『まどろみの星』 展上 茜

 信じられないことだったが、この星はまだ、起きていた。
「こんばんは。本日のニュースをお伝えします。本日は、何もありませんでした。」
 左右に乱れる映像が映し出された雑音混じりのテレビから、お手本のように整えられた言葉が流れていく。部屋の天井は抜け落ち、白い壁には木の枝が細く分かれるようにヒビが走って、鉄骨はむき出しになり、窓ガラスがあった場所からは、冷えた空気が入り込む。部屋中にある物という物が床の上に散乱して、足の踏み場もない程だった。窓があった場所からは、とっくに太陽が沈んだ西の空が見えたが、この星の地面の上で生み出される灯りはなく、紺色の空気に黒々とした瓦礫の影がくっきりといくつも映り込んでいるのみで、生き物の気配はない。十数階建てのビルがあった場所には、見えないはずの六等星までもが堂々と輝き、空をゆったりと覆う黒い布の、裁ったあとすら見ることができるほど、遮るものがないこの星を、風は好き放題に駆け抜けていく。
「では、おやすみなさい。」
 時間にしておよそ十秒。映し出されていた映像はぷつりと切られ、あとは白黒の砂嵐が、一段と色を濃くする瓦礫の影のなか、ぼんやりと光を発しながら揺れていた。

「では、おやすみなさい。」
 お辞儀の角度は机に対して四十五度。
 三秒後に無線でカメラの電源を落とす。
 次のニュースは朝の七時。
 確認をした後、ネクタイを整えて、彼は瞳を閉じた。 瞳を閉じたまま、彼は動かなかった。スーツは砂と埃に塗れていたが、皮膚や髪は脂ぎっておらず、頬の色も至って良好だった。彼は頭を搔くことも、服の汚れを払うことも無く、ひんやりとした長机に両手を置いて、静かに座っていた。乾いた両手の下に置かれている原稿用紙の日付は十年前のもので、表面には薄く埃が被っていたが、取り換えてやる者はいなかった。
 ニューススタジオだったこの部屋も、天井は抜け落ちて、頭上では大小の星々が彼を見下ろしていたが、彼のうなじとコンセントを繋ぐ、親指よりも太く黒いコードが、彼に星空を見上げさせることを許さないでいた。
 瞳を閉じたまま、彼は、膨大な記憶と情報が混在する自身の頭脳から、十年前の記憶を蘇らせる。十年前と言っても、この十年間は白紙も同然で、たやすく記憶の底から浮かび上がってきた言葉を、彼はそのまま唇に乗せる。
「人類火星移住計画が、完了しました。」
 崩れた壁の外から差し込む星明かりだけで照らされている青黒い室内に、心地良いその声は誰の耳にも届かずに散っていく。瞳を閉じたまま呟かれたその言葉は、十年前に一度、彼の口から発せられていた。しかし彼の言葉を受け取るものは、既にこの星にはいない。
「十年前から段階的に進められていたこの計画は、予定通り、本日達成されました。」
 彼はそこでふっと小さなため息を吐いた。手元にある一番上の原稿用紙の文字の、その句点の先は空白だった。彼が口を閉じると同時に、静寂がこの部屋を包み込む。夜が訪れても、白いうなじがコードによってコンセントへと繋がれている限り、彼が机に突っ伏して寝ることはできなかった。ただ、十年前までは、この時間になれば、彼のコードを抜いてくれる者がいて、彼はとっくに眠りについていた。

「十年前から段階的に進められていたこの計画は、予定通り、本日達成されました。」
 原稿を読み上げ、いつも通り無線でカメラの電源を落とす。今日もいつもと変わらずに仕事を終えた彼は、あとはもう、自分を眠らせてくれる者が、この部屋を訪れることを待つだけだった。
 やけに静かな夜だった。とっくに日は沈み、彼が座っている真上の照明だけが煌々と照って、部屋の隅や、ドアの向こうの廊下は、ぼうっと暗く、不気味なほどに物音一つしないままだった。
