応募作『囀る観覧車』とわ

 雨が滴る分厚い窓ガラスの外にある、輪郭のぶれた少女たちが背中を反らせて笑う姿から、慌てて目を逸らす。こちら側からあちら側が見えるということは、あちら側からこちら側が見えることと同様であるのだから、気を引き締めなければならない。私は膝の上に乗せたリュックサックから、毛羽立ったブックカバーを手探りに、お気に入りの本を取り出した。見飽きた文字の羅列を読む素振りをしながら、鶯が描かれたブックカバーを人差し指の腹で撫でてみる。何度も、何度も。あの子たちを乗せた観覧車と私を乗せた観覧車が、早く頂点を通過してしまって、一刻も早く地上に帰れますように、と願いを込めて。買った当初は梅の花が似合う雛鳥のようだったのに、色々な本に付け替えたせいで、寿命の近い深緑の老鳥になってしまった。
「本、反対ですよ」
 小鳥が囀るような声だった。あまりにも私が今想像していた風景と重なるものだから、一種の幻聴かと聴き逃してしまいそうな。
「ああ、本当だ。ありがとうございます」
 私はたった今気がついたように感嘆して、大袈裟に上下逆さまだった鶯をひっくり返す。女性は謙遜を込めたはにかみを見せた。きっと雨で濡れたのであろう光沢のある前髪から伝って、彼女の頰に雫がひとつ落ちた。白い素肌に、黒い薄手のタートルネックが濡れて貼り付いている。長い黒髪はそれ自体の光沢を持っていて、名状し難い妖艶さのある女性だった。観覧車という狭い空間で、見知らぬ人間と二人きりという状況は、普通は居心地の悪いものかもしれない。けれど私は、この小鳥のような声を持つ女性と私を乗せた観覧車よりも、少しだけ上に浮遊する観覧車を気にせんとするあまり、この女性─小鳥さんへの嫌悪感は不思議となかった。小鳥さんは、私に一切の興味を抱いた様子もなく、ただじっと熱の籠った瞳で小さな景色を見下ろしている。顔のつくりは成熟した女性であるのに、あどけない少女のような表情をしているところに、少しだけ目を惹かれた。

 新学期が始まり、クラスメイト五人で形成された所謂友人グループ。私たちが通う高校の近くには、入り組んだ裏路地がある。その先を抜けた所に、この小さな小さな遊園地があった。その存在が最近になってSNSを通じて学校全体で知られ、なぜだか一種のブームのように流行っている。私たちの父母の世代には、それはもう、辺鄙な街で栄える数少ない遊園地だったそうだが、今ではその見る影もない。我々人々の関心は、真新しいものへと移り代わっていくのが世の理だから、仕方が無い。けれど娯楽を貪欲に求める高校生たちは、退廃的な、と言えば聞こえは良いが、この廃れた場所が却って真新しく感じるのか、挙って集まる。中途半端に黒目が剝げて気味の悪いゾウの乗り物や、耳を劈くほどに大きな、明るい曲調の音楽が流れ続けるメリーゴーランド。そのどれもが、私の心の嫌な所に手を当てた。カラフルな色の下にある赤茶の鉄骨が暴かれた観覧車にだって、スマートフォンを片手に皆乗る。只でさえ今日は小雨が降っているというのに、風が吹く度に足元が揺れ、唸り声を上げる、こんなにも恐ろしい観覧車だというのに。他の四人が乗ろうと目を輝かせてしまったから。地上の同じ制服を纏った高校生たちの長蛇の列に目をやると、つい先程まで私もその一部だったのだと、不思議な感覚に陥る。今の私は、この観覧車の鍍金が剝がれ、鉄骨が抜けたら、きっと地上に叩きつけられて、一溜りもないくらいに浮遊しているんだ。そんな嫌な想像に耽ると薄気味悪くなって、慌てて手元の文字を指でなぞる。私たち五人が乗る順番が来て、いざ乗り込もうとした瞬間、係の男性が苛立った声音で私たちを制止して、定員が四人であることを告げた。私が地上に残ることになるのは、まるでこの宇宙が造られたときからの運命、筋書き通りのように、私の知らないうちに、静かに、それでいて滑らかに決まっていた。あの子たちは平気な顔をして、私に脇目も振らず、会話を続けながら楽しげに地上に降りた男女と入れ替わり、目当ての観覧車に乗り込んだ。男性係員が、混みあっているから、と残った私と列の後ろにいた小鳥さんを、同じ観覧車に半ば無理やり押し込む様子を、どこか他人事のように眺めていた。並んでいる間、ひとつの傘に皆で押し寄せあって、何にも可笑しくないのに笑って、これなら雨の日でも皆で楽しめるね、と言っていたことを思い返す。
