『零落』 哀川

 私の友人は、何処どこか一風変わった人だった。人よりも幾らか理知的でありつつも、しかし最近知った難解な語彙ごいを多用したがるようにも感ぜられ、蓄えた知識に反して行動が幼く思われるような。
 彼はその所作がどこか幼子のような、未成熟な大人に見える存在であった。

「友よ。君が相変わらず阿呆のようで、私は大変安心したと同時に、君がいささか心配になったよ」
 質素な白い寝台の縁に腰をかけながら、友人が言った。私は思いもよらぬ彼のその姿に驚愕し、問答の言葉をうまく発することはできなかった。
 ことの始まりは、一通の封書である。一九五三年の皐月の初旬。天を穿うがつように雄々しく伸びていた桜花の大木も花弁をはらと散らし、清風に揺られた緑葉が葉音を鳴らす、初夏の頃。軒並みの庭にて梅雨入りを待ちわびる紫陽花が、薄く色付いたように思える小ぶりな花の集まりで、雨乞いのように天を仰いでいる。
 私は下町の一角にむなしくも一人で家を構え、母屋よりも幾らか陳腐な木造の離れに小さな画室を持っている。そんな私の元へ、白い小封筒が送られてきたのであった。『中央大病院』という名と詳細な所在地が差出人として記されている封書だ。私は重い病気にかかり通院をしている覚えも、身内が重篤な状況にある訳でもなく、大病院などという大層な名前は、存在を知っているだけの縁遠い場所に過ぎないはずだ。何故そのような封筒が届いたのか理解できなかった。
 いぶかしく思いながら封の口を破ると、中から滑り出てきたのは、三つ折りにされた白い紙が一枚。開いてみるとそれは、書生や文筆家が文字を綴る原稿のようで、薄い印刷の升目が見えた。
『友よ、私だ。先日、重篤な病にせってしまった。最期に一目、君の顔が見たく思う。多忙な折に申し訳ないが、どうか見舞いに来てはくれないか』
 達筆な文字で改まったように綴られた末尾には、見慣れた筆跡で私の友人の名が記されていた。私はその文面を読んで数秒、手紙の意図を理解できずに肉体を強張らせた───重篤。死ぬのか、彼が。
 思い至った私は、画室隅の真新しいキャンヴァスを立てかけた固定支持台を蹴倒して、古い革細工の財布を引っ掴み、手紙に記された病院の所在を頼りに友人のもとを訪ねた。慌てふためいて大病院の彼の病室の木戸を激しく開いた私を、友人は優雅に書をしたためながらに嘲笑で迎えたのだった。
「否、そのような早合点も君の魅力なのかもしれないな。であれば私の忠告も早計か。嗚呼、然し身なりには気を使ったほうが善いのではないだろうか。君は確か二十五、六になる頃だろう。その歳になっても女性の気が無いのは如何なものか」
 まくし立てるような彼の弁舌に目を剥く思いで反芻はんすうすれども、私は阿呆のような面をさらしてしまうのだった。何せ、見た限りの彼の肉体は、病人と呼ぶには至って健常なのだから。
 彼の身を案じた私は、見慣れぬ土地で道迷いに陥り、辿たどり着いた病院の待合室で声を張り上げて友人の病室を聞き出し、看護婦の制止を振り切りながら、我が物顔で古い木造の廊下を前進し、ようやく彼の名札の下がった病室を訪れることができたのだ。
 きっと友人に初めに見せた顔は鬼気迫るものであっただろうし、普段から手入れを怠っている蓬髪ほうはつはさらに荒れ、季節外れなうえ縫い目の乱れた茶外套に、乾燥した油絵の具の付着した履物。汗疹あせもの覗く首筋や隈の濃い顔が滑稽な様であることは、自分でも重々承知の上である。
「これは一体どういうことだ。君は確か、重篤な状態にあったのではなかったか。それがどうだ、病に罹患したというのは嘘だったのか」
