村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を初めて読んだのは二〇一八年だった。誰に勧められたかもはや覚えていないが、読んだあとの感動は忘れられない。数時間で読めるこの短い作品は、人間社会の、「普通」や「常識」について考えさせるだけでなく、笑わせてくれたり、困惑させたりする奇跡的なものだった。さらに、リズミカルで明晰な文体で書かれ、ウイットに富んでいるため、休憩もせず最後までうきうきしながら読める作品である。
この小説をぜひアルメニアの読者にも届けたいと思い、アルメニアの大手出版社「アンタレス」に連絡してみたところ、短期間で翻訳出版権の手続きをしてもらい、翻訳作業に取りかかった。それまでは短編小説しか翻訳していなかったが、『コンビニ人間』のわかりやすい文体の翻訳は困難ではなかった。とはいえ、いうまでもなく悩まされたところも多数あった。例えば、書名をどう訳せばいいのか。アルメニアにはコンビニがない、したがってそれを表す言葉もない。また、「いらっしゃいませ」「アルバイト」などという、アルメニア語には存在しない、あるいは同じ意味を持たない表現をどうやってアルメニア語に置き換えたらよいだろうか。そういったところについてかなり考えさせられたが、結局一部(例えば、「コンビニ」と「いらっしゃいませ」)は注釈をつけ、そのままアルメニア文字で表記した。
『コンビニ人間』のアルメニア語訳が国際交流基金の翻訳出版助成金で刊行されたのは二〇二〇年の秋だったが、その当時アルメニアは戦争中だった(第二次ナゴルノ・カラバフ紛争)ため、出版記念イベントを開くことができなかった。戦争後の十二月にアンタレス出版社が企画したブックトークも政治情勢により中止せざるを得なかった。このように、宣伝が不十分だったが、何人かの文学研究者やジャーナリストに紹介され、さらに村田さんからいただいた「アルメニアの読者への手紙」の効果もあり、広く読まれるようになった。
私の想像通り、この小説に関心をもち、共感するアルメニア人が多かった。「普通」と「常識」を求められがちなところは日本とアルメニアの共通点の一つだといえるし、古倉恵子が感じていた生き苦しさは少なくとも一部のアルメニア人女性も感じているのではないかと考えていたからだ。「正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ」という言葉は多くのアルメニア人の心にも響いていたようだ。
出版後、ソーシャルネットワークサービスなどで多くの意見が寄せられた。「短い小説でありながら、多くの問題について考えさせてくれる」。「書店で働いている人間として、店の『音』、客との接し方について読むのが興味深かった。非常にうまく言語化されていると思った」。「みんなお互いを真似しながら自分の人格を形成しているということに気付かされた」などという意見があった。
しかし、感想のなかで特に目立っていたのは、「これはまるでアルメニアの話のようだ」、「主人公の名前さえ置き換えたら、アルメニアを舞台にした物語に見えてしまう」というものだったといえよう。フェミニスト詩人のハスミク・シモニャンは「アルメニアの現実とも共通点を持ち、女性の地位、男女関係、家族制度などについて深く考えさせる小説だ」と述べた。「お正月に遊びに来る親戚の説教や拷問のような質問を思い出した」と笑いながらコメントする読者もいれば、「まさにこの小説を読んでいる真っ最中に『いつ結婚するの? もう歳だから』と言われた」という読者もいた。コロナ禍でサービス業の仕事を失った読者が、「せめてまともな仕事を見つけなさい」などといわれ、「古倉恵子は私だ」という声も少なくなかった。
さらに、この小説をテーマにした卒業論文なども執筆されるようになり、私が所属している大学だけでも現在までに卒業論文一本、修士論文一本が提出されている。
『コンビニ人間』はアルメニアの読者に親しまれたためか、しばしば「村田沙耶香の他の小説もアルメニア語で読んでみたい」という声が届いてくる。次はどの作品を訳せばよいのか、私もよく考えている。「殺人出産」はアルメニアの読者にとって衝撃的すぎるだろう。ただし、「清潔な結婚」(『殺人出産』所収)は人気になりそう。『地球星人』を受け入れる準備は、アルメニア人の大多数にはまだできていないだろう。個人的には『授乳』が大好物。そして、『生命式』。エッセイ集の『きれいなシワの作り方:淑女の思春期病』もとても好きだ。しかし、『世界99』を読んでから、この作品こそ一番翻訳したいと考えるようになった。
