協力雇用主といった関係先との調整など多岐にわたっている。ここ最近は若年者を中心に入所者の入れ替わりが頻発しているようで、なかなか会えない時間がつづいていた。
「そうだ、今度の銀婚式、リッツでやるんでしょ? ほんとラブラブだよね」
 独身をつらぬいている麻子が冗談まじりに言う。お世辞とわかっていても嬉しい。
「私は二人で食事でもしようって言ったんだけど、あっちが盛大にやろうって聞かないから」
 子供みたいに単純で少し強引なところもあるが、そうしたところもふくめてカズキのことが好きだった。
「忙しいと思うけど、都合つくようならからかいに来て」
 挨拶の順番待ちができている麻子にそう言い残し、楽屋をあとにした。
 エントランスホールで携帯電話の電源を入れると、カズキからの不在着信が残っていた。かけ直して、端末の受話口を耳に当てる。間もなく相手が応答した。
「カズくんごめん、いま終わった。お店に直接待ち合わせでいい?」
 自然と声が弾んでしまう。ここからほど近い馴染みのイタリアンを予約していた。カズキの好物であるビステッカも注文済みだった。
「ナッちゃん、それなんだけどさ」
 カズキが弱った声を出し、言葉をついだ。
「今度入ってきた入所者さんが職場でトラブっちゃって、これからそっち対応しなきゃいけないから、今夜は難しいかも」
 期待が大きかったぶん落胆も大きかった。
「そっか。それじゃ仕方ないね」
 気を取り直し、明るい声で返した。
「夜ご飯、なんか作っとこっか。ビステッカ、お持ち帰りにしてもらうっていう手もあるし」
 どれだけ美味しい料理が出てきたとしても、一人で食事をするくらいなら、質素でもカズキと一緒がよかった。
「あ、いい、いい。たぶん遅くなるから、こっちで適当にやる」
「了解」
 自分を鼓舞するように川井は健気に微笑んだ。
「ナッちゃん……平気?」
 カズキが慎重そうにたずねてくる。電話のむこうで、こちらを案じている端整な顔が容易に目に浮かんだ。
「うん……私は大丈夫。ありがと、がんばってね」
 そう言って電話を切ろうとしたときだった。
「なんだよ、お前さっきからしつけえな。知らねえっつってんだろっ」
 相手の受話口から距離のあるところで、カズキが声を荒らげている。誰にむかって怒鳴っているのか。
「カズくん、どうしたの?」
「ナッちゃんごめん。また連絡する」
 それで電話が切れてしまった。
 川井はいぶかりつつも、建物を出て、往来の絶えない雑踏に踏み出していった。

 寺の本堂に、建具の隙間からかすかながら外の冷気がしのびこんでいる。隙間なく敷かれた畳に、早春のおだやかな光が障子越しに差し込んでいた。
 川井はストーブを点けると、年季の入った座卓にお茶請けや湯吞みをならべ、押入れから持ってきた座布団を置いていった。
 庫裏に通じる戸がひらき、寝室で休んでいたカズキが寝不足気味の表情で入ってきた。
「おはよ、大丈夫?」
 昨夜も、関係先との会食で帰りが遅かった。このところ付き合いが増えている。体を壊さないか心配だった。
「今日の会合ってなんなの? 役員会とかじゃないんでしょ?」
 カズキが不満を口にしながら、がっしりした長身を折るようにして座布団に腰をおろす。定期役員会は先日実施したばかりで、臨時役員会の招集権をもっているのは代表役員の川井だけだった。
「わかんない。マサルおじさんが話があるから、カズくんも呼んでくれって」
 参道の方から話し声が近づいてくる。
 入り口の戸が開き、ダウンジャケットを羽織った小太りの従伯父があらわれた。一人かと思っていたら、スーツ姿の男もあとから革靴を脱いで入ってくる。川井には見覚えがなく、隣のカズキも怪訝そうな表情を浮かべていた。
「お母さんの具合、どうだ?」
 従伯父がダウンジャケットを脱ぎながら、川井たちのむかいにあぐらをかいた。
「担当のお医者さんは、このまま順調にいけば寛解できるって言ってますけど……母はあんまり元気がなくて」