「怒らないでくれ給え。こうして入院をする事態に陥ったのは事実なのだからな」
 それもそうかと思い、私は口をつぐんだ。事実として彼は外傷にしろ罹患にしろ、身体の何処かに何かしらの異常があることは火を見るより明らかなのである。
「確かに私も申し訳ないとは思っている。然し、ああとでも書かなければ、君はきっと多忙を理由に返事を綴るだけで、見舞いになど来てはくれなかっただろう」
 友人は、少しばかり顔色を曇らせたのを、誤魔化すように苦笑いを浮かべた。私は言い返す言葉が浮かばす、小さくうなると一度だけ首を縦に振る。彼の言うとおりなのである。
 自身の容貌に気を使うのも色恋にふけるのも忘れ、私は日々を画室で費やしている。私を包むものは、外国製の香水の甘い香りではなく、油画特有の鼻をつくような刺激臭。女の姿を見るのは、キャンヴァスの中の女の裸体画のみ。
 きっと友人の彼が些細な体調不良で寝込んだとあっても、大事でなければ看病に来ようなどとは思わなかっただろう。
「君もそうだが、私も友人は数えるほどしか居ないのだよ。それも、私の名声にすがったよこしまな考えの奴らばかりと来たものだ。信頼できるのは君ぐらいのものだよ」
 身近な人間が信用に足るものであるのか、疑り深くなってしまう彼の作家としての性分を、私は重々に理解しているつもりでいた。作家として名の通った彼のまわりに、名声を目当てに擦り寄る人間や、心無い詐欺師が介してしまうのを、私は承知したつもりで忘れていた。眉を下げて物悲しそうに笑みを浮かべる友人に、私は病室の戸口を塞いで立ち尽くしていたのを数歩近寄り、居心地悪そうに言葉を紡いだ。
「済まない、確かにそのとおりだ──むしろそうだな、君がこうして私を呼んでくれて善かった。我々がこのように会うのも数ヶ月ぶりなのだから、君は善いことをした」
「そう言ってくれるのならば、嬉しいよ」
 友人は幼くはにかむと私を手招いた。私は彼の寝台の側に置いてあった木製の丸椅子を軋ませて腰掛けると、彼の身体を上から下まで確かめた。病衣服に身を包んでいるからか、見た限りでは外傷らしきものは無い。であれば何らかの病にでも罹ったのだろうか。
「それで、君は如何どうして入院なんてする羽目になったんだ。腹でも下したか」
「落ち着いてくれ、単なる骨折りだ。腰椎だかが砕けたらしい。お陰で日常生活を送ることすらままならなくなり、こうして病院暮らしというわけだ」
「そうか、なら癌などではないんだな」
「嗚呼、はじめから大事はないと言っていただろう。君は相変わらずのせっかちだな」
 過去を憂うような目で友人は言った。然し、微笑を浮かべながら口元を押さえる彼の癖もまた、私の知る限りでは相変わらず、瀟洒な振る舞いのままなのだから。お互いに変わらないものだと、彼につられて笑みをこぼした。
「それで君、如何して腰の骨など砕いてしまったんだ」
 思い出したかのように私は彼に問うた。彼もまた忘れていたとでも言いたげに目を見開くと、恥ずるように、然しあっけらかんとした様子で頭を掻いて話す。
「書斎での執筆がはかどらなくなり、近場の図書館に場所を移し替えてみたのだ。然し矢張り如何しても作業が滞ってしまう。気晴らしに近代文豪の名著でも読み漁ろうと思い至ったのは善いものの、踏み台に乗って本を幾つか抜き取っていたら、近場を通った麗人のスカァトに気を取られ、哀れ足を滑らせて腰から落ちた。美人の前で情けない泣き声をあげて、それはもう滑稽な姿を晒してしまったよ」
 悲壮めいた様相で大袈裟に言葉を並べた彼に、私は相対して声を絞り出せずに居た。唖然として、やがて心臓がこぼれ出そうな程深く嘆息し、鈍痛を覚え始めた眉間を押さえる。
