翻訳業は孤独で代わり映えしないというのは大きな誤りではないかと思う。翻訳者は孤独ではないし、ある場所にとどまっているわけでもない。というより移動しない方が稀なのではないだろうか。多彩な言葉の世界を動き回り、様々な登場人物と行動を共にする。そうして多くの声や香り、押し寄せる記憶にまみれつつ分刻みで新たな発見をしている。何よりも翻訳者は作者と共に旅を続ける。目を見張るような対話が常に続き、より深くたぐいまれで強靭な関係を構築していくのである。私がある作品を訳すとき、部屋にはもう壁や天井がなくて、果てしなく続く空や木々や海などが見えるようになる。
二〇一六年七月末、第一五五回芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』が単行本になって、日本のすべての書店を席巻して、あらゆる新聞や雑誌やブログなどで紹介された時、私は、直ちに一冊を送ってもらって、一気に読んでしまった。驚異の余り、目を見張ったままで、以前に気になっていた芥川賞選考委員の村上龍さんによる評価の言葉が甦って、やっとその意味を理解できた。「この十年、現代をここまで描いた受賞作はない」。〝NARUHODO(なるほど)〟という言葉が大文字で目の前で点滅するようになり、早速、イタリアの出版社に電話して、翻訳の提案をしてしまった。やはり、村上龍さんが仰っている通り、その時点で同様な驚きを呼び起こした芥川賞受賞作を見つけるには、十年以上前に戻らなくてはいけないだろう。それは、第一三〇回芥川賞が発表された二〇〇四年の一月である。その時、非常に若い新星である金原ひとみさんと綿矢りささんは、それぞれ『蛇にピアス』と『蹴りたい背中』で受賞して、同じように大きな話題になり、書店、雑誌、ブログなどを同じように席巻した。
さて、二〇一八年、芥川賞のひとつのマイルストーンになる『コンビニ人間』のイタリア語版が発行され、村田さんと私の名前が口絵に並んで、村田さんとの「初対面」は完全になった。『コンビニ人間』は、二〇一六年に日本で出版されて、わずか二年後にイタリア語版が発行された。非常に珍しいことである。イタリアでは、英語やフランス語といった主要な言語ではなく、日本語のような言葉で書かれた作品の翻訳が出るまでには、大変長い時間待つのが当たり前なのだ。イタリア語版発行後、読者や文壇の反応がとてもよく、新聞や雑誌やネットのレビューの数は、イタリアで以前から人気がある村上春樹さんや吉本ばななさんの作品くらい多い。
私は、『コンビニ人間』を翻訳しながら、村田さんが完璧に描いているコンビニの世界に不思議な親しみを覚えた。それは、訳せば訳すほど、深くて強い親近感になっていく。この親近感は何だろうと思ったら、「真っ白なオフィスビルの一階が透明の水槽のようになっているのを発見した」という文章に出会った。透明の水槽! そうだ! 丁度、九〇年代半ばごろ、東京・世田谷区の上祖師谷にある留学生会館の私が住んでいる部屋の窓から全く同じ透明の水槽がずっと見えていた。もう、なくなってしまったサンクスの一店だったけれども、若い留学生の私にとって、とても重要な存在だったのである。それから二十年以上経って、村田沙耶香さんの不思議な世界との繫がりになる、あの透明の水槽。上祖師谷のサンクスを思い出して、コンビニの専門用語、コンビニの規則、コンビニに勤めている店員たちの行動規範などを一所懸命に勉強しながら、どんどん村田さんの世界に共感を覚えていったのである。
『コンビニ人間』のイタリア語版のタイトルは『La ragazza del convenience store(コンビニの女の子)』になっている。残念ながら、「人間」という言葉をイタリア語に直訳すると、どうしてもその意味に違和感が生じ、音の響きも美しくなかったことが理由だ。けれども、私にとって、この翻訳は素敵な「旅」になった。村田さんの銀河で行われた私の最初の「旅」。その後、村田さんと何回も個人的に会ったり、メールの交換をしたりして、ますます村田さんの文学の世界の中に入り込んでしまい、順番に『地球星人』、『生命式』、『殺人出産』という「惑星」へ向けて旅立った。私にとって、日本文学の翻訳というのは、「部屋にはもう壁や天井がない」と同等に、空飛ぶ円盤に乗って無数の遠い銀河へ向かう旅でもある。