「それがどうして、独りで観覧車なんか」
 気がつけば、自嘲を込めた乾いた笑いと共に、そんなことを口に出していた。この場所には、小鳥さんもいたことに気がついて、あっ、と手で口を押さえるが、もう遅い。
「観覧車から見る景色、好きなんです。綺麗でしょう」
 彼女が、私の呟きを自分自身に対して放った疑問だと解釈したことに気がつくまで、数秒の時間を要した。慌てて間違いを弁解しようとするが、曇った窓ガラスいっぱいに擦った指紋の跡をつけて、街を見下ろして嘆息する小鳥さんを見ると、何も言葉が見つからなかった。ブレザーの下のカーディガンを四本指で引っ張り、掌の硬いところに被せて、曇った窓ガラスを乱暴に拭ってみる。一部分だけ鮮明になった視界には、夕焼けと夜の狭間で、所々あかりの灯る活気の無い繁華街、静けさの中に生活感のある団地や、冷たいグラウンドで熱心に部活動に励む学生たちの姿があった。そのどれもが、雨の水滴のせいでどこか仄暗いベールを纏っていた。そんな訳ないのに、雨の匂いが鼻を擽った。街全体が、泣いているみたいだ。
「雨の日でも、ですか」
「雨の日でも、です」
 私の素朴な疑問に、目線を窓ガラスに向けた彼女は、小さくも凜とした声でそう言った。何だか決まりが悪くなって、再び窓の景色を見る私に、今度は小鳥らしい弱々しい声色で呟く。
「寧ろ雨の方が、私には丁度良い。そんな気がするんです」
 言葉を紡ごうと口を開いた瞬間、あの目つきの鋭い係員の冷めた声が、扉の開いた観覧車の外側から、私たちを地上に誘導する。小鳥さんは私に軽く会釈した後、一切の迷いもなく列の最後尾に並び直す。私は、私の名前を呼ぶ大きな四つの声に急かされて、足早にあの子たちの元へと駆け出した。帰り道に今日は楽しかったね、と口々に言う友達の背中と傘の水玉模様を見つめながら、今も雨の観覧車の中で、寂しい街の景色をその目に焼き付けているのだろうか、と小鳥さんのことを思い出していた。古ぼけた観覧車には不釣り合いな、今風な綺麗な人だった。

 次にあの遊園地に来たのはそれから二週間後の真昼間のことだった。テスト明けの早帰りということもあって、ぼちぼちと学生たちで混みあっていたけれど、確実に以前より客足は遠のいているのが見受けられた。雨のせいで前回は乗れなかった気味の悪い鍍金の動物たちの乗り物や、メリーゴーランドの馬に跨る。皆互いの笑い声すら満足に聞き取れない程の喧騒の音楽の中で、私は観覧車への憂鬱を想っていた。ひと時の乗馬が終わると、一人がたった今思い出したかのようにあっと声をあげる。
「忘れてた。やっぱり、最後は観覧車じゃないとね」
 私は自らの心とは裏腹に、同意の意味を込めて笑った。まるで処刑台に登る中世の王女のような気分で列に並んでいた。それでも、一縷の望みに縋っていた。前回は偶然私にその役目が回ってきただけだ、そのバトンは今回はきっと、他の人が受け取ってくれる、と。私は願い続けていたけれど、私が辿る結果はやはり、火を見るより明らかだった。
「四人です」
 軽やかにそう告げる友人たちの声が、私の頭に瞬間的に鋭い痛みを与えた。先頭から四人、観覧車に乗り込んだ。未だ地上に足が着いているのは、私だけだった。
「ひとりです」
 そう告げる私に、返事もせずに観覧車の入口に手をかける係員。私は無言のまま、それに乗り込んだ。前回よりもはっきりした意識はあったけれど、どうしてか現実感がなかった。また今日も、筋書き通りに進んでいるのだと、心のどこかで気がついてはいたのだ。しかし実際に独りきりで観覧車に乗ってみると、このバトンのアンカーは私だと、彼女たちからはっきりと諭されたように感じられた。彼女たちにそんな気はないと知ってはいる、誰が悪いなんてない、と必死に自分に言い聞かせる。そうでもしないと、罪の無い誰かを恨んでしまいそうだから。前回よりはっきり見えるあの子たちの背中の輪郭と、私との間に壁を作るために本を取り出す。それが、私なりの矜恃の示し方だった。