私が初めて村田沙耶香作品に出会ったのは二〇一一年の大震災の直後、早稲田文学会によるバイリンガルチャリティプロジェクトで、彼女の短編が公開された時でした。その企画のために短編小説を翻訳してくれる人を募集していて、作品リストの中から一つを選んで翻訳するというものでした。そこで私が選んだのが、当時私には未知だった村田沙耶香という作家による『かぜのこいびと』で、一見可愛いラブストーリーの体裁ながら、そこに描かれる若い恋人の恋愛と背信と寝室のカーテンの意外な役割の描写に、妙に深いものを感じたのです。それ以来十四年間、村田作品の翻訳を沢山手掛けて来ましたが、今や村田沙耶香は四十を超える言語に翻訳される世界的な人気作家。単行本の翻訳も今年出版される『消滅世界』で四作目になりますが、私に取っても、当初思いもしなかったすごい旅になってしまいました。
村田作品が海外で注目されるきっかけになったのは、二〇一四年に早稲田文学とイギリスのGrantaの協力で出版された『Granta Japan』のために依頼されて翻訳した『清潔な結婚』だったと思います。翻訳しながらもすごい物語だと驚嘆しましたが、それが意外なほど好評で、この作家は一体どこの誰なんだ、この作家の作品をもっと読みたいと、わざわざ問い合わせてくる読者もいたのです。そんな経験は初めてで、私自身も村田沙耶香の世界をもっと深く知りたいと思い、村田作品を片っ端から読み始め、徐々に翻訳も手掛けていました。
村田作品の人気に本格的に火が付いたのは、二〇一六年の芥川賞受賞作品『コンビニ人間』で、二〇一八年に英語版がアメリカのGrove AtlanticとイギリスのPortobello Books(今のGranta)から出版されると突然ベストセラーになり、アメリカのNew YorkerのBest Bookの一つやロンドンの本屋のFoyles Book Of The Year他、いくつもの賞にノミネートされたのでした。この反響には私自身驚きましたが、何故なのかを考えてみるのは面白いと思います。
村田さんの作品には共通して醒めた合理の眼が根底に流れていますが、日常の異常さを容赦なく見つめる『コンビニ人間』の主人公・恵子の悪意も偏見もない眼は、我々が様々な噓を駆使して世間の円滑を護っている姿を暴き出します。その語りのスタイルには妙にとぼけたユーモアがあり、つい大笑いしながら読んでしまいます。でも同時にそこには奇妙な不穏さが漂い、不思議な怖れの気持ちを抱かされるのです。
国際的なベストセラーになったのは、読者の共感を呼ぶテーマが仕込んであるのも理由でしょう。極東の異国日本でも女性が普通にアルバイトをやっているというだけで新鮮だったり、結婚や出産へのプレッシャーとか、女性を見る目が化粧やファッションや立ち居振る舞いに影響される様には、国や文化を超えるものがあります。世界中で多くの女性が同じような課題に直面していると思います。他方、それぞれの文化背景によって受け止め方が違う部分もあり、例えば『コンビニ人間』の恵子は、多くの国で自閉症スペクトラムという枠組みで論じられるようです。それが誤解とは言えませんが、村田さんご自身にはそういう発想はなかったそうで、日本の読者の多くもそういう目では見ていないと思います。
さて、アメリカの出版社は『コンビニ人間』の並外れた成功を見て、その次のタイトルの検討を始めました。出版社としては短編集よりも印象的な長編を望んだのですが、『コンビニ人間』は他の村田作品とはかなり趣を異にしてたので、どれにするか決めかねていました。ちょうどその時、『地球星人』が出版されました。私はそれを読んで、すごい作品だと思いましたが、『コンビニ人間』に続くタイトルとして推選するに相応しいかどうか、検討が必要でした。なぜならば、『地球星人』には、子供の虐待がリアルに描かれているのです。家庭での精神的な虐待で心がゆがめられて育った主人公奈月は、塾の先生からは性的虐待を受けますが、その描写が目を背けたくなるほどリアルです。人格が傷ついて壊れてゆく奈月が聴覚、味覚と順次五感を失ってゆくプロセスの描写は読むに堪えないですが、それは実は現実世界にも起こっていることで、とても大切な部分だと、私は思っています。それに続くシュールな教師の殺害やカニバリズム、そして頭が爆発するような最後の数ページ。『コンビニ人間』とはあまりにも作風が違うので、後継タイトルとしては大胆な選択でした。
異なる国の異なる文化背景も鑑みて、Grove Atlanticの編集者Peter Blackstockには私の懸念を全て説明しましたが、検討に検討を重ねた結果、思い切ってそれで行くことになりました。ドキドキしましたが、結果的に良い選択でした。確かに、トリガーワーニングを付けるべきだったという読者の声も聞かれ、『コンビニ人間』のファンの多くには衝撃的すぎたようですが、村田作品の深さを理解する読者の間では、逆に彼女の人気がより固まる結果になったと思います。
この衝撃的な長編に続いたのが、短編集『生命式』でした。シュールな「パズル」、優しくタブーを打ち破る「素敵な素材」や「生命式」、愉快で甘美な「夏の夜の口付け」、夢のような「大きな星の時間」など、多彩な作品を集めた短編集で、海外の読者にも村田さんのアイデアやテーマの幅広さが伝わったと思います。
今年四月に英語出版される『消滅世界』は、また趣の異なる長編で、家族やセックスとはそもそも何なのだろうかと、私たちの存在の根源に関わる疑問を投げつけて来ます。『地球星人』よりは読みやすいですが、最後のどんでん返しで新たなタブー破りに至ります。それに対して世界の読者からどんな反応が出てくるか、半分怖く、半分楽しみです。
