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書き換える読み手たち──変幻する物語

鴻巣友季子

『鈍色幻視行』

恩田陸 集英社 定価2,420円(税込)

作中にその作品と同じ題名の本が出てくる小説は、大抵面白いし危険だ。『ドグラ・マグラ』しかり、『冬の夜ひとりの旅人が』しかり。そのような作品構造を巧みにとりいれた『鈍色幻視行』はミステリーをめぐるメタ・ミステリーであり、フィクションをめぐるメタ・フィクションとも言える。えらいものを読んでしまった。
そして、これは「手を振る」ことの物語でもある。後半にこんなくだりがある。
「そう、離れていく香港に手を振るのは、そこにいたという自分の過去に向かって手を振っているのよ。/遠ざかる過去に向かって、過去を惜しんで、過去を懐かしんで、手を振る。過去にさようならを言う。/それが、手を振るという行為なんだわ」
小説にしろ、映画にしろ、芝居にしろ、物語によってひとの生を模倣するという行為は、自分たちが生きた跡を残すことであり、容赦なく過ぎゆき消滅に向かう時間への惜別でもある。つまり、あらゆるアートは死ぬための準備であり、過去に手を振る行為とも言えないか。
さて、『鈍色幻視行』の物語の中心にあるのは、「呪われた小説」として伝説化した飯合梓の『夜果つるところ』という一篇のテキストだ。古の遊郭「墜月荘」を舞台にした物語であり、「私」の三人の母が登場する(同作中作は単独作として六月二十六日刊行予定)。いつも空の鳥籠を眺めている産みの母、育ての母、名義上の母。
では、なぜこの小説は「呪われている」のか?三度の映画化の計画と、一度のCSドラマ化が、ことごとく関係者の死によって頓挫しているからだ。本作中に、推理力の高いミステリー読者にとっては、作品へのどんなコメントもネタバレになりかねないといった文言もあるので、詳しく書けないが、不審火、心中、自死、突然死といった言葉が出てくる。また、作者の飯合梓も覆面作家に近く、失踪して七年間消息不明のため死亡とみなされているが、真相は闇の中だ。
こうしたいわくつきの小説の関係者十二名がアジアを周遊するクルーズ船に乗りこみ、「呪い」の謎を徹底的に論じあうのが、本書の主な内容である。その十二人とは、デビュー六年ちょっとの小説家・蕗谷梢、弁護士の夫・雅春、雅春の義従姉妹にあたる真鍋綾実と詩織、一度目の映画化で助監督を務めた角替正とその妻で女優の清水桂子、『夜果つるところ』を文庫化した編集者・島崎四郎とその妻・和歌子、二度目の映画化のプロデューサー進藤洋介とその妻、大御所の映画評論家・武井京太郎と同性パートナーの九重光治郎。多くは「虚構」をつくりだすのが生業の人びとだ。夫に誘われて参加した梢は、船中の取材をもとに、謎めいた作家と作品についてなにか書きたいと目論んでいる。
梢と雅春を主な語り手/視点人物として、前半は全体でのディスカッション、後半は梢による個別インタビューの形式をとる。十二人はそれぞれ、映画製作中の多くの死と、飯合梓という存在の真相を、船という密室の中で探りだそうとするが、手がかりは飯合梓のテキストと各人の記憶だけだ。ふっと甦ってくる濃厚な香り、会話や文章の断片、だれかの表情、小説に出てきたシーン……それらが小さなパズルの駒のように組み合わされていく。
設定的には『ナイルに死す』ばりのクローズド・サークルものだが、実際に事件捜査をするのではない〝肘掛け椅子探偵もの〟であり、最後に決定的な謎ときがあるわけではないスペキュレイティヴ・フィクションでもあることは申し添えておく。この協働作業は、十二人が全員で一つのミステリー作品を書きあげていく、あるいは、全員が『夜果つるところ』というテキストに自分を投影し、この作品を書き換えていくものとも言えるだろう。母と子の関係、父親の不在、かなわない愛、アイデンティティの確立、ジェンダー……。各人物にとって飯合の『夜果つるところ』が読むたびに姿を変えるように、私たち読者の目にも恩田陸の『夜果つるところ』は自在に変幻する。だから、本作はミステリーでありながら、なにかの解決に向けてストーリーが収斂していくものではなく、むしろプリズムの光のように拡散していくのだ。
しかも恩田は数多の既存作品を〝絨毯の下絵〟として使っており、これがさらに物語を重層化する。それらの作品は章タイトルになっていたり、本文中に紛れていたりするが、二つだけ挙げると、本稿の最初に引用した「手を振る」ことがポイントとなる小説は、ミラン・クンデラの『不滅』かもしれないし、前妻の亡霊に憑かれる『レベッカ』的なモチーフも見られる。そう、本作には、再婚同士の梢と雅春が深まりきらない夫婦関係に向きあうというサブストーリーもある。
それにしても、真相、真実とはなんなのか? ある人物は「映画でも小説でも、自分が頭の中で反芻したイメージだけが残」ると表現する。それがその人にとっての映画であり小説だという意味だが、それは現実に対しても言えるだろう。ある人物は「真実なんて、パレードで降ってくる紙吹雪みたいなものだよね。〈中略〉綺麗なまとまりのある実体じゃないんじゃないかな」と言う。そもそも虚構と現実の境界を無効化することこそが、この小説の本意とも言えそうだ。
最後に、本作を評するのにこれ以上適切な言葉はないので、批評家パーシー・ラボックの文章を引用する。「書物は私たちが読んだそばから融けて、記憶に転じてしまう。まだ最後のページをめくっているときにも、その内容の大半はすでにあやふやで疑わしいものになっている。ひと叢の印象、不確かさの霞の奥から現れる明確な点がほんの幾ばくか。私たちはそうした面影を本の名で呼んでいるのだ」
そして、虚構はつづく。

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