小説の宣伝文にも書かれているように、『世界99』は間違いなく「村田沙耶香の現時点の全てが詰め込まれた、全世界待望のディストピア大長編!」である。『世界99』の主人公如月空子は、周りを真似し、周りに行動を合わせて、みんなの期待通りに振舞う人物なのだ。一見古倉恵子を思い起こさせるが、古倉よりはるかにうまく「媚び」、「呼応」や「トレース」をし、さまざまなコミュニティーで認められている存在。ある場面では「そらちゃん」、「そらっち」、また別の場面では「キサちゃん」、「姫」、「教祖」、「おっさん」、実に多くの世界を生きている。空子は歴史のない「クリーン・タウン」に住んでいる。父親と母親の関係、また両親との空子の関係は「支配」と「被支配」という形になっており、空子は決して一番弱いメンバーではない。家族内の権力関係のこの鋭い描写が、支配と従属の構造に関する示唆に富んでいる。
空子たちの世界にはピョコルンという、白くてふわふわで「強制的に可愛い」謎の生き物がいる。この生き物は、最初はあくまでもペットだったが、次第に変貌し、性欲の処理、出産、育児、家事などをぶつけられるようになる。さらに、ラロロリン人という、特殊な遺伝子を持つ人たちがいる。ラロロリン人はこの物語のなかで次第に中心的な役割を持つようになる。
空子の生きる世界はどんどん変わっていく。ピョコルンをめぐる衝撃的な事件のあと、世界が「リセット」され、人間社会が大きく変化する。人間の記憶や価値観がまるで修正され、「汚い感情」を持たない人たちは増加する。新しい形の家族やピョコルンと一緒に「クリーンな人」として生活している空子はやがて、ある大規模な「儀式」に参加することを決断する……。
上・下巻合わせて八五〇ページ以上の長さにもかかわらず、『世界99』は一気に読みたくなる小説なのだ。徹夜が苦手な私でさえ、続きを早く読みたくて、睡眠を削ったほどである。表現の鋭さや斬新さ、村田さんの独特なリズミカルな文体、『世界99』は実に芸術性豊かな作品である。忘れたくない表現や文が多く、手帳がどんどんメモで埋まっていく。「ウエガイコク」と「シタガイコク」、「強制的に可愛い」、「集団感動ヒステリー」、「母ルン」、「自分が自分を存在させるための奴隷」、村田さん独特のフレーズが数多くある。
そして、この小説は実に多くの問題について考えさせてくれている。自分の「性格」を持つということは何なのだろうか。私たちはみんなお互いを「トレース」しながら行動していないか。支配や差別はどんな構造を持っているのか。女性たちがどんな「技」を生かして生き延びているのか。私たちの記憶は確かなものなのか、あるいは修正され、改竄され、再構成されているのか。自分の生活を「楽」にするために別の生き物を「使って」よいのだろうか。「平凡」な人たちは社会を変えることができるのか、あるいは無力なのか。『世界99』は実に多くの思索の種を与えてくれている。
アルメニアの読者は、この小説をどう受け止めるのだろうか。『コンビニ人間』の著者の作品として『世界99』を手に取り、意外な展開に衝撃を受け、読みさす者もいるということを容易に想像できる。しかし、大多数はおそらく世界情勢やアルメニアの現実を鑑みながら熟読し、さまざまな問題について考えるだろう。読み方や感じ方に個人差が生じるのはいうまでもないが、アルメニアにおける二〇二〇年以降の政治的、社会的雰囲気を考えると、記憶や過去の「改竄」、価値観の「白紙化」や「アップデート」が最も議論を引き起こすのではないかと思われる。現在、隣国との関係などをめぐり、アルメニア人のアイデンティティーや最近まで信じてきたことの「書き換え」あるいは「再構築」が試みられているといえよう。それゆえ、村田さんの使う「リセット」や「再生」、またその他の概念が多くのアルメニア人の心にもしみるだろう。
独特な表現であふれているこの大長編小説は、翻訳者にとって非常に難しい課題となるに違いない。この作品のリズムや表現の新しさを翻訳で損なわせないために、スキルを磨き、翻訳方法の「実験」をしなければならない。『世界99』は数ヶ月で翻訳できる小説ではないと思う。しかし、数年かけても、いつかはぜひアルメニアの読者に読んでもらいたい作品なのである。