 彼は、この星にひとり、取り残された。
 彼もまた、だんだんと味気なくなっていくこの星で、それでも日々絶えることのない出来事を伝えるために、十年前から計画的に、この部屋に招かれたのだった。
 無論、彼は知らなかった。火星が何であるのかも、人類が誰であるのかも、人間が何をしようとしていたのかも、知らなかった。彼は、明日になればまた、ここに誰かが来て、真新しい原稿に取り換え、カメラを回すのだと考えていた。
 そんな彼の想いとは裏腹に、誰もいなくなってからこの星は清々したのか、腹を抱えて笑うように、一度大きく地面を揺らした。
 都市は一瞬にして瓦礫の山となり、火星から再び戻ったとして、誰もその記憶とは合致しないほどに、この星は無邪気に大地を書き殴った。彼がいるところも、あっという間に何もかもが崩れ落ちて、窮屈だった部屋の境界は空に霧散して、まるで空間が歪んでしまったようだった。
 彼は今までの学習から、これについての原稿が用意されるだろうと考えていた。
 どうやら、彼を生かすための電気を送る場所はまだ稼働しているようだった。彼はそれをコンセントから取り込みながら、原稿を待つ間、読み上げている自分を頭の中でシミュレーションしては、いずれ来るであろう、大量の原稿に備えていた。
 しかし、いつまで経ってもドアが開く気配はない。瓦礫となっていく部屋が空気を鈍く震わせていた後も、入り口のドアが開かれることはなく、空間そのものが意気消沈して、うなだれているようだった。彼は入り口のドアを見つめ続けたが、どんなに待ち続けても、手元の原稿が取り換えられることはないままだった。
 彼は、憤りを感じていた。これほどまで目の前にまざまざと惨状が広がっているというのに、何一つ伝えることができないとは。それは彼にとって、許しがたいことだった。もう彼以外誰も、この星にはいなかったが、彼は依然として知らないままで、自分と同じように、ただ茫然とするしかない者が、存在しているだろうと信じ切っていた。彼は迷わず無線でカメラを点け、時間を確認して挨拶をした。
「こんばんは、速報をお伝えします。」
 次の言葉を紡ごうとした瞬間、少し開かれたその口先から、彼は、ただわずかに息を吐き出すことしかできなかった。今までずっと、用意された言葉を読み上げるだけだった彼に、自分が見たことをそのまま伝えるなど、到底不可能だった。
 言葉一つ頭の中に浮かばないまま、時間だけが過ぎていく。わずか数秒の間だったが、カメラの前にいる彼にとっては、永遠のような一瞬だった。原稿さえあれば、いくらでも人間らしく読めたはずの彼は、あの瞬間、どこまでも幼い姿をカメラの前に晒したのだった。
「失礼しました。」
 そう言ってカメラの電源を落とすことだけが、彼にできる精いっぱいだった。
 彼は、彼自身を学習して、二度とカメラを、決められた時間以外に点けることはなくなった。
 そうして彼には、永い毎日が待ち受けていた。彼は取り残された孤独に嫌気がさすことも、自由を切望することもなかった。孤独も自由もなにかわからなかった。彼にとってそれらは、白い紙の上に表記された、いくつかの音の組み合わせでしかなく、冷えた彼の頭脳は、言葉を正確に発音することにだけ意識があって、その言葉が何であるかなんて、どうでもよかった。故に彼の内側は空っぽだったのだが、それを気付かせてやる者も、もうこの星にはいなかった。

 次に彼は、一番古い記憶を蘇らせた。
「こんばんは。本日から私がニュースをお伝えします。」
 今でこそ滑らかに読み上げることが出来る彼も、最初は言葉のつなぎ目がブツ切れで、やはりどこか、距離のある話し方だった。