「君は大概普通ではないと思ってはいたが、まさかこれほどとは。もしや作家様という生き物は、総じてこういうものなのか」
 私はあきれと共に、安堵で胸をで下ろす。彼の突拍子もない行動に言葉を失いながらも、特有の飄々ひょうひょうとした雰囲気が変わらずそこにある事実に、漸く彼の無事を理解することができた。心配をして損をした、という一言だけは、口頭から発される寸前で嚥下えんげした。きっとその発言は彼を傷つけてしまうだろうし、それは私の本望ではない。
「さすが作家様は格が違う。善かったじゃないか、長めの休暇だと思えば」
 この頃の病床というのは、基本は一般病棟の質素な部屋に四人ほどが詰め込まれる体制である。そこから外れるのは、重篤患者や危険度の高い感染症、そして特別優遇対象の著名人や富豪。小説書きとして広く知れ渡った彼であれば、離れの病室に入るというのは考えてみれば納得の待遇だ。
「私は赤っ恥をかいたんだ。それに、三ヶ月間も寝台に縛り付けられることになるなど、休まるものも休まらないではないか」
「それで、暇を潰すための話し相手に私を呼んだのか。生憎だが、君のためとはいえ薬臭い部屋にくくり付けられるのは、私も御免被りたい」
「否、残念だが今日君を呼んだのは、頼みごとがある故だ」
 友人が否定を口にしながら首を振るのを見て、私は僅かに面食らった。彼のことだから、何か面白い話をしろだとか、一芸をここで披露してみせろだとか、善いように私で遊ぶつもりで呼んだものだと思っていたのである。
「珍しいな、君が私に頼みごととは。貸しをつくるのはいやだと、散々言っていたじゃあないか。それで、要件とは何だ」
「栃木の山奥に美しい滝があると聞いた。是非その景色をうつしてきてくれ給え。撮ってくるまでは、私には会いに来なくていいぞ」
 彼の言葉を嚥下できず、私は呆然ぼうぜんと目を瞬かせた。ちなみに私は、写真機などという高価な嗜好品を買うほどの成金ではない。撮る、という表現は、我々の間で使われるには、些か他所とは語弊があるのだ。私が描く絵は、外国製の油絵の具を使用した写実的なものなのだが、友人はいつも私のキャンヴァスの中の絵を見て、まるで写真機に映したものを見ているようだと言うのである。彼が毎度のように同じ文句で私を褒めるものだから、そろそろ私は彼に飽きられているとすら思う。
 彼は相変わらず突飛な物言いで、珍しくも私に頼みごとをしたわけなのだが。私が驚いているのは他でもなく、彼が私に向かえと示した土地についてである。
「急に何を言い出すんだ、君は。栃木だなどという片田舎、わざわざ足を運ぶようなものじゃあない。冗談は止して本題に入れ。何だ、郊外の軒並みか、路面電車の窮屈なのか。如何しても風情のある絵をというのなら、鎌倉の寺院まで行ってやっても構わないぞ」
 東京の歓楽街と比べれてみれば、地方は栄えているとは言えたものではないだろう。田畑が多く建築物も木造の平屋ばかり。安全性の低いものとされたはずの気動車が未だ線路を走行しているのだなんて、身の毛もよだつような話だ。
 彼のために絵を描くというのは、一枚程度であれば構わない。何時知り合ったかも忘れたような長い仲だ。
「なんでも、高所から叩きつける水の様子が、それはもう荘厳であり風情にあふれているものらしい」
「まさか君、本気で所望しているのか」
 冷や汗が頬を伝うこそばゆさを覚え、私は顔を青くして声を震わせた。然し友人はその問いに答えるでもなく、やれ栃木は戦場ヶ原の雄大な土地が名所であるだとか、東照宮の荘厳さと言ったら他にはないだとか、宣伝文句のようなものを並べ立てている。