その薄暗い鶯の感触を味わっていると、ふと小鳥さんの言葉を思い出した。雨の日の観覧車の景色を『丁度良い』と、彼女は言っていた。ふと下に目をやると、自然光で輝く繁華街や、ホースから出る水を掛け合い、豆粒みたいな子供たちが走り回る団地、熱で焼け付く学校の校庭。その街全体が巨大な生き物で、私だけ乖離してしまった。朝と夜、海と陸、光と闇のように相反するものの間にある越えられない壁はきっと、この分厚い窓ガラスなんだろう。軋む観覧車の泣き声と、小鳥さんの囀る声が、私の鼓膜の近くで反響していた。私は無意識のうちに、毛羽立つ鶯に爪を突き刺していた。せめて、あの真摯な顔で地上を見つめる小鳥さんが居れば、なんて考える自分に驚く。たった一度会ったきりの彼女の無関心な優しさが、酷く恋しい。地上に着くと、少し先にいる四人はまた、無垢な顔で、こちらに手を振りながら、私の名前を大きく叫んだ。木々の隙間から燦然たる輝きを放って彼女たちを照らす、この太陽の光がやけに眩しくて、思わず顔を顰めた。

 それから二ヶ月経つ頃には、もう誰もあの遊園地を話題にも出さなくなった。どこからか噂が立った、怨霊が出る不気味なボロ遊園地、という肩書きが浸透して、もう近寄る者すら少ないだろう。それに加えて、娯楽の少ない田舎町にとって、新しく出来た未知で巨大なショッピングモールは、忽ち老若男女問わず吸い寄せる魔法の施設だった。それからというもの、私たち五人は足繁くそこへ通った。つい先程まで、東京で人気という謳い文句の、少しばかり割高のドリンクを飲みながら家路を辿っていた。皆は声を揃えて、こんなに美味しいものは初めてだと言って、数え切れない程の写真を撮っていた。指先ひとつで写真は撮れるけれど、私はどうにも億劫になってしまって、慣れない味を毒味でもする気分でストローを齧った。すると突然、ぽつりぽつりと私たちの頭皮に水滴が垂れ始めた。それに気がついた頃にはもう手遅れで、段々と強まった土砂降りの雨が私たちを襲っていた。ローファーの中の靴下さえもぐっしょりと濡れるほどの大雨を避ける為に、鞄を頭上に掲げながら辿り着いた先は、あの寂れた遊園地だった。人気が無いどころか、私たちの靴音と雨、ノイズの混じった音楽しか聞こえない。アトラクション一回分の値段で出来るだけ多くの時間雨宿りできる場所。ほか四人が一斉に、観覧車を指さした。待ち時間のない観覧車乗り場に、彼女たちは駆け出す。慌てて後を追いかける私の頰を、額から冷たい雨粒が伝った。いつもの係員は透明な雨合羽に身を包み、やはり無愛想だった。私たちが来たことに心底嫌そうな顔をして、四人とひとりですかと尋ねた。一刻も早く雨から逃げたいのか、係員を急かすように足踏みをしながら、はい、と意気揚々と伝える友人たち。私は意を決して、声を張った。
「私も、四人の方で乗りたい」
 まるで永遠とも思える、一瞬の静寂。寒気のせいか少し震えた私の耳に、どっと笑う声が聞こえた。
「もちろん、いいよ。ほら、入って」
 明るく私を受け入れる声に、漸く息ができる、と思った。背中を押され私が一番に乗り込むと、ほか三人が押し寄せてくる。観覧車って、こんなに狭かったんだ。膝の上のリュックサックの紐をぎゅっと握って、今の現実を嚙み締めてみる。何だ、勇気を出して言ってみたら、案外バトンは渡せるじゃないか。私は今までの自分を思い返して、心の中で笑った。頂上へと登っている間、いつもと何の変哲もない会話が続く。退屈な学校、嫌いな先生、倦怠期の彼氏や捗らない趣味。日々のテンプレートをなぞった会話の中で、ただ一つ違うことは、あの子がいないということだけ。今、自らの背中に突き刺さる視線の正体を、私は知っている。他の三人も、きっと気がついている。私が独りで観覧車に乗ったときから、気がついていた。気がついていながら、知らないふりをしていたんだ。私はあの子にバトンを渡した。それは私の意思ではなくて、誰の意思でもない、当たり前のような面をした、私の勇気という予定不調和から生まれてしまった筋書きの上だったけれど。私の心臓が、嫌な音を立てていた。私が意を決して振り返ると、あの子はぎょっとした様子で、慌てて手元のスマートフォンに目を落とした。その後ろの観覧車では、小鳥さんが窓に手を当てて、雨の街を見下ろしていた。思わず眼を瞠る。