 彼には向上心や、やる気と言った類の気持ちは組み込まれていなかったが、自然と彼の頭脳は学習して、日に日にそれらしさは高められていった。
 災害、渋滞、桜、事件、法律、火星。
 しかし彼にとっては全て、不規則な記号の羅列で、ただ正確に読み上げることさえできればそれでよかった。
 しかし。
『挨拶だけは、どうにかなんないかね。』
 彼はこの記憶を今までに何度も掘り返していた。それは、隙なく整えられ、完全無欠であったはずの彼が、唯一不得手とすることだった。
『もっと人間らしく頼むよ。』
 詳細な助言も調律もされないまま、彼は戸惑った。彼は彼の最大限ありうる人間らしさをもって、何度も試行してみたが、相手の満足は得られなかった。
 同じ日に彼は、ここで働いていた女性から、ニュースを読むとき以外は目を閉じていてほしいとお願いされた。彼の目が瞬きをしなかったからだ。コンセントに繋がれている限り、瞳を開き続ける彼の目は、やはりどこか妙に感じられて、限りなく人に近いからこそ、その違和が異様に目立っていた。
 彼はあっさりと受け入れた。尊厳も反発もない彼のその態度にまた、その女性や周りはむず痒い心地になるのだった。

 彼は、別の記憶を蘇らせた。それは彼に、もっと人間らしく挨拶をしてほしいと注文を付けた男の記憶だった。
 その日は、その男が彼を眠らせてやる番だった。番組はとっくに終わり、最小限の電気だけが点けられた室内は薄暗く、今日でこの星を離れる男を陰鬱な気にさせていた。一方で彼は、今、この星で人類が何を行っているのかも知らないまま、明日のニュースの時間を確認して、両手を膝の上に置き、眠りにつく準備に入っていた。
 男は彼の方を見つめていた。彼はその視線に反応して、閉じていた瞳を開き、顔色一つ変えずに、自分を見つめる男を見つめ返していた。見つめ返してやっと、彼は男の眉尻が少し下がり、声もいつもより低く小さいことに気が付いた。
『これで最後だな。』
 しかし彼がこの星を出ることなど知りもしない彼は、男が言ったことを、うまく汲み取れなかった。どういう意味か尋ねようか迷ったが、迷っているうちに、男は彼の背後に回って、コードに手をかけていた。彼は考えていたことを消し去って、もう一度瞳を閉じた。
『じゃあ、お疲れさん。』
 彼の瞳が見開かれた。
 とっさに彼は、何か言葉を返そうとした。彼は、まだ自分の視界が暗くはなっていないことから、男がコードを抜かずに自分が何か言うのを黙って待っているんだと気が付いた。
 彼は必死で言葉を探した。周りも彼自身も、いつも同じ表情で、同じ声で、ミスなどない彼を、当たり前だと思っていて、こうして労われたのは、これが初めてだった。
 妙に温かいこの空気に、もう少しだけ浸りたいような気持ちになりながら、彼は返す言葉を探し続けた。しかし、彼の知る挨拶は、カメラの前で言うものだけだった。
 あんまり長く考えていては、男が痺れを切らしてコードを抜いてしまうかもしれない。そう思った彼は、彼が知る限りの挨拶で、一番ふさわしいと思うものを、言うほかになかった。
「では、おやすみなさい。」
 すると、鼻から空気が漏れるような、静かな笑い声が頭上で聞こえた。思わず振り返ろうとしたその時、視界が暗くなった。

 今でも彼は、あの労いの言葉に、何と返せばよかったのか考えるのだった。それだけが、彼にとっての良い暇つぶしだった。
 しかし彼がいちから挨拶を考えるなど、無理な話だった。
 そこで彼は、今までに耳にした会話の一部を切り取って、ひたすら当てはめては、ふさわしいかどうかを考えるのだった。
『お疲れさん。』
「間に合ってます。」
『お疲れさん。』
「大丈夫ですよ。」
『お疲れさん。』
「一杯どうですか。」