「嗚呼、もしも目的地に迷ったら、この便箋の口を切れ」
 友人は寝台の横の小さな卓上から、細身の茶封筒をとって私に差し出した。宛名も差出人の名前もなく、ただ口が糊付けされただけのものだ。
所謂いわゆる、アドヴァイスというものを書いておいた。目的の地──確か、華厳の滝というのだったか。もしそこへ向かう上で道迷いに陥ったり、君の矜持きょうじを捨ててでも降参したいと思ったのなら読むといい。もっとも、即座に諦めるようでは、画家としての腕前はその程度だ」
「何を言う。善いだろう、君の要望を叶えてやる。私の描く絶景を見て、君が折れた腰を引き摺ってでも実物を見に行きたいと思わせてやろう」
 思えば私は、扱いやすい人間だった。挑発に乗りやすく、容易く懐柔されてしまうような人間であることを忘れていた。きっと友人はそれを承知で私を唆したのだろう。兎にも角にも私は、己の矜持を誇示するベく、安い売り言葉を買ってしまったのである。
「そうか、有難う。そうだな、ではお礼に一つ豆知識を教えよう。作家様から画家様へ、想像力を発展させる手伝いの知識だ。君は、つきしらずという言葉を知っているか」
 彼の言葉に、私は眉をひそめて首をひねった。そんな私の態度に何処か満足した様子で、彼は自慢げに口を開く。
「つきしらずというのは、一種の言葉遊びだ。元々は、餅を何時ついたのか分からないという意味のつきしらずを語源にしてるんだが、そこから二つの意味が派生したのだよ。夏の夜が深まった中では、いつ船が船着き場に着いたかわからない、という意味の着き知らず。真北にある窓からでは月が見えないから、月知らず」
「それがどうしたというんだ」
流石さすがの君も、牡丹餅ぼたもちとおはぎはわかるだろう。夏と冬にも、実は呼び方があるのだ。先程の餅のつきしらずを元にして、夏は夜船、冬は北窓」
 私は更に顔色を曇らせた。作家の彼特有の詩的な言い回しは、風情のない私にとっては難解なものでしかない。文学的な才能も無く、写実的な絵しか描けない私は、彼の知識をどう転換させれば善いのかもわからないでいる。
「そうだ、ついでに何か欲しい物はあるか。君であれば例えば本だとか。君は怪我人だからな、暇を潰す娯楽ぐらいは見舞い品として用意しよう」
 私は自身の理解力のなさを拭うように、彼に言葉を続けさせんと言った。然しこれは私の、素直な気持ちであった。仮令たとえ理由がろくでもないとはいえ、彼はれっきとした怪我人。今日は友人に見舞いの品の一つも提げずに訪ねてしまったのだから、何か所望される品があれば購入するのもやぶさかではない。
「そうか。であれば、書籍を幾つか購入してきてほしい。高瀬舟、銀河鉄道の夜を頼む」
「了解した──次に見舞いに来るときに、持ってくるとしよう」
 私は友人が面食らったような顔をして呆然としているのがあまりにも滑稽で、思わず腹を抱えて笑ってしまいそうになったのをこらえた。彼が私を掌の上で踊らせて愉快そうにしていたのが、今なら理解できるかもしれない。友人は口を開いたままだった顔をくしゃりと歪ませると、幼子のような純朴さを思わせる高い声をあげて笑った。
「これは一杯食わされた。次会うときが更に待ち遠しくなってしまったよ」


 私は乗り心地の悪い列車を乗り継いで、人生で初めて東京の街から外へ飛び出した。自らの足を動かさずとも、景色が建築物の灰から自然色の緑黄に移りゆく様は、未知の体験でありながらも中々どうして心地の善いものだ。私は車窓側の長椅子で肩越しに外を眺めながら、軋む車輪の音と共に数時間の旅路を楽しんだ。