 川井は答えつつも、従伯父の隣に正座しているスーツの男が何者かわからず落ち着かなかった。タイミングを見計らっていたように、スーツの男が名刺を渡しながら丁重に挨拶をしてきた。不動産屋だという。
 不動産屋がどうしてここに来るのか疑問に思っていると、従伯父が口をひらいた。
「前回のときは、触れなかったんだが、お前も知ってるように檀家さんの数が減っている。率直に言って、寺の経営状況がよろしくない。このままだとこの寺の存続もあやうい」
 川井は焦燥感をおぼえながら耳をかたむけていた。檀家の減少は母からも報告を受けていたが、まさかそこまで深刻な事態に陥っているとは思っていなかった。先祖が綿々と守りぬいてきたこの寺を自分たちの代で仕舞うことになってしまうのか。築地市場を見下ろしていた母の寂しげな横顔が思い起こされる。
「幸い、そっちは余ってる土地がある」
 従伯父が不安をとりのぞくような声で言った。
 個人的な資産として、母には先代から受け継ぎ、自らも増やした不動産がかなりある。いずれは川井が相続することになるはずだった。
「たとえば、いまカズキがやってる施設の駐車場をこっちの法人に寄進して、マンションを建てるっていう手もある」
 思いもしていなかった従伯父の話に、川井はまごついた。すかさずカズキが割って入ってくる。
「ちょっと待ってよ。あそこ普通に使ってるから」
 理事長兼施設長として現場をあずかっている立場としては当然の意見だった。
「いいから、最後まで聞け」
 従伯父がとがった声を出す。
 うながされて不動産屋が座卓に資料をひろげた。
「私どもに土地をゆずっていただき、そこに高層マンションを建設いたします。そうすれば、地代として、貴山に三十億円お支払いできます。もちろんそこから税金等は差し引かれますが、残りの資金で貴山の経営基盤はじゅうぶん安定するはずです」
 川井は、資料に記されたマンションの建設プランに動揺した視線をそそいだ。出し抜けにこんなものを見せられても判断のしようがない。
 黙っていると、従伯父がしびれを切らしたようにまくしたててきた。
「な、悪いようにはしないから。本山もその方がいいって言ってくれてるし、お母さんにも言ってこっちの法人にあの土地を寄進しろ。本当に寺がなくなっちゃうぞ」
「そんなこと……急に言われても」
 対応に窮していると、隣から手を差し伸べるようにそっと耳打ちしてくる。
「んなの、真に受ける必要ねえって」
 救われる思いだった。
 カズキが居住まいを正してから、座卓のむこうに顔をもどす。
「お話はわかりました。大事なことなので、家族で相談して決めたいと思います」
 従伯父がなかば圧倒されるように言葉をうしなっていた。
「ナッちゃん、それでいいよね?」
 カズキの目元に微笑が浮かぶ。川井は安堵してうなずいた。

 自室のドレッサー前に腰かけたドレス姿の川井は、入念にメイクを済ませ、さんざん悩んで選んだピアスをつけていた。気分が高まっている。これからザ・リッツ・カールトンのボードルームでの銀婚式がひかえていた。
「ナッちゃん、準備できた? タクシー来てるよ」
 玄関の方からカズキの声が聞こえてくる。
「いま行くから、さき行ってて」
 ピアスを装着してから、あらためて鏡の前で全身を点検する。ぬかりはなさそうだった。
 玄関でロングコートを羽織り、この日のために買ったピンヒールに足を入れる。下駄箱の上にある鍵を取ろうとした際に、A4大の封筒に目がいく。朝方、郵便ポストからとってきたままにしていた。
 送り主は、従伯父と結託してマンション建設用地の寄進をすすめてきた不動産会社のものだった。いまだ諦めきれないでいるらしい。
 先日の会合のあと、カズキが顧問の税理士に相談したところ、寺の存続があやぶまれるような財務状況ではなく、むこう二十年までにかかる寺の維持や仏事の費用を勘案しても憂慮すべき点はないとのことだった。