 彼にとってはどれも正解のようだったが、考えれば考えるほど、もっと良い答えがある気がして、それを探し出そうとするたびに、彼は深い海の底に沈んでいった。
『お疲れさん。』
 また考えていると、突然彼のうなじに強い衝撃が走り、彼は一瞬のうちに冷えた浜辺へ打ち上げられた。すぐそばにあった瓦礫が彼の背後で倒れたのだった。瞳を閉じたままだった彼は、思わず目を開いて、あたりを見渡した。見渡して、自分の首がやけに軽いことに気づく。そっとうなじを触ると、しっかりと繋がれていたはずのコードが抜け落ちていた。
 しかし、彼は眠くならなかった。どうやら彼を眠らせるためには、コードを抜いたあと、彼の背中にあるボタンを押さなければいけないようで、そのボタンは、彼の四肢がまるでタコやイカのように柔らかくない限りは、届きそうになかった。
 ずっと繋がれていたものから放たれ、解放感と驚きに戸惑っていると、彼の左胸の辺りに内蔵されているバッテリーが、彼の全身へ電流を流し、四肢を動かすために、一定の信号を送り始めた。 恐る恐る、彼は椅子から立ち上がった。自分の目線より高かったはずの瓦礫が、胸元ほどの高さになった。彼はこの時初めて、自分が歩けるのだと知った。
 彼は今までの経験から、この部屋に一番最初に来た人間が、薄暗くなった部屋に明かりを点けることを知っていた。ドア付近にあるスイッチへと向かい、数回押してみる。しかし、部屋の電気は点かなかった。
 天井が抜け落ちた部屋で、明かりも何もないのだが、彼にとって明かりとは、ボタンを押せば必ず点くものだった。彼はどうして点かないないのかと照明があったところを見上げ、そのとき初めて星々と目が合った。 青黒い画用紙に、白い絵の具を筆の先で垂らしたような星空で、もしかしたら、こちらの方にまで、絵の具がこぼれてきそうなほどに空が近かった。しかし彼は、手を伸ばそうとすることも、感嘆のため息をつくこともしなかった。この星空さえ形容する言葉を持たない彼にとっては、星がどんなに彼の瞳の中で瞬こうと、目の前に映る瓦礫と、大差のないものだった。ただ、彼は明かりというのはボタンを押さずともあるのだと、知ったのだった。
 彼は半分崩れ落ちた壁を、その長い脚で跨いで、部屋の外に出た。奇跡的に崩れ落ちなかった部屋の下には、瓦礫がうずたかく積み上げられていたが、何とか地面の方にまで降りていけそうだった。彼は、恐怖すら感じずに、ただ体の重心に気を付けながら、一歩一歩瓦礫の山を下って行った。夜風が容赦なく彼の頬を擦る。髪がなびいて、彼の視界の邪魔をする。彼はごく自然に髪を両手でかき上げて、瓦礫の山を下り、地面に降り立った。降り立った彼の目の前に、大きなねずみ色の壁が現れた。壁にしては、幅の短いそれには、白色のゴシック体を縦に長く引っ張った風にして、文字が書いてあった。彼は夜目を利かせて、その文字を読んだ。
「止まれ。」
 彼はわからなかったが、それは揺れによって引きちぎられ、隆起した道路の一部分だった。
 彼が認識できるのは、書いてある文字だけ。彼は、瓦礫を避け、四方に散らばる石につまずかぬよう気を付けながら、目に留まった文字を、まるで幼い子どものように読み上げて、歩き始めた。
「月極。」
「二十四時間。」
「左折禁止。」
 すると、彼の足元に、紙が一枚落ちていた。
 彼は、それを手に取って覗き込むと、そこには原稿のように、縦書きの明朝体が羅列されていたが、違うのは、紙が少しねずみ色であることと、写真があることだった。
「人類火星移住計画、ついに完了間近。」
 明かりの無い夜でも目視できるほど、でかでかと書かれた見出しを読み上げ、その次に彼は写真に目を落とした。