 栃木の駅は存外盛んなものだった。路面店の賑わいがある訳ではないが、峰々や木々に囲まれた古風な町並みは、はかなくもしんがあり風流なものだ。
 渓谷沿いの道を抜け、滝壺を見下ろすことのできる位置に作られていた観測台へと下った。滝壺まで降りることはできないと聞いていたが、岩をも削り取るほどの激流がせわしなく叩きつける場所ならば、立ち入りが阻まれているのも納得できる。
 観光客らしき人影がうごめく中、私はその一角に小型の固定支持台を組み、腕の長さほどの短寸のキャンヴァスを置いた。小さな木椅子を持ち出してその場に座り込む私の背に、邪魔者をいとうような目線を感じる。これだから野外写生は厭なのだ。
 それに、目の前にそびえる轟々たる滝も、目にして更にうとましく思った。前例はなくとも、いつなんどき崩落してもおかしくない陳腐な観測台で、優雅に展望などしていられるものか。華厳の滝といえば、自殺の名所という噂を聞く。などという法螺話ほらばなしを若者がしていたから、私は思わず一睨ひとにらみしてしまった。決して臆しているわけではない。
「三日。否、かかって一週間ほどか。雨が降らないと善いのだが」
 景色を見ながらの作業となると、定点から描き続けなければならない。降雨となれば、画材やキャンヴァスが雨ざらしになって劣化しかねない。乾燥剤を絵の具へ多量に混ぜ込み、あるいは日中休みなく筆を動かし続ければ早く済むだろう。細身に削った木炭で、滝の尺を測ってみる。一日でも早く、ここから離れて恋しいの地へ戻りたいものだ。私はその一心で、キャンヴァスに木炭を載せ始めた。

「久方ぶりだな。然し、思っていたよりも大分早かった。どれ、見せてくれ。否、その前に手紙を返してもらおうか。そんな紙切れなど、仕事を終えた君には不必要だろう。紙面の裏にでも、落書きをして遊ぶとするさ」
 再度見舞いに来た私を、友人は眼鏡をかけて書を読みながら、情緒もなく淡泊な態度で迎えた。彼の病室への道中、キャンヴァスを小脇に抱えた私を見た看護婦に、厭悪えんおを込めて顔をしかめられた。油絵は臭いが独特なものだから、看護師に嫌厭されてしまうのだろう。申し訳なさを募らせながらも訪れた私に対して、当人はさして何もないような素振りでいる。私は呆れてため息をきながら、寝台に寝転ぶ彼にキャンヴァスを手渡した。
「嗚呼、これは確かに実物を見てみたいものだな。君はさすがの腕前だ。君は何時か、偉大な画家として世に名を知らしめるだろう」
 制作に費やした日数は十日。その内の睡眠時間は毎夜七時間にも満たず、朝昼の飯は宿屋の女将に頂いた握り飯が数個ずつ。日中は総じてキャンヴァスと睨み合いをし、荒く塗った絵の具で観測台の床を汚した。雨風が吹けば流れ落ちる代物だとは思われるが、私はあの観光地に自身の足跡を残してきたも同義だろう。
 乾燥剤を多分に含めて描ききった一枚の絵を、友人は寝台の上で一心に見つめていた。普段は赴かない地での写生、時間に追われる中での作業は絵の迫力を増させるものとなった。苔むした岩肌、滝を囲う渓谷は深緑を基調に沈んだ色合いでまとめ、主軸となる水流は灰を中心に赤を織り交ぜることで周囲との対比を描いた。
「その何時かは、果たして私が生きているうちに来てくれるものかな」
 埋葬された後に作品が評価されようとも、私の生活が贅沢になるわけでもない。末代になるであろう私から見れば、後の家族に金が渡るわけでもなく、ただ死後の私の評価があがるのみなのだから。
「きっとそう遅くはない。君がこれまでに描いては売った絵が、今もこの国のどこかで褒め称えられているだろうよ」
「それなら善いのだがな」
