『常夜の国に近い場所』 志河紫月

 そこは深い迷霧の中だった。
 “おくり車”は、整備されていない田舎道の上を小刻みに揺れながら走っていた。春の匂いが、あたりに漂っている。右に左に、何度も車体を揺らしながら確実に目的地へ向かっているようだが、五メートル先も見えないような深い霧の中では、本当に正しい道順なのか不安になった。
 運転している親父の方を見ると、右手で杜撰ずさんにハンドルを握りながら、葉巻を挟んだ左手を窓の外に出している。葉巻から、素鼠色すねずみいろに白っぽくすすけた煙が絶え間なくもうもうと出ていた。俺は、この濃い霧は葉巻から作られたものなんじゃないかと疑った。まるで、葉巻の煙からこの深い霧が絶え間なく生まれて、あたりに立ち込めているようだった。

「お前をここに連れてくるのも久しいな」
 親父はいきなり後ろの席の俺に声をかけてきた。
「そうだね。しばらく病状が悪化していたから」
「もうかれこれここに来るのは三年ぶりか?」
「そのくらいになる。いまだに不気味で慣れないよ」
「それにしても、お前は家業を継ぐもんだと思っていた」
「……この仕事は体力がいる。親父、それは体の弱い俺に対しての当てつけ?」
 いつものように軽口で返したその時、おくり車の前輪が石ころに衝突し、音を立てながら大きく揺れて、この会話は中止になった。
 その後は、しばらく無言で走行していた。迷霧に沈んだ白い都の中で、世界は俺と親父だけだった。

 ふたたび微睡まどろんでしまいそうになった頃、おくり車は機械のきしんだ高い音を響かせながら巨大な門の前で停車した。車高の高いおくり車が難なく入れるように、門はうんと高く曇天にのびて、黒い石造りのいかめしい姿を霧の中に隠している。親父は俺を残して降車し、門の傍らまで歩を進めた。到着すると、右側にしつらえられてある小部屋に入った。
 しばらくすると、門の鎖は無機質な音をたてて動き出し、しかつめらしく観音開きに開いて、向こう側の道がおくり車の前にさらされた。見やれば、今まで通った道とは打って変わって、地面は均整に整備されている。左の傍らには、満開の桜並木が一様に右に細い枝を垂らして咲いていた。親父はふたたび運転席に戻った。
 道中、窓から迷い込んだ桜の花びらが何枚か俺の身体にそっと舞い落ちた。花びらのうち一枚は胸ポケットに忍び込み、一枚は鬱陶しいほど長く伸びた前髪の上にかかって、残りは体に付着した。
「お前は花が好きだったよな」
 親父が二本目の葉巻を吸いながら、俺に声をかけた。
「幼い頃から落ち着いた子だった。荒廃した街の小さな家屋で育ったとは思えないほど、お前は賢く育つから驚いたもんだよ。荒れた街の地面に花を植えて慈しんでいるお前を見て、まさしく納棺師の息子だと思った」
「花を植えるのと遺体を納棺するのとは別物だよ。花が植えられるからって人間の重い体を持てる訳じゃない。俺に強い体があれば、よかったんだろうけど」
 今度は真剣にそう思って、言った。
 道ははじめのうちこそ真っ直ぐだったが、しだいに曲がりくねり、複雑になった。おくり車はしばらく蛇行した。
「この手帳を覚えているか?」と、おもむろにダッシュボードの上に手を伸ばして、親父はノートほどの大きさの黒革の手帳を取り出した。
「お前が随分小さい頃の話だ。独学で文字を覚えたお前は、俺に内緒でこのノートに日記をしたためていた。俺は知らずこれを見て、内容に感嘆したもんだよ。中にはお前の言葉で色々なことが書いてあった。今日の親父の晩御飯が美味かったとか、花が枯れて悲しいだとか。どれも取り留めのないことばかりだったが、普段俺に話さないことが書いてあって嬉しかった。お前が何を考えているのか、わからない時もあったからな」
 俺は目を外に向けて、返事もせずに聞いた。
「中でも一番嬉しかったのは、十三歳のお前が書いた、お前が初めて盗みを働いた日の夜の日記だ。あの夜、お前は分厚い財布を大事そうにポケットにしまいながら帰ってきた。そうして俺の前でそれを見せて、嬉しそうに〈父さん、友達に教わったんだ。僕も家計を助けられるよ〉なんて言ってきたもんだから、俺はいつになく怒鳴っちまった。口答えするお前にさらに腹が立って、左の頬を打ち、お前が涙目で家を飛び出たことまで鮮明に覚えている」
 親父はまるで俺ではなく自分自身に語るかのように話した。
「その日の日記には、こう書いてあった。

 “僕の尊敬する納棺師の父さん。だけど、身寄りのない遺体を墓地に埋める納棺師の仕事じゃお金は一銭も入らない。僕にたくさん食べさせるために、お父さんは自分の食事を削っている。正しい方法で稼げばお金を受け取ってくれるのかな。”

 嬉しいやら情けないやらで、その夜はなかなか寝つけなかった。翌朝、目が覚めてお前を探しに出ようと外套を羽織ったら、テーブルに朝食と木春菊マーガレットの花が添えられていて、お前の部屋を覗いたら布団をはいで眠っていた。お前が作った朝食の味は、……本当に塩気が強かったよ」
 親父の話を、俺はばつ悪そうに聴いていた。

