購入はこちら

館に秘められた呪い

三宅夏帆

『夜果つるところ』

恩田陸 集英社 定価1,980円(税込)6月26日発売

本書は恩田陸の小説に登場する作中作を、恩田陸自ら書き下ろした作品である。長編小説『鈍色幻視行』のなかに登場する『夜果つるところ』。それは映像化されそうになるたび、何らかの事故が起こり、中止になるという呪われた小説だった。
作中作の魅力は、「その物語を読みたい」という欲望を搔き立てられるところにある。たとえば小説のなかに登場する魅力的な本、主人公たちが語る舞台の脚本構想、あるいは物語のなかで上演されることになる演劇。「うわ、その物語を私も読んでみたい」と強烈に思わせる作中作は、それを登場させる物語自体の面白さもまた、拡張することになる。
そんな『夜果つるところ』の舞台は、娼館「墜月荘」。それは山の中にある館であり、夜になるとランタンのようにぼうっと光る場所だった。語り手の「私」は、その館のなかでずっと暮らしていた。いつからか墜月荘に連れて来られた「私」は、ビイちゃんと呼ばれ、三人の女性によって育てられる。文子、莢子、和江。「私」は墜月荘にやって来る奇妙な男性たちをじっと見ながら、彼らの顔を写生するようになるのだった。
思えば恩田陸は、作中作を描くことが多い作家である。たとえば『中庭の出来事』には戯曲『中庭の出来事』を執筆中の劇作家が登場する。『夜のピクニック』では「靴を集めている」という設定の物語構想が語られる。『三月は深き紅の淵を』は作中に出て来る、幻の稀覯本のタイトルだった。そのようななかで、本書は「恩田的作中作」の新境地とも言えるだろう。
というのも『夜果つるところ』の面白い点のひとつは、文体がいつもの恩田作品とは異なっているところにある。これまでの恩田作品の作中作で、ここまで明確に文体を変えていたことはなかったのではないだろうか。

「ネ。お嬢ちゃんもよく覚えておくといい。愛の言葉なんかめったやたらと使うもんじゃない。呪いをかけるに等しいものなんだから、ネ」
笹野はフラリと立ち上がり、振り返りもせずにゆるゆると去っていった。
私はぽかんとその後ろ姿を見送った。
愛の言葉は呪い、という一文だけをどこかに焼き付けて。
(『夜果つるところ』より)

「私」に語りかける男の言葉は、どこか昭和初期に書かれた文豪の作品を彷彿とさせる。いつもの恩田作品とは―たとえば現代を舞台にした『鈍色幻視行』とは―明らかに文体を違わせている。なんとなく、江戸川乱歩や谷崎潤一郎のような、耽美でありながら仄暗い小説をエンターテインメントとして読者に提供し続けた書き手を連想させるのだ。それはもしかすると『夜果つるところ』の作者である飯合梓のイメージに、どこか日本の文豪たちを重ね合わせているのかもしれない、という解釈も可能にさせる。
そう、文体を含め、この小説そのものが「これを書いた飯合梓とは何者なのか?」という問いを内包している。私たちは『夜果つるところ』を読みながら、この作品の書き手に想いを馳せる。それは小説『鈍色幻視行』の面白さを拡張させる手段のひとつなのである。
作中作である『夜果つるところ』と『鈍色幻視行』の二作を繫いでいるのは、夫婦という存在の後ろ暗さでもある。墜月荘には父親がいない。「私」は女たちに育てられる。そしてその背後には、母から父に向ける後ろ暗い感情、つまり妻から夫へ向けられた抑圧した憎悪が、描かれているのだ。
なぜ男性だけが逃げられるのか。なぜ女性たちは墜月荘に留まり続けるのか。「許してくれ」と叫ぶ男を、女たちはどのような目で見つめているのか。―本書で描かれる幻想的な館の呪われた物語は、男たちへの憎悪と、そしてその裏側にある愛情によって成り立っている。
「私」を育てる三人の母親は、男たちに対する愛情を歪ませる。そしてその歪んだ愛情は「私」にも向けられる。「私」は墜月荘で子供らしからぬ目に遭い、そして幼いながら、人間の苦しみを見つめることになってしまう。だがその呪われた館である墜月荘のことを、「私」は愛している。そして同様に、「私」を囲む三人の女たちもまた、墜月荘を呪い、そして愛している。
それは男女や夫婦という関係性をめぐる呪いの問題であり、同時に、墜月荘というひとつの舞台をめぐる幻想的な物語でもある。作中作としても新境地を拓く本書は、おそらく私たち読者もまた墜月荘を怖れながらも愛さずにはいられないように、私たちを呪うのである。

みやけ・かほ‘94年生まれ。書評家・文筆家。著書に『人生を狂わす名著50』『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』『(萌えすぎて)絶対忘れない! 妄想古文』『名場面でわかる 刺さる小説の技術』などがある。

< 前のページに戻る