 憂うような瞳で微笑む彼から、私は嘆息交じりに目をそらした。ふと私は見渡した病室の隅に、何やら奇妙な荷物の山を見つけた。清掃の行き届いた部屋の質素な木材質の壁沿いに、開封のされていない小包が積まれている。医者が回診に使う医療用具にしては汚らしく、彼の衣服にしては扱いが雑である。
「その品が気になるのか。私の事態を知った輩共やからどもが、次から次へと見舞い品を献上してきたのさ。度々送りつけてくるものだから、看護婦の麗人に手を焼かせてしまっている。申し訳ない限りだ」
 気がかりから見つめ続けていた私を見計らってか、友人が素っ気なさと申し訳なさを織り交ぜた声で言った。私が再び彼の顔に向き直ると、友人は唇を軽く噛みながら、見舞い品とやらの山を睨みつけている。名声と共に得るものが善いものだけとは限らないのだろう。
「君が謝ることではないだろう。受取拒否でもしたらどうだ」
「そうしたとしても、送り主は大量に居るのだから、その全員に通達するには骨が折れる。実際私は骨を折っているのだから、通達の役目を負うのは別の誰かだ。それもそれで申し訳が立たない」
 友人は呆れたように首を振ると、鬱陶しそうに眉間を押さえて唸った。
「こういう時ぐらいはゆっくりさせてもらいたいものだ」
「そうだな。そう何度も病室に訪ねられては、君も気が休まらないだろう」
「否、この部屋に通すのは君だけだ。予期していなかったとはいえ、長い休暇だからな。誰と会って何をしてどんな会話を交えるかも、私の好きにしていいだろう」
 彼の言葉に私は目を見開いて言葉を失った。久方ぶりに会った彼は、私に幾度も珍しい顔を見せてくれる。珍しい頼みごとも、私が渡したキャンヴァスを憂うように撫でる横顔も、見覚えのあるものではなかった。それに何処か彼は、先日会ったときよりも幾らか痩せたように思える。
「君、少し痩せたように見えるが。飯はちゃんと食っているのか」
「病院食というものは質素で困る。骨をやったおかげで外出も碌にさせてもらえない。痩せるのは当たり前だろう。そんなことよりも、君にもう一度写真を撮ってきてほしいのだが、善いだろうか」
「君なぁ、私も一応は画家を生業にしているんだ。仮令君のためと言えども、無償で絵を描き続けていては生計が立たなくなる」
 先程までの静寂を打ち払うように口角を上げて、友人は私に向き直った。表裏が度々替わる彼の姿と言動に嘆息しながら、私は厭悪を交えて言葉を絞り出す。著名作家である彼とは違って、私は一枚の絵で金を稼いで飯を食う人間であるため、元手となる絵を描くことをやめてしまっては、その日暮らしすらできなくなってしまう。
「善いだろう。退院した後にはなるが、君に報酬分を支払うと約束する」
「否、それでは足りない。君のために東奔西走する間は別の仕事を請け負うこともできないのだから、倍値で払って貰おう」
「目敏い奴め。では、退院した後にその分の代金を支払う。さらには君が全国各地へ飛ぶのに費やした旅費諸々を含めて、絵画は普段の倍近く払う」
「なるほど、それは手厚い。であれば今回の絵は、君に無償でやろう」
「善いのか」
「嗚呼。金をせびれども、君と私は友人だ。退院を願っての贈り物だと思ってくれ」
「そうか。では、海を渡った北海道へ行ってきてくれ給え。最北の沿岸は、硝子のように透き通る海面がとても美しいらしい」
「快諾するようになったからと、君は私をわざと遠方へ飛ばしていないか。そのような辺境の地へ赴いては、何日、何ヶ月かかるか知れないぞ」