 彼は最初、それすらも文字だと思っていた。しかし、文字にしては線と色が複雑で、見れば見るほど、あの男たちと似たような体つきと肌の色が浮かび上がってきた。彼はそれを人間と判断したが、それ以外が何なのかはさっぱりだった。同じ色のものは全て同じものに見えた。
 彼は紙を風に手渡して、そのまま街があったはずの荒野を歩き続けた。
 しばらくして、彼の耳にバタバタと乾いた音が届き始めた。音のする方へ視線をやると、大量の本が瓦礫となって積み重なり、表紙の開かれた何冊かが、夜風に吹かれて次々とページをめくっているのだった。
 紙に文字がつづられている。
 そう分かった瞬間、彼の足取りは目に見えて軽くなった。本とは何か知らない彼にとって、それは普段から読み上げていた原稿と変わりないものだった。
 あの男たちが、きっと用意したものだろう。あれに、今までの、十年分の伝えなければならないことが、書いてあるはずだ。
 追い風に背中を押され、彼は瓦礫の麓で歩みを止めた。足元にあった一冊の本を手に取って、男は表紙をなぞる。
 違う。
 原稿にしては、あまりにも分厚かった。彼は表紙を破こうとした。一枚一枚バラバラにして、元通りにしようとした。右手に表紙を、左手に分厚いページを持って、互い違いの方向へ引っ張ろうとした瞬間、彼は手を止めた。
 破ってしまっていいのだろうか。
 冷たい夜風が、彼の頬を撫でる。
 彼はなぜだか、左手にある文字と、右手にある絵を切り離してはならないように感じていた。彼はそっと地面に腰を下ろし、足を伸ばして、手に持っていた本を膝の上に置いた。
 ページは夜風に吹かれ、ひとりでにパラパラとめくられていく。男は妙にそのさまが気に入った。彼はパッと、風にめくられた一枚を右手で掴んだ。月明かりに照らされて、白い紙の上にインクがくっきりと浮かび上がる。
 彼は、そのページの最初の一行を口にした。
 妙に心地の良い音の羅列だった。彼はもう一度、同じページを最初から口にした。
 口にした音は次の音とつながって、次々と見事に収まっていき、最後にはすとんと、机の上で厚い原稿の端を揃える時のように、一息に整えられる。
 彼は止まらなかった。
 堰を切ったように、彼は次々とページをめくっては、書かれてある言葉を丁寧に読み上げていく。彼には、書かれてあることの内容も、意味も、誰に伝えようとして書かれているのかも、わからなかった。ただ彼は、経験したことのない音のつなぎに、震えているのだった。
 あっという間に、終わりのページまで来てしまうと、彼は本を閉じて、じっと表紙を見つめた。詩集、と書かれていた。
 詩集と言う記号があるものは、今までにない何かを与えてくれる。その時初めて、彼は言葉に意味を見出したのだった。彼は瓦礫の山からひたすら、詩集と書かれた本だけを取り出していった。両手いっぱいに詩集を抱え、彼はもう一度地面に腰を下ろした。高く積み上がる瓦礫の前に、詩集だけの小さな小山をつくり、先ほどとは別の一冊を手に取ると、また一行目から、声に出して読んでいくのだった。
 建物の残骸だけが横たわる街に、彼の声が風に乗って響き渡っていく。花も木も鳥も、人間も、ここにないはずの何もかもが、彼によって創られ、ほんのわずかな間だけ、そこに存在するのだった。
 彼は知らなかった。詩集の中の言葉も、詩とは何であるのかも、この不可思議な状況も、今ここで自分が、言葉によってすべてを創っていることも、何も知らなかった。
 ただ彼は純粋に、音の響きと連なりを楽しむだけで、やはり彼はどこまでも幼く、そして今、この星でいちばん尊いものだった。
 最後の一冊を読み終えた頃、彼は自分の瞼が、だんだんとその重さに耐えきれず閉じようとしているのを感じていた。彼は悟った。それは彼なりの本能だった。