子供のころはまっていた、たくさんの惑星を探検しながらいろいろな宇宙人に出会う『スペース1999』という七〇年代のイギリスのSFテレビドラマシリーズの「宇宙船アルファ」と同じように、私も、翻訳するとき、円盤に乗っているということを想像しながら、作品の世界を探検したり、その登場人物に出会ったりしている。もちろん、よい探検になるように、円盤の中ではずっと、私のそばにあの世界のクリエイターに座ってもらうわけである。
特に、村田さんの作品の場合、それはただの世界ではなくて、大きくて不思議な銀河ではあるまいかと感じる。円盤に乗って、ずっとずっと、貴重な副操縦士である村田さんの声を聴いたり気持ちを感じたりしながら、古倉恵子と同様コンビニ人間になって、生命式に参加して、考えることも話すこともできる心臓や内臓と喋って、産み人や死に人に会って、地球星人の本質を覚えて、ぴかぴか光って慣習に反するあの遠い銀河へ向かって行く。
村田さんの銀河を飛びながら、やはり、私が一番魅了されているのは、たいへん型破りな雰囲気である。あの銀河の奇妙な惑星では、全てが可能になり、現代社会や我々の日常生活のルールが破壊されている。例えば、「何で結婚しないの?」とずっと聞かれて、社会慣習にうんざりしている古倉恵子は、「誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです」と言って、家父長制社会がジェンダーに関して想定する基準に準拠せず、異なる戦略や人生の選択をしながら、別の世界である例の透明の水槽で生まれ変わってしまう。『コンビニ人間』は、特に人々があらかじめ定められた役割を果たすことが期待される順応主義的な社会において、従来の考え方に対する大きな挑戦を表しているだろう。
私は、村田さんがすべての作品の中で、時に並外れたユーモアを交えて、時にグロテスクな恐怖を込めて、社会規範や習慣を完全に覆す孤独者や疎外された人々を描く方法を高く評価し、完全に同意する。例えば、『殺人出産』における極めて斬新な母性観とか、ジェンダーフリー社会を発展させるという概念は、本当に素晴らしいと思う。トリノ大学の私の同僚であり、村田さんの文学研究において国際的なレベルで高く評価されていて、しかも『消滅世界』惑星へ向かっている円盤のパイロットであるアンナ・スぺッキオが言うように、「『殺人出産』は、生殖技術による男女平等の可能性について語っている。それは、女性の体ではなく、男性の体を変更して、男性に生殖能力を与える」。したがって、家父長制社会が「産む性」として定義するものは、女性のアイデンティティと密接に結びついた特性ではなくなるだろう。
また、『地球星人』では、社会における「普通」への違和感を極端まで高めてきたという印象がある。若い主人公の奈月は、自分を宇宙の果てにある星から降り立った宇宙人であると信じている。なぜなら、自分の物事の見方が「普通」と言っている地球の住民の見方と非常に異なるからだ。つまり、正常と異常の二項対立論を超えるという、村田さん風のもうひとつの素敵な例だろう。
最後に、たった一秒前に読み終えたばかりで、ほんの簡単な感想に過ぎないけれども、村田さんの文学の現時点での圧巻の集大成であり、同時に我々の現代社会に対する鋭い警鐘となっている『世界99』についても、一言述べたいと思う。並外れた異星人艦隊の旗艦のようなこの素敵な作品は、アイデンティティの揺らぎと社会の枠組みを鋭く描いたものである。主人公の視点を通じて、言葉の吸収や分裂の感覚が巧みに表現され、個人の存在の不確かさが際立つ。クリーン・タウンという過去のない街の設定は、一見理想的だが、むしろ不気味な無機質さを感じさせる。物語の中で描かれる雨の境界線や人物間の微妙な駆け引きは、読者に深い印象を残すだろう。現代社会への鋭い洞察と詩的な表現が見事に融合した一作だと思う。
さて、去年の五月、私が『殺人出産』惑星への銀河間旅行から戻って直後、村田さんにトリノ国際ブックフェアに来ていただき、素敵なトークやサイン会が行われた。サイン会は、天の川のように、五百人以上の読者が並んでいて、みんなが有頂天になって村田さんにサインをしてもらった。その中には、私がトリノ大学で講義している翻訳ゼミのたくさんの学生たちもいた。村田さんの作品を興味深く読んでいる彼らは、どきどきして言葉がないほど嬉しかったそうだ。
明日は誰も知らないから、何とも言えないけれども……さあ! また空飛ぶ円盤に乗って、木星ほど大きな村田さんの新作惑星『世界99』へ向かって行く。