 先日よりも不確かな彼方の景色を頼まれ、私は眉を寄せた。具体的な観光地の名称がないだけに私の作業量が増える。それ以前に北海道ともなれば、山や谷を越えて本土の最北端へ至り、更に海を越えた後に彼の地の末端を目指さなければならない。目的地に及ぶまでに数日はかかる可能性がある。
「君を信じているよ。では、行ってき給え。私の入院する月日と君の作業日数を換算して、これを含めてあと二回ほどで、君の苦労は終わるだろう。頑張ってくれ」

 私が彼の元を再び訪れるのは、三ヶ月は優に超えた頃だった。詳細な月日は、数えることも億劫になったため忘れた。彼の頼みごとどおりに私は、あの日帰宅して直ぐに荷物をまとめ、夜行列車に揺られて東京をたった。列車内で寝食を行い、最北端へ辿り着いたのは二日後のことだ。現地に到着してから数日間、北海道の南部は雨に降られていた。野外写生は天候との戦いであるため、想定よりも長期の作業となってしまった。
 数ヶ月ぶりの再会となった私を、友人は笑みすら浮かべずに迎えた。病室の戸を開いた私を一瞥いちべつして力なく手を伸ばすものだから、私はその手にキャンヴァスを渡した。彼の容貌は、何処か前よりも更に華奢になったように思え、水平線の描かれたキャンヴァスを見下ろす瞳は冷たく、生気が灯っていないようにかげって見える。
「真北の窓から撮った月の写真を見せてくれ。撮れるまでは会いに来なくていい」
 油絵の画面を見ながら、友人は吐き捨てるように素っ気なく言った。油画の感想もない頼みごとに、私は困惑して顔を曇らせた。興味も無いような素振りをされるのは、あまり心地の善いものではない。気に入らないのであればせめてしかめっ面にでもなってくれれば善いものを。
「その程度のものでいいのか。それなら数日ほど待ってくれれば」
 居心地の悪さを覚えて、私は部屋の隅に降ろしたばかりの荷物をまとめようとした。しかしふと、不意に手を止める。
「待て。確か君が言うには、北の窓から月は見えないのではなかったか」
 私は訝しげな顔をして、再度寝台の友人を見上げた。しかし彼は私の様子を窺うこともなく、手元の水平線を見つめながら、独り言のように言葉を吐き出し続ける。私には、彼との空間が乖離してしまったように感ぜられた。
「満月が善い。外窓のひさしの先に望む満月が好ましい」
「この国では太陽は東方から昇り西方へ沈む。国内を走り回ったところで絵など描けまい。君が前に話してくれたろう」
 私は寝台に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。その目はまるで、漸く私の存在に気がついたかのように、手元のキャンヴァスから私の瞳へと目線が移される。彼の顔は笑みなど浮かべてはいなかった。青白く苦しそうな顔をして、頬は痩せこけている。その様は、健常と呼ぶには程遠いものだ。ひと目見てわかるほど、彼は具合の悪そうな顔をしている。
「そうか、君でもそれはわかっているんだな。それでは、行ってきてくれ。描き終わるまでは、私には会いに来なくていいぞ」
「君、それは冗談か。そうだ気になっていたんだ。君は腰の骨を折ったと言っていたが、固定具は何処だ? かわやへ行く際に利用する車椅子も見当たらない。君は本当に、骨を折ったのか」
 私は思わず、古い木椅子を蹴倒して彼の肩を掴んだ。そこで彼は今日初めて、にへらと気の抜けたような笑いを顔に貼り付けた。
「目が善いな」
「であれば君は、何故このようなところに居るんだ。まさか君は、死ぬのか」
 震える声が出た。今にも涙が溢れて止まらなくなりそうだったのを、私は唇を噛んで堪えた。友人は私の問いに戸惑ったような顔で目を逸らすと、乾いた笑いと嘆息を吐き出し、また私の目を見直しては物憂げに笑う。