 戻らなければ。
 彼は読み終えた詩集を全て、もとの場所へ持って行きたかった。しかし、彼の体はもうあまり力が入らず、彼自身を正常に動かすので精いっぱいのようだった。彼は仕方なく本を閉じて、地面から立ち上がり、来た道をなぞって戻って行った。
 満月は西の空に傾いて、次のニュースを読む時間が迫っていた。

 彼はもと居た部屋がある瓦礫にまでたどり着くと、四つん這いになりながら瓦礫の山を登って行った。
 山の中腹まで来たそのとき、彼は誤って、瓦礫の中から突き出された鉄骨に、足を置いてしまった。ぐらりと上体が揺れる。彼は両手を動かし、なんとかバランスを取ろうとしたが、彼を下へと引っ張る力には抗えずに、地面へと落下していった。
 鈍い音が全身に響き渡る。視界にかすかな砂埃が舞って、彼の視界はゆっくりと暗くなっていった。

 しばらくして彼は目を覚ました。脳内でアラームが鳴っている。もう、朝のニュースを読まなければならない時間だった。勢いよく地面から体を起こし立ち上がって、彼は戸惑った。視界に、さまざまな色を混ぜた明るい線が見えていた。緑やピンクや紫が、彼の視界を上書きしている。視界は揺れ、心なしか、ザッザザッと耳障りな音も聞こえていた。先ほどまで登っていた瓦礫の山の頂上が、はるか遠くに見える。
 それでも彼は瓦礫の山に、手をかけていた。彼にとって、原稿を読み上げることは、生きている限り当然のことだった。ほんのわずかに頭によぎっていた諦めという感情も、彼の空っぽな内側からではうまく表現できずに、たやすく塗り潰されていった。
 それに彼は、今日はいつもよりも少し、人間らしく読める気がしていた。
 人間らしからぬ視界を携えて、彼は瓦礫の上を登って行った。どうにも都合よくならない視界がもどかしかった。彼はやっとてっぺんにたどり着き、しばらく空けていた椅子に腰かけた。朝焼けで薄赤くなった空を、緑色が混ざる視界のままでしばらく仰ぎ見た後、彼は目線を下にして、地面に落ちているはずのコードを探した。しかし、軽くなった首を右に左に回しても、コードは見つからず、どうやら瓦礫の下に埋まってしまったようで、彼が取り出すことはもうできなかった。
 彼はゆっくりと、顔を上げた。
 急速に瞼が重くなっていく。もう、いつこの視界が暗闇に落ちていっても、おかしくはなかった。彼はうまく動かない指先をもどかしく思いながら、ネクタイを少し整えて、いつものように無線でカメラの電源を入れた。
 カメラの電源がオンになったのを見て、彼は頭を下げ、ゆっくりとお辞儀をした。お辞儀から頭を持ち上げたその先にはカメラがあり、カメラの向こうには、上半分が崩れ去った壁があって、その向こうから見える地平線には、遮るもののない大きな朝日が輝いて、彼の瞳の中を突き抜けていった。
「おはようございます。今日のニュースをお伝えします。本日は。」
 静寂が訪れる。整然としていたはずの彼の頭脳に、ひときわ大きく雑音が響き始める。しかし、彼は慌てない。すっと息を吸って、カメラのほうへ視線を据えた。
「よい一日となりそうです。」
 ただ、口にしただけだった。
『もっと人間らしく頼むよ。』
 彼は、満足だった。
 途端、彼の視界が一気に狭まった。もう、数秒も持たなかった。
『お疲れさん。』
 ふっと、頭に浮かんできた言葉に、彼はもう一度答える。
「では、おやすみなさい。」
 彼は最後の力を振り絞って、きれいなお辞儀を三秒した後、カメラの電源を切った。
 やっと、この星のすべてはみな、眠りについた。

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