「あの人、雨の中独りで観覧車なんて、寂しいね」
「友達がいないんじゃあないの」
 誰かがそう茶化すと、続けて笑い声が起こった。その言葉が小鳥さんを指していることは、明白だった。あの子では、ない。私たちと小鳥さんの間に、寂しげな観覧車はもうひとつあるのに、それがまるでこの世の不文律かのように、彼女たちは決して触れようとはしなかった。あの時の小鳥さんの言葉がまた、頭の中でメリーゴーランドのように廻った。渇ききった喉を潤すために、もう名前すら忘れてしまったピンクの液体を飲む。ストローを齧っていたから、飲み口が塞がっている。歯でこじ開けて飲むと、甘ったるい何かが喉の奥にへばりついた。小さく噎せる私に、三人が大きく身体を仰け反らせて笑っている。あの子からは、どう見えているんだろう、とそればかりが気になった。頂上から地上に着くまで、私は悪戯に淡水に放流された、哀れな海水魚だった。周囲の笑い声の意図が分からないまま、痙攣のような笑いだけが、口の端から零れ落ちていた。出来る限り早く、頂上を通り過ぎて地上に着きますように。そればかりを祈っていた。

「はい、終わりね」
 係員の冷たい声が聞こえて地上に降りても尚、何故だか今日は上手く息が吸えなかった。数分間作為的に消されていたあの子の名前が、次の観覧車の扉が開いた瞬間に存在を取り戻した。駆け寄るあの子も、他の皆も、白い歯を見せた。あまりにも純真すぎる笑顔だった。
「俄雨だし走って帰ろうよ。いつか止むだろうからさ」
「観覧車なんて、同じ景色見るだけでつまらないもんね」
「ねえ見て。……あの人まだ乗る気だよ」
「可笑しい人」
 いつも通りの五人に戻り、そんなことを話す間に、次の扉が開く。小鳥さんは、未だ出てこない。黒いノースリーブのワンピースから覗く細い腕と、長い艶のある黒髪だけがこちらを向いていた。ぶっきらぼうな係員もそれを予想していたのか、何も声を掛けない。小鳥さんを嘲笑して指を指したこの人たちに、小鳥さんが気付かないようで良かった。頂上から見えた、窓の景色を見る小鳥さんの横顔が、まるで雨の街に恋をする乙女のように、活き活きとしていたからだろうか。
「ごめん」
 私は思わずそう叫びながら、彼女たちに背を向けて、ローファーから飛沫を上げて駆け出していた。私の名前を呼ぶ四つの困惑した声も、係員の冷たい制止の声も振り切って、力強く脚を踏み込んだ。ぎりぎり彼女の乗る観覧車に入り込むと、その衝撃で、足元がぐわんと大きく揺れる。
「こんにちは。久方振りですね、お嬢さん」
 いきなり同じ観覧車に乗り込み、息を荒らげ肩で呼吸する私に、小鳥さんは目線だけこちらに向け、鷹揚自若に挨拶する。口元をほぼ動かさない、腹話術師みたいな話し方だ。彼女が観覧車に乗って幾分か経ったのだろう、漆黒のワンピースは乾いている。名も知らない小鳥さんの中で、私も名の知らないお嬢さんであることが、どうしてだか快い。彼女の横顔の、形の良い鼻先の曲線から眉間へと視線でなぞって、その双眸を見つめてみる。どこか焦点の合わない冷えた瞳の奥には、やはり今見る景色への熱情があった。この狭い空間に、彼女にとっては、一切の私の存在が無い。扉が閉まり、私の存在を消したあの子たちの背中が、薄暗い驟雨の中へ溶けていく。それでも、今日も雨の街は静かに呼吸していた。この巨大で恐ろしい生物は、私を歓迎もせず、かと言って拒んでもいない。街ごと深海に沈めた景色が、私の寂しさに同調するように、人々に淡く雲の影を落とす。私は目線を窓の外へ落としたまま、リュックサックの中の鶯を優しく撫でた。小鳥さんはこの観覧車と呼吸しているんだ、と思った。頂上に辿り着く頃、小鳥さんは独り言のように呟いた。
「どうですか。雨の日の観覧車は」
「私にも、丁度良かったみたいです」
 小鳥さんは私の返答を予測していたのだろうか。彼女はどこか満足気に、消え入りそうな程に小さく、囀り笑った。

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