「嗚呼、死ぬだろうな」
 全身が総毛立つのを自覚した。頬を冷や汗が伝い、病に罹患した彼をねぎらってか無意識に腕の力が緩む。脈絡もなく、しかし私が彼の異常に気がついたのは何故だったのだろうか。彼の見舞いに来た日よりも会話がくようで、違和感を覚えたからだろうか。何にせよ彼はその口ではっきりと、自分は死ぬと言った。
「厭だ、死ぬな。君は私の事を二十五そこらの若造だと言ったが、君も歳はさして変わらないだろう。療養の道を探すんだ。知識人の君が考え、私がその足となろう。それがいい」
「この便箋を持っていけ。のっぴきならなくなったら読むといい」
 しかし彼はいつものように寝台の脇の卓上に手を伸ばすと、小さな茶封筒を私の手に乗せた。私は彼の行動の意味が理解できず、自身の手の甲から滑り落ちる便箋を目で追うことしかできないでいた。
「では、行ってきてくれ給え。描き終わるまでは、私には会いに来なくて構わないぞ」
 彼は私の問いにも答えず、追い払うようにそう言った。
 その瞬間私は、彼がもう間もなく死ぬのだということを悟った。

 私は家に帰ると、近所の家を訪ねて回った。北の窓はあるか庇はあるか。日頃から画室に籠ってばかりの変人が奇妙なことを聞き回るものだから、隣人は訝しげな顔をして私を追い払った。友人の死を目前にし、私は心身ともに疲弊しきっていた。そこでふと、彼から渡された封書が記憶に芽生える。封の口を破ると、中から滑り出てきたのは、三つ折りにされた白い紙が一枚。開いてみるとそれは、書生や文筆家が文字を綴る原稿のようで、薄い印刷の升目が見えた。
『友よ、私だ。実は私は、結核を患っていたんだ。あの日図書館で意識を失い、そのまま全身を診断されて判明した。私はこれまで、嘘をつかずに生きてきた。だから此度こたびの嘘だけは、どうか許してくれないか。私の遺産は、全て君の元へ渡るようになっている。私には家族も居ないし、死後の金は知らぬ人間のところに流れるだけだ。そうなるより、君の将来へ投資がしたい。思えば、苦しく短い人生だった。しかし、嗚呼。存外、悪くないものだ。友よ。君と過ごすのはとても楽しかった。ありがとう』
 詩的な言葉も無く、彼の心情がただ切実に綴られていた。その文面は、国語への造詣が深くない私でさえ、彼の深層を垣間見ることができるようなものだった。私はどうやら、文字書きらしい彼の一世一代の嘘に踊らされていたらしい。
 私は彼の──君の真意を覗くことはおろか、君に深淵があるとすら思ってなどいなかったというのに。それでも君は、大人の皮を被った子供だったらしいな。死にたくない、会いたい、一緒に生きたいと、素直に言えないような幼心があったんだな。君の達者な語彙が、その真摯な思いを、更に遠回りさせてしまったのだろうか。私にはよもや、君の心中などわかるものではない。私は、君の言うように鈍感な性分だから。
 友よ。私は君のためにいつか、豪州へ渡ろう。彼の国であれば、北の窓から射干玉ぬばたまの空に天満月あまみみつきを展望することができると調べた。
 そのためにも画家として海を渡るほど名を知らしめなければならない。否、そのためには先ず欧米の言葉を理解しなければいけないな。
 異国など縁遠いものだと思っていたが、君のお陰で未だ知らぬ事を学べそうだ。私は、知らないことばかりだ。どれだけのことをすれば、君の念願を叶えることができるのだろうな。母国語すらも、君のように達者ではないというのに。
 儘ならない。嗚呼、儘ならないな。

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