地面師たち アノニマス
街の光 辰(刑事)

二〇一〇年四月十四日


 二十八階でエレベーターを降りると、天井の高い豪奢なロビーがひろがっていた。
 早朝のレセプションカウンターには、ホテルのスタッフが一人いるだけでチェックアウト客の姿はまだない。ロビーの右方に面した営業前のラウンジが、フルハイトのガラス窓から差し込む朝日によってまばゆく照らされている。
 辰たちがあらわれるのを待ち構えていたかのように、藤森が足早に近寄ってくる。代々木署の藤森らに、一週間ほど前から、ホテルの協力のもと二十四時間態勢でバックヤードの防犯カメラを監視させている。標的は、ここのロイヤルスイートルームを根城にしているハリソン山中だった。
「前の晩の十時に部屋に戻ってからそのままです」
 藤森が押し殺したような声で言う。張り込みの疲労が骨ばった顔ににじんでいるものの、眼光に精気がみなぎっていた。
「女は?」
 本庁捜査二課から応援に来ている辰が、ほかの捜査員に代わってたずねた。前夜、ハリソン山中の部屋に二人の若い女が入ったという報告を受けていた。
「二人とも一度も出てきてません」
 辰は、かたわらの同僚らにむかって無言でうなずき、階上の客室フロアへ急行した。
 スイートルームのドアの前に捜査員があつまり、部屋のチャイムを押してみるが反応がない。まだ寝ているのか。ホテルのスタッフにたのんでマスターキーを使おうとしたとき、部屋の扉がひらいてバスローブ姿のハリソン山中があらわれた。
「山中だな」
 辰はそう言って、持参した令状をかかげた。
「お前に逮捕状が出てる」
 三年前、土地の詐欺を専門に手掛けるいわゆる地面師一味が、渋谷区西原にある土地の所有者になりすまし、偽造書類や偽造免許証などを用意して、新宿の不動産会社から六億二千万円を騙し取る事件が発生した。
 事件後、渋谷署と警視庁の合同捜査本部が設置され、警視庁捜査二課で以前から地面師事件を担当していた辰も捜査にあたることとなった。土地の所有者になりすましていた老女をはじめ、「なにも知らなかった」「自分も騙された」などと主張していた司法書士崩れや不動産ブローカーらも、地道な捜査で証拠を積みかさねたことで、逮捕・送検にこぎつけた。その後、事件を計画し、実行部隊に指示していたのがハリソン山中だと判明し、行方を追っていたが、先日ついに、高級ホテルに滞在しているという情報がもたらされ、この日ようやく身柄をおさえることがかなったのだ。
「朝早くご苦労さまです」
 ハリソン山中がまるで来客でも迎え入れるかのように、軽く微笑んでいる。表情に動揺の色は見うけられず、話しぶりにも余裕があった。
 ほかの捜査員とともに、なだれこむように内部へ突入していく。
 洗練されたモダンな部屋は、このホテルで最もグレードが高く、ゆうに二百平米を超える。ダイニングスペースのあるリビングルームやバスルームにくわえ、二つのベッドルームをそなえていた。
「……とんでもねえ部屋だな」
 リビングルームの窓辺に立った辰は、眼下にひろがる浜離宮庭園を見下ろしながらつぶやいた。一泊百万円はくだらない部屋にこうして滞在できるのも、落ち度のない他人から大金を騙し取ったからにほかならない。そう思うと、胸中に言い知れぬ苛立ちがつのってくる。
「辰さん」
 メインベッドルームにいる藤森が呼んでいる。
 そちらへおもむくと、キングサイズのベッドに二人の女がぐったりした様子で寝ていた。二人とも裸だった。一人は腰にペニスバンドが装着されていて、もう一人の手元にはレズビアン用とおぼしき、湾曲した双頭のディルドが転がっている。
 女性捜査員が二人にシーツをかけて、呼びかけながら揺すり起こすと、目を覚まし、辰たちを見て小さな悲鳴をあげた。髪型は異なるものの、顔が酷似している。一卵性の双生児のようだった。
 辰はリビングにもどり、ソファに優雅に腰かけているハリソン山中のもとへ歩み寄った。
「いい趣味してんだな」
 突き放すようにつぶやいて、相手の目に視線を据えた。