 経済的にさほど豊かとはいえない従伯父が不動産屋にそそのかされて私腹を肥やそうとしたか、場合によっては寺の乗っ取りを企んでいたのではないか、というのがカズキの意見だった。穿ち過ぎた見方のような気もするが、かといって、それを否定する材料があるわけでもなかった。
 あらためて母の懸念が胸底に生じる。それでも、頼もしいカズキの存在がすぐにその不安を振り払ってくれた。
 玄関の鍵をかけたところで、ハンドバッグに入れていた携帯電話が鳴っているのに気づく。ドイツにいる娘からだった。
 たまにメッセージのやりとりがあるだけで、川井から電話をかけることも、むこうから電話がかかってくることもほとんどない。カズキには申し訳なかったが、後回しにしない方がいいような予感がした。
「どうしたの?」
 現地は朝のはずだった。仕事ははじまっていないのか。
「……うん」
 ひさびさに聞く娘の声は、なにかしら葛藤の響きをふくんでいた。
「どうしたのよ」
 川井は、相手の緊張を解きほぐすように微笑んでみせた。
「あのね……春にそっちに帰る予定だったんだけど、しばらくこっちに残ることになったの」
 もっと深刻なことかと思っていた。気が楽になる。
「駐在が延長になったってこと?」
「ちがうのそうじゃないの」
 娘が受話口越しに切迫した声をひびかせる。
 彼女は、いったん思い決めたことは曲げない。頑ななところは川井の母にそっくりだった。
「……そうじゃないって?」
 本当のことを知るのがためらわれる。
「会社を辞めることにしたの。こっちの人と……結婚するの」
「え。結婚?」
 取り乱して、声が大きくなる。
「だから、日本にはしばらく帰れないの」
「しばらくって……ずっとそっちに暮らすつもりなの?」
 娘が帰国したら、寺のことを手伝ってもらうつもりでいた。
「……わかんない」
「わかんないって……」
 もし娘がこのままドイツに永住することになれば、寺を引き継ぎ、守るものがいなくなる。にわかに、底しれぬ不安が襲いかかってくる。
「ごめんなさい……また連絡するから」
 それで電話が切れた。
 川井は呆然とした状態で、カズキの待つタクシーの方へ歩いていった。
 足元がおぼつかず、頭が混乱していた。寂しそうな母の笑声がどこかでしている。しだいに大きくなり、苦しげな嗚咽に変わっていった。
 不意に怒号がし、現実に引き戻された。
「だから、知らねえっつってんだろっ」
 カズキの声だった。
 見ると、タクシーの前で、カズキが中年男性と言い争っている。
 ジャーナリストなのか。肩にビジネスバッグをかけた中年男性はボイスレコーダーのようなものをカズキにむけながら、なにごとか問いただしている。
「それじゃあ、おたずねしますけどね。平成二十二年五月まで入所されていた当時二十六歳の森田多恵さんはご存知ですよね?」
 森田多恵という入所者がいたのは川井も知っている。窃盗の依存症で刑務所に入り、施設に入所してからは、自立支援の一環として本堂で行われる勤行に何度も参加していた。
 カズキがジャーナリストを無視してタクシーの後部座席に乗り込む。
「ナッちゃん、早く乗って。こいつ頭おかしいから相手にしちゃ駄目」
 事態が吞み込めず、川井がまごついていると、ジャーナリストが後部座席にむけて厳しい口調で問い詰めていく。
「森田多恵さんは、あなたに何度も性行為を強要されたと主張しています。挙げ句、妊娠して、あなたに堕ろせと言われて泣く泣く堕ろしたと。当時のメールも残っています。これは事実ではありませんか」
 耳を疑う内容だった。
「どういうことですか……ちゃんと説明してください」
 横から川井がジャーナリストにせまると、相手が眉をひそめた。
「川井和希の妻です」
 ジャーナリストが逡巡するように川井とカズキの顔を交互に見ると、週刊誌名が記された名刺を差し出しながら、
「いまご主人におたずねしたとおりです」
 と、断定的に言った。
 タクシーの中からカズキの声が飛んでくる。
「ぜんぶ出鱈目だぞ」
 ジャーナリストはそれを無視して、つづけた。