 結局、一度も返事をしないうちに中央へ到着した。この無縁墓地は棺の形を模してひろく南北にのびていて、棺でいう、描かれた十字架の交錯部分の中央だ。
 おくり車はおおきく開けた区画に悠々と入り、今度は音を立てずに停車した。親父はエンジンを切って、二本目の葉巻を灰皿に棄てた。
 中央の区画は白い砂地で出来ていた。細やかな白砂がまるい形にそって敷き詰められ、その上には小屋が設けられている。その隣には円形の池がある。親父は小屋の中へ入って、入念に手を洗ってから道具一式が入ったトランクケースを持ち出した。俺は親父の後ろに張りついて小屋に入ったが手持ち無沙汰で車内に戻った。

 今し方まで深く霧の中に沈んでいた無縁墓地の所々に、雲を透かしながら春の陽射しが射し込んできていた。一面に広がった墓標のかびひとつない輝かしい表面を明るくして、はるか上空のほのかに桃色を帯びた雲より、さらにたかい所から見守っているようだった。
 そんな中で、親父はトランクケースを地面に置いている。
「今日は特別だ、お前に納棺のやり方を教えてやる」
 親父が車の扉を開けて、すこし声高に言った。俺は「別にいいよ、継ぐこともないし」とくぐもった声で返したが、親父は意に介さずトランクケースから白いシートを取り出し広げている。ちょうど人一人が入る程度の大きさだった。
「まず清潔な置き場を用意する。ここに故人を置く」
 親父はおくり車の後ろから一合の木箱を運び出してシートの隣に置いた。蓋をずらし、中から何かを持ち上げた。よく見ると金髪の少女だった。少女の背中と膝の裏に手を回し、抱きかかえている。
 次いで車の方を一瞥いちべつしたあと、シートの上にやさしく乗せた。少女の短く切りそろえられた金髪が風になびいて、もう春だというのに白い肌が寒々しく見える。少女は生きていても不思議ではないほど生々しく美しかったが、左胸の銃創が服を赤く染めていて、これによって生きていないことがよくわかった。服はすぐに脱がされ、曇天の下に少女は一糸まとわぬ姿になる。
「次に拭き湯灌ゆかんをする」
 親父はそう言って、小屋の横に設えられている蛇口からバケツにお湯を汲み、トランクケースから純白のタオルを出した。親父はタオルをバケツにどっぷり浸らせ、力強く絞って少女の体を拭いた。胸部は難航して、血糊を完全に落とすまでに何度も、湯を汲みタオルを浸し絞っては拭く作業を繰り返した。
「湯灌が済んだら、死装束を着せる。だが無縁納棺師は金がないんでな、うちでは故人の生前着ていた服を着せることにしている。つまり、このボロ服だ。こっちの血糊も落とすが、全部は落としきれそうにないな」
 少女の薄花色のワンピースは胸部から下腹部にかけて流血の跡がみられるが、親父はこれをバケツに沈めて何度も洗った。血糊なんてそうそう落ちるものじゃないだろうと思っていると、トランクケースから洗剤を取りだしてさらに強く洗った。
 洗い終わって、ワンピースの水分を絞り、二、三度宙でつよく振っている。小気味いい音が車内まで響いた。そうしてようやく出来上がった死装束は、しわだらけで色落ちしていた。
「親父は女心がわかんないんだね」と揶揄やゆするように言ってみたが、親父には届いていない。
「死装束は着せるのが普通だが、死後硬直でそれが難しい場合もある。今回は死後二日が経過していて、これくらいすると緩解かんかいしていく。その場合はちゃんと着せてやるんだ」
 少女は体を持ち上げられたり、体勢を変化させられたりしながら少しずつ着せられていった。少女の薄花色のワンピースはさらに薄く色落ちているが、むしろ死出の旅に相応しくさえ見える。
「お前はいつも、なんの足しにもならないのにどうしてこんな仕事なんか続けるんだと聞いてきたな。お前との、二人の生活を考えればやめるべきだったかもしれないと今でも思う。だがやめられなかったんだ。いいか。世の中で、人に忘れられて消えることほど悲しいことはないんだ。それは死ではない。消滅なんだ」
「……うん。今では、俺もそう思うよ」
「お前が生まれるずっと昔から家の男がやってきたことだ。何代前から始まったのか、どうしてこれほど広大な土地を先祖が持っていたのかはよくわかっていない。だが、紡がないといけない。誰かがやらないといけないことなんだ」
 流石さすがに長い間納棺師を務めているだけあって、親父の仕事は速かった。
「次は男には難しいが、死化粧だ」
 親父はトランクケースから爪切りと除光液を取り出した。
「この女の子は髪の毛だけは綺麗だな。死化粧とは、故人の身だしなみを整えることだ。男の場合は髭剃りも必要だな。女性の場合は薄化粧を施すことになる」
 少女の指の爪を切りながら親父は言う。
 全ての爪を短く切りそろえて、除光液を塗り、こんどはトランクケースから化粧箱を取り出した。少女に化粧を施す親父は、俺が普段知っているガサツで大雑把な親父とは別人のようだった。
「口数が多いと思うか? 俺は元々結構しゃべるんだよ」
「知らなかったよ」

 そうして少女の方を見やると、先程までの少女とは明らかに雰囲気が違っていた。生々しいまでの瑞々みずみずしさはそこから消え失せ、ただはかない余香を残して漠然とそこに存在していた。この時の少女は誰がどう見ても死体だったし、誰がどう見ても美しかった。
「いよいよ納棺するぞ」
 親父は立ち上がり、手の汚れを落とすように叩きながら小屋へ入っていく。
 しばらくして、一基の棺