 この男のことがいまひとつ摑めないでいた。令状を見せられても、大勢の捜査員に室内を捜索されても顔色一つ変えない。諦めているわけでも虚勢を張っているわけでもなさそうだった。
「やればわかりますよ、この素晴らしさが。オールドヴィンテージのブルゴーニュを口にしながら、それぞれの穴の微妙な襞の違いを楽しんでいるうち、渇いた心がどっぷりと愛液に浸りきり、この世に生をうけた意味が理解できます」
 ハリソン山中が小指にはめた二連のリングをまわしながら、恍惚とした表情でローテーブルをながめている。テーブルには、前夜の宴を物語るようにオードブルやワイングラスが残されていた。
「彼女たちには相応の謝礼をお支払いしてますから、刑事さんも試してみますか。ご自身の人生がいかに退屈なものか多少は理解できるかと思います」
 相手の表情に喜色がうかび出ている。
「ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ、この野郎」
 隣で見守っていた藤森が凄む。
 辰は平静を保ったままハリソン山中を見下ろし、
「さっさと服着ろ。もっとうまいメシ食わしてやる」
 と、乾いた声で告げた。

 コンクリートに囲われた狭い取調室に、怒号がひびきわたっていた。
「黙ってねえで、なんか言えよこの野郎」
 激昂した藤森が、スチールデスクの脚を勢いよく蹴りつける。
 アルマーニの部屋着姿のハリソン山中は、パイプ椅子に腰縄でくくりつけられたまま無言で背をもたせていた。手錠は外されていて、くつろいだように伏し目がちに指を組んでいる。二連の指輪がはめられていた右手の小指は、指輪とともに義指が没収されて短く欠損していた。
 ホテルのスイートルームでハリソン山中を詐欺の容疑で逮捕してから、偽造有印公文書行使、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の再逮捕をかさね、すでに勾留延長して二ヶ月以上経っている。ハリソン山中は、東京地検特捜部出身の弁護士団と連日のように接見しているものの、取り調べでは徹底して黙秘をつらぬいていた。
「藤森」
 かたわらで見守っていた辰は、藤森に席をはずしてもらうよう言った。
 二人きりになり、ハリソン山中とデスクをはさんでむかいあった。
「ほかの奴らはみんなお前にたのまれてやったって言ってる。このまま黙ってるつもりか」
 共犯者は誰ひとりそのような供述をした事実はないが、相手の口を割ることさえできればなんだってよかった。
 手元を見つめたまま口をつぐむハリソン山中の表情に、変化らしきものは見られない。
「お前の過去を少し調べた」
 辰は、付き合いのあるジャーナリストに調べてもらった情報を思い起こしながらつづけた。
「水商売をしていたシングルマザーの母親が養育拒否をして、十歳のときに都内の児童養護施設に入所」
 頭脳明晰で、学校では学年トップクラスの成績を残し、中学の頃には廃品やグッズの転売などで大人顔負けに金を稼いでいたという。一方で、施設でも学校でも友人はおらず、いつも一人で過ごしていたらしい。
「平気な顔して噓ばかりつくから、ホラ中って呼ばれてたんだってな」
 そう言うと、ハリソン山中の表情が険しい色に染まった、かに見えた。
「ホラ中」と名付けた施設の男子は、ハリソン山中に手足を拘束され、肛門から塩酸系トイレ洗剤を大量に注入されたことにより直腸が損傷し、人工肛門を造設することになったらしい。ハリソン山中は傷害罪で逮捕、起訴され、少年鑑別所を経て中等少年院に送致されている。
 黙秘していたハリソン山中が、座り直し、おだやかな声で言った。
「いまはご兄弟の家に居候しているようですが、ご自宅は町田市の鶴川ですよね? 小田急線の鶴川駅からバスで十分ほど行ったところにある」
 意表をつかれ、言葉に詰まった。
「どうして知ってる」
 ハリソン山中はそれには答えず、先をつづけた。
「リーマンブラジャーズというお店をご存じですか」
 頭をめぐらしてみたが、覚えはなかった。相手の狙いが読めず、急に気持ちが落ち着かなくなってくる。
「町田の駅前にあるピンサロです」
「お前の行きつけの店のことなんて興味ない」
 不安を打ち消すように語勢を強めた。とうとつに相手が風俗店を話題にした理由がわからない。
「そうでしょうかね」
 ハリソン山中が不思議そうに首をかしげてから、
「勤務されてるのをご存じないんですか」
 と、とぼけたように言った。
「……勤務?」
「アヤという源氏名でしたかね、娘さん。鶴川なら学校帰りに寄れるので通いやすいんだと思います」
 頭の中が真っ白になる。
「出鱈目言うなっ」
 暴発した感情をおさえられなかった。
「私がこんなさもしい噓をついて、どんなメリットがあるでしょう。ご教示いただけますか」
 ハリソン山中がおだやかな声で言った。
 なにも言い返すことができず、口をつぐんだ。思考が渦巻くように頭の中で入り乱れ、めまいすらする。そのまま席を立ち、打ちひしがれたように取調室を出てきてしまった。
 ドアの外で待機していた藤森が歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか、顔色悪いですよ。また腎臓悪くしたんじゃないですか」
 曖昧な返事しかできない。吹き出した脂汗で額が濡れていた。
「今日は帰ったらどうですか。自分、あとやっときますんで。ずっと道場に泊まりっぱなしだと体休まんないですよ」
 辰は力なくうなずき、その場を離れた。

 通り過ぎざまに、さりげなく横目をむける。間口の狭い入り口から薄暗い地下へと階段がつづいているのが見える。
 往復したのはこれで何度目か。いくらこうしていても埒があかなかった。
 辰は、意を決して踵を返した。
 たったいま通り過ぎた店の前に、〝只今の料金 六〇〇〇円〟と表記されたリーマンブラジャーズの下品な看板が置かれている。
 勢いのまま店の階段を降りていく。
 息が乱れ、心臓が痛いほど音を立てていた。長く正座したあとのように足がおぼつかなかった。
 代々木署をあとにして、すぐに携帯電話で店のホームページを確認した。見ると、ハリソン山中が言っていたように、たしかにアヤという十九歳のキャストが在籍していた。ホームページに掲載されている写真は顔にモザイクがかかっていて、娘かどうかまではわからない。娘なのか、どうか。もしそうだとしたら、どの娘か。三女はまだ高校生だから、大学生の次女か、飲食店で働いている長女なのか。出勤予定を見ると、アヤは本日出勤予定となっていた─。
 階段を降りきると、小さなカウンターのむこうに、見るからに胡散臭い中年の男性店員が立っていた。
「指名は?」
 男が不機嫌そうに言った。
「……いや、あの、今日出勤している女性の写真見ることできますか」
 声が上ずり、足がすくむ。これを確かめてなにをしたいのか、自分でもよくわからなかった。
「写真見ると、指名料かかっちゃうけど」
「……大丈夫です」
 店員がカードケースにおさめられた写真の束を取り出し、カウンターに順にならべていく。
「いますぐいける娘だと、この三人」
 辰は、三枚の写真に視線をそそいだ。いずれも知らない顔だった。
「それと……」
 店員がカウンター内の壁でなにかを確認してから、
「十五分待てるんなら、ルミさんと……アヤさんもいけるかな」
 と、追加で二枚の写真をカウンターにならべる。
〝アヤ〟とラベルが貼られた写真に目が吸い寄せられた。呼吸が止まりそうだった。
 白いワイシャツを羽織った下着姿の次女が、両手で膝をかかえながら床に腰をおろし、カメラにむかってひかえめに会釈している。
 無自覚のうちに、写真を手にとっていた。噓であってほしかった。
「アヤさんね。何分コース?」
「いや……」
 ふと目をやると、黒いカーテンの隙間から内部の様子が見えた。薄暗い室内にミラーボールに弾かれた光が散乱し、大音量のダンスミュージックがかかっている。時折、音楽にまぎれるように、キャストらしき女性の笑い声が聞こえていた。
「えー、四番シート四番シート。アヤさんアヤさん。五分前がんばって」
 店内アナウンスが聞こえ、我に返った。
「ちょっと、すみません」
 辰は慌てて写真をもどすと、逃げるように階段をのぼっていった。

 一週間分の汚れ物を自分専用の洗濯カゴに入れ、リビングの戸を開けた。
 貿易会社で経理をしている兄はまだ帰宅していないらしい。兄嫁がソファに座ってテレビを観ている。
「いきなり帰ってこられても、ご飯ないけど」
 兄嫁の声に、わずかながら非難の響きがふくまれている。
 妻と衝突し、兄夫婦の家に転がり込んだのは、半年以上前のことだった。当初は一、二週間のつもりだったから、兄嫁が迷惑がるのも無理はない。
「義姉さん、すみません。もう食事は済ませてきたんで、大丈夫です」
 食欲はなかった。
「洗濯物、洗濯機に入れてない? 洗濯カゴにちゃんと入れた?」
「はい、入れました」
 辰は神妙にうなずき、玄関脇にある四畳半の和室に入った。かつての甥の部屋で、現在は生け花が趣味の兄嫁の部屋を使わせてもらっている。
 寝袋の脇にあぐらをかき、途中で買ってきたシーチキン缶をつまみにビールを口にする。いつもなら身にしみる酒も、苦いだけで少しも美味しく感じられない。
 缶ビールをかたむけながら、つい考えてしまうのは次女のことだった。大学に通っている次女は、どのような事情があって風俗店などで働かなければならないのか。三人姉妹の中でもっともおとなしく、自分のことよりも他人を優先するようなところがあるが、別居中で顔をあわせていないからわからない。別居前でも、仕事が忙しくほとんど家に帰っていなかったからわからなかった。家には変わらず金を入れているとはいえ、兄夫婦にも生活費をわたしているために、前ほどの金額にはいたっていない。次女が風俗店に勤める事情のいくらかは別居のせいにちがいなかった。
 辰は、壁掛け時計に目をやった。まだこの時間なら帰ってこられそうだった。部屋を出て、リビングに顔を出す。
「すみません、ちょっと出かけます」
 そう告げると、兄嫁はテレビに顔をむけたまま、わずわらしそうに片手をあげた。
 最寄り駅から新宿で乗り換え、さきほども乗った小田急線にふたたび身を入れる。帰宅時間とかさなり、ほかの乗客と押し合うほどに車内は混雑していた。
 辰はドアに身をもたせ、窓の外に目をむけた。
 夜陰につつまれた住宅街がどこまでもひろがり、密集した家々にぽつぽつと明かりがともっている。時折、電車が大きく揺れ、ほかの客が後ろからのしかかってくる。ドアに体を押しつぶされながら、じっと街の光を見つめていた。
 鶴川の駅で下車し、バスに揺られた。徐々に自宅が近づいてくる。気が重かった。来なければよかったという後悔が繰り返し去来していた。
 停留所でバスを降り、鉛のような足で見慣れた夜道を歩く。角を曲がった先に、ローンで買った二階建ての自宅が見えてきた。居間の窓は明かりがともっているが、通りに面した二階の次女の部屋は電気が消えている。
 門扉の前に立つ。ためらいがちにチャイムに手を伸ばしてみたものの、怖じ気づき、引っ込めてしまった。やはりやめようか。
 踵を返そうとして、シャツを羽織って下着姿で会釈する次女が脳裏をかすめた。どことなく不安そうな顔だった。
 辰は、迷いを振り払ってチャイムを押した。
 しばらくして門扉のむこうに見える玄関の電灯がともった。玄関のドアがひらき、怪訝そうに妻が出てきた。
「なに……いきなり」
 あからさまに不快そうな感じに、まごついてしまう。もしかしたら……という淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
「近く、通りかかってな」
 門扉の前に立ったまま言った。歓迎されないのは承知の上だった。
 妻と不仲になった直接の原因はいまも判然としない。朝も夜もなく、平日と休日の切れ目もない、刑事というヤクザな仕事に追われ、家のことをすべて妻に押しつけてきた結果なのかもしれない。気づいたときには、妻に離婚を切り出されていた。どうにか説得し、ひとまず別居することで離婚を待ってもらっていた。
「来るときは、前もって連絡してって言ったよね」
 妻がとがった声を出し、眉間に皺を寄せている。
「……するつもりだったんだけどな」
 辰は所在なげに視線を落とし、ふたたび妻の顔にもどした。