「ご主人は、更生保護施設の入所者に、立場を利用してこれまで常習的に性暴力をくわえてきたんです。一人じゃありません。いまの時点で複数名の証言がとれています」
 事実だとしたら、吐き気を催すような内容だった。カズキがそのような残忍なことをするはずがなかった。
 うろたえながら後部座席をのぞきこんだ。カズキが前方に視線をすえながら不機嫌そうに腕を組んでいる。
「本当なの?」
 川井がたずねると、背後で声がした。
「噓だよね」
 ジャーナリストのそれではなかった。
 驚いて振り返ると、白いベンチコートを着た若い女性がすぐそこに立っていた。見覚えがある。薬物事件で実刑をうけ、一年ほど前に仮釈放されて施設に入所してきた女性にちがいなかった。
「カズさん、噓だよね」
 川井を押しのけて、女性が後部座席をのぞきこむ。カズキが口をうすくあけて、瞠目していた。
 カズキを悲痛な表情で見つめたまま、女性がベンチコートの上から自らの腹部に手をやる。
「カズさん、この子も堕ろすつもりなの?」
 その場に立ち尽くす川井の手からハンドバッグがこぼれ落ち、冷たい夕暮れの路上に転がった。

 川井は、洗面台の鏡に映る自分の顔をじっと見つめていた。
 迷いは少しもなかった。
 電動バリカンのスイッチを入れ、前髪の生え際から頭頂部にむかって刃をすべらせていく。モーターの鈍い音がひびき、かすかな音を立てて髪の束が洗面ボウルに落ちる。すべての髪を刈り終えると、泡立てた洗剤を一ミリほどになった髪になでつけ、剃刀で丹念に剃り落としていった。
 剃髪を済ませてから、法衣をまとい、庫裏をあとにする。誰もいない本堂は静まり返っていた。
 川井は須弥壇の前で正座すると、本尊を見つめ、手をつきながらうっすらと青い頭を深々と下げた。
 この日は、母の四十九日だった。治療は順調に進んでいたが、癌が転移し、本人が予感していたとおりあっけなく最期を迎えた。
 川井は鈴棒を手にし、かたわらに置かれた一尺三寸の鈴をたたいた。澄み切った心地よい低音がひびきわたり、その長々とした余韻が室内をみたして次第に消失していく。
 そっと目を伏せ、白檀の香をきいた。
 耳を澄ませば、障子のむこう、小雨が境内の樹葉を打つ音が聞こえてくる。静かに合掌して、声低く読経をはじめた。
 更生保護施設の入所者に性的暴行をかさねていたことを週刊誌に暴露された夫は、連日マスコミに追い回され、身ごもった元薬物中毒者の入所者をつれて出ていった。いまはどこでなにをしているかわからない。女と駆け落ちしたあとの調査で、川井家が所有しているマンション等を夫が無断で売却していたことが判明した。警察に被害届を出したものの、不動産がもどってくる可能性は低いという。すぐにでも離婚したいところだが、消息不明なため裁判所の判断を仰がなければならなかった。更生保護施設は閉鎖が決まり、入所者や従業員への補償手続きがすすめられている。
 一連の騒動で看板に傷をつけたとして、本山や同じ包括宗教法人である他山から連日のように糾弾された。これ以上の迷惑がかからぬよう、単立宗教法人として寺を守っていくことを決め、協議の末、先日正式に受理される見通しが立った。
 不動産屋と結託して川井家の土地を売り飛ばそうとした挙げ句、ひそかに寺の金を不当に使い込んでいた責任役員の従伯父は解任決議をしたが、こちらは裁判で争うことになり、解決までには長い時間がかかりそうだった。
 ドイツに行ったきりの娘は、結婚するととつぜん告げてきたあの電話から音沙汰がない。何度かこちらから連絡しようと思ったこともあったが、結局しなかった。娘がどのような人と結婚したのか、そもそも結婚したのか、今後どうするつもりなのかなにもわからない……。
 この先のことを思うと、胸が押しつぶされそうになり、読経をとなえる声が震える。
 川井は眉根を寄せながら腹圧を高め、語気を強めた。
 わずかだが湿っぽさをふくんだ般若心経が本堂にひびきつづける。時折、遠くで春雷がとどろいていた。