課題作(テーマ『涙』)『過去の夢』とわ

 鍋の中のカレーをお玉で搔き混ぜ終わったとき、ふと胸の奥の何かが、きゅっ、と。小さく締め付けられるような心地になった。
 花形の人参を切るような、愛おしい不変の日常に安住していると、いつもこうだ。人生の岐路ははるか先にある、私なら何にでもなれる。そう漠然と信じていた自分を、無意識のうちに呼び出してしまう。

 大学時代の私は、今では到底口に出せない、自惚れた夢を持っていた。原稿用紙の荒い文字たちと見つめ合いながら、『あなた達をお披露目できる日が待ち遠しい』と囁き、自らの可能性は葉脈のように広がっていると思い込んでいた。

 客観的に今の自分を見て、『シ、ア、ワ、セ』と声を出さずに呟くと、今の私が見捨てた過去の私が、心の中で恨みがましく私の顔を覗く。私が夢を捨てたのはお前のせいだと、悲劇ぶった泣きそうな瞳が、私が油断しているときに、不意に心の中に蔓延ってくる。
「貴女は今の私に、失望しているんでしょう」
 カレーの中に漂った過去の私を、跡形もなく消し去るために、お玉をぐるぐると搔き混ぜ続ける。

「ママ、お話しして」
 忙しなく動かしていた手を止めて、やるせない気分に浸っていた私の耳に、舌っ足らずな声が響いた。私のエプロンの裾を摑んだ娘の黒目がちなそれは、あざとく潤んだ瞳だった。どれだけ家事に追われていても、このいじらしく、水を張ったような美しい白目には抗えない。
「いいよ。今日は何がいいかな」
「赤ずきんがいい」
 私はガスコンロの火を止めて、声を弾ませる娘の手を引いて寝室へ向かう。夫婦二人の無機質な部屋は、この子が生まれてからは、様々な色の画用紙で彩られていた。
「─赤ずきんはなんと、狼の正体を見破ったの。でもそれが狼にバレちゃったら、食べられてしまうでしょう。そこで赤ずきんは、狩人に助けを呼ぶために、秘密の暗号を残して……」
 娘を喜ばせるために始めた創作の御伽噺を、娘は存外気に入ってくれている。娘の瞳はきらきらと輝き、宝物に触れるような優しい眼差しで、そっと私の唇の動きを注視している。
 すると唐突に、娘はその柔らかな指を、徐に私の輪郭に添わせて、こう呟いた。
「ママのお話、世界でいちばんおもしろい。お家にある絵本も、全部ママのお話だったらいいのに」
「……え」
 その瞬間、私の胸の奥がじんわり暖かくなって、私の一本の糸からほつれた不安を、私よりずっと小さい指が、全て解いてくれたように思えた。 そして、過去と未来の分かれた筋道が、もう一度繫ぎ止められた。

 深夜、久々に原稿用紙と向き合った。夫の仕事用の椅子に腰掛けると、途端に丸まっていた背中がぴんと張った。私の絵本ができたよ、と娘に伝えたら、あの子はきっと、丸い顔をくしゃくしゃにして笑うだろう。
「私ね、今、ほんとうに幸せ」
 過去の私にこの言葉を届けたくて、ひとりきりの部屋で呟く。今よりも幼さが残る顔つきの私は、黒目を潤ませ、私の背後で、私をじっと見つめていた。御伽噺を強請る娘と、よく似た瞳。すると、彼女は小さくはにかんで、一筋の涙がその輪郭を伝って、すうっと、透明になって消えていく。

 ああ、今やっと分かった。あの瞳には、哀しみや憎しみの感情なんてなかった。
 あの潤んだ瞳は、ずっと私に、夢を強請っていたのだ。

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