「みんな、変わりないか」
 次女のことを訊きたかった。妻はどこまで知っているのか。
「一緒。なんも変わりないけど」
 なにも知らないのかもしれない。
「いろいろ……思うところはあるんだろうけど、ずっと俺なりに反省してきたんだ」
 辰はそこまで言うと、ほんの少しためらって、
「もう一度……やり直さないか。あいつらのためにも」
 と、言った。
 妻が足元に視線を落とす。思い詰めたように沈黙している。顔を伏せたまま口をひらいた。
「……帰って」
 拒絶の意思をはっきりとしめす冷淡な言い方だった。
「そうか。わかった……」
 諦めてその場を離れ、来た道に足をむける。
 背後で女性の言い争う声がしたかと思うと、門扉をひらく音のあとで足音が近づいてきた。
「お父さん」
 なつかしい声だった。
 振り返ると、すぐそこに次女が立っていた。街灯に照らされた表情は、風俗店で目にした写真のそれと違い、切迫している。
「行っちゃうの? お父さんの家だよ」
 胸が張り裂けそうだった。溢れ出しそうな感情をこらえ、頰をゆるめた。
「元気でやってるか」
 次女が、泣き出しそうな顔でうなずく。
「また来るよ」
 辰はそう明るく言って、踵を返した。
 その場に立ち尽くす次女の気配を背中に感じる。振り返りたい衝動を必死におさえこんだ。
 一歩踏み出すたび、激しい後悔と自責の念が襲いかかってくる。次女に対する謝罪を口中で繰り返しながら、足早に夜道をすすんだ。

 厚みのある揚げたてのかき揚げを箸で押しつぶし、熱いつゆに軽く浸してから口にはこぶ。減退していた食欲がいくらかもどっているのがわかる。つゆに沈んだ蕎麦をすくい上げ、額に汗を浮かべながら音を立ててすすった。
 署内に食堂のない代々木署にいるときは、初台まで歩き、この立ち食い蕎麦屋で昼食をとるようにしている。にしん蕎麦にするか、かき揚げ蕎麦にするか悩ましく、券売機の前に立っても迷ってしまうのが常だが、それもまたささやかな楽しみのひとつだった。
 つゆをすべて飲み干し、爪楊枝を使いながら携帯電話を見ると、次女からメッセージがとどいていた。前夜のことがあったからだろう。こちらの体を気遣う内容だった。自宅の前で呼び止めてきた次女の、あのなんとも言えない悲痛な顔があらためてよみがえってくる。
 返信しようとしたときだった。
「辰さん」
 署内にいたはずの藤森が血相を変えてやってきた。
「どうした」
 嫌な予感がし、心臓の鼓動が激しくなる。
「ハリソン山中が不起訴になりました」
「なんでだ」
 丼を返却台にもどし、署へ急行した。
 署内では情報が錯綜していた。自白はとれなかったものの、いちおうの証拠は揃っている。不起訴の理由がわからず、検察に問い合わせても「総合的に判断した」と返ってくるのみだった。
「ハリソン山中が出ます」
 藤森とともに、玄関へ降りた。
 初夏の日差しが照りつける中、外で待っていると、釈放されたハリソン山中がボストンバッグを手に提げて出てきた。見慣れたアルマーニの部屋着ではなく、麻の半袖シャツにゆったりとした若草色のスラックス姿だった。右手の小指に義指と二連のリングがもどっている。
「お世話になりました。評判の臭いメシをもっと堪能したかったので、こうなってしまってとても残念です」
 落ち着いた声をひびかせながら、ハリソン山中が口元をゆるめる。
「調子乗ってんじゃねえぞ、この野郎」
 藤森が凄む。
 辰は、眼前を通り過ぎる長身の地面師を無言でにらみつけていた。
「そうだ」
 ハリソン山中がなにかを思い出したように足を止め、振り返った。
「リーマンブラジャーズのアヤさんは、今日は出勤でしたか」
 頭の中で真っ白な閃光が炸裂した。
「てめえ、ぶっ殺してやるっ」
 ハリソン山中に突進する。
「辰さん」
 藤森におさえられ、そのまま羽交い締めにされた。
「離せっ」
 力ずくで振りほどこうとする。腕力の差がありすぎた。
 愉快げに辰をながめていたハリソン山中が、満足したように身をひるがえす。遠ざかっていくその背中を、藤森の腕の中でもがきながらにらみつづけていた。