これら村田作品を翻訳するうえで、どのような苦労があるかと訊ねられることがよくあります。翻訳者に取って、村田沙耶香はとても面白い作家です。私は彼女の作品がすべて大好きですが、それを翻訳するとなると、彼女ならではの独特の書き方やスタイルがあって、それを英語でどう伝えるか、確かに一筋縄ではいかない工夫が必要になります。小説を訳すときに私がいつも意識しているのが物語の声(narrative voice)です。それが、物語のトーンやスタイルからペースやリズムに至るまで、すべてを統括します。読者が登場人物をどこまで理解するか、読者がどこまで物語に入り込めるかが、それで決まります。それが物語に命を吹き込むのです。翻訳者の仕事は、原文にある物語の声を丁寧に聞き取り、それをターゲット言語で出来る限り再現する方法を見つけることなのです。物語の声と言ってもいろいろな要素や現れ方がありますが、根本的なところでは、物語の世界を、まさに私たちの視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感を通した体験に仕立て上げることだと、私は考えています。
例を挙げると、『コンビニ人間』の冒頭の段落では、日本人なら誰でも知っている、しかし日本独特の現象であるコンビニエンスストアを、聴覚を通して呼び出します。村田さんは「音」という言葉を意図的に繰り返すだけで、日本の読者をコンビニエンスストアの世界に瞬時にいざなえるのです。しかし、英語ではこのような繰り返しは単に雑に聞こえ、日本語のような効果は得られません。そこで解決策として、まず冒頭の文章「コンビニエンスストアは、音で満ちている」を“A convenience store is a world of sound”と訳したのです。「音の世界」とすることで、この世界が特別で特殊な世界であることを、日本のコンビニを知らない読者にまず明示するのです。それに続けて今度は読者にとって新しいこの世界に没頭してもらうために、音をより生き生きと伝えるオノマトペのような音感を伴う単語を使って、ドアの「chime」、バーコードスキャナーの「beep」などと訳したのです。
これを『地球星人』の冒頭と比べてみると、そこでは機能障害(dysfunction)と感情の混乱を暗示するような、かなり冷ややかな視覚的描写が、衝撃的な言葉や思いがけないイメージで綴られ、「夜の欠片」、「急カーブ」、「破裂しそうに膨らんだ葉っぱの内側」、「真っ黒な闇」などと、今度は視覚的な手法で読者を見知らぬ世界に一気に引き込みます。それに続く段落では、小学五年生の少女の声で一人称の語りが、児童虐待、殺人、カニバリズムにつながる、深く不穏な物語のトーンを決めるのです。
なお、村田さんはユーモアをよく使います。『コンビニ人間』では、このユーモアが主人公の悪意のない超論理的な語り口から生まれ、時に他の登場人物の悪意と、滑稽な組み合わせで対比されます。恵子が子供のとき、死んだ鳥を公園で見つけ、それを食べようと言った時、そこにいた別の子供の母の反応の描写が「目と鼻の穴と口が一斉にがばりと開いた」。その「がばりと」で笑わせるイメージをどうやって英語で伝えようかと長らく悩んだ末、やっと思いついたのが、“she gaped at me, her eyes, nostrils, and mouth forming per-fect O’s”でした。
このような機微を理解するうえで、私は村田沙耶香さん本人と直接やり取りするという特別な幸運に恵まれ、何年にもわたるコラボレーションを通して村田作品をより深いレベルで理解できるようになったと思います。その中で村田さんが繰り返し仰るのは、「本当の本当」をいつも探しているということです。世間の常識、家族の意味、セックス、出産、社会システムなど、彼女が幼少期から抱いてきた根源的疑問に対して、何かヒントを得られないかと、思考実験の旅に出るのでしょう。彼女の危険だったり非常識とも思えるほど真摯な探求には心洗われる心地さえ覚えます。
そして、村田さんが数年をかけて書いてきた超長編『世界99』がいよいよ世に出ます。上・下巻で八百ページを超える大作なので、海外の出版はずいぶん先になるでしょうけれど、これも衝撃的な作品なのでトリガーワーニングをつけた方がいいかもしれないと、村田さんご自身が仰ってました。『世界99』の主人公・如月空子が目の前の世界に呼応するために「分裂」を繰り返して生きる姿は、『コンビニ人間』の恵子が周りの人をコピーすることに通じますし、短編「孵化」の主人公にはもっと類似しています。『消滅世界』では男が産めるようになって、出産は女性だけの役割ではなくなり、家族の存在意義が問われましたが、『世界99』ではさらに踏み込んで、架空の愛玩動物が人間の子供を産むという設定で、私たちが自分たちのために動物を利用することにも疑問を投げかけている。そして、その可愛い愛玩動物は、現代社会における女性の立場に並べて考えずにはいられません。タブーを破ることはもちろん、彼女は難しいテーマからも逃げないので、この作品には本当に読みにくいところがあります。しかし、今までの作品の底流となって来たテーマを発展させていて、主人公が幼少期から老年期を過ごし、その間に彼女が受けたあらゆる影響の結果を見ていく。ショッキングですが、深みがあります。
この数年間、村田沙耶香の空想力をめぐる旅は、面白くて、時には劇的で危険な冒険でしたが、それを経験する機会に恵まれたことをとても幸運に思っています。これから彼女が独自の世界を深めてゆく中でどんなものが出てくるのか、興味深く見守って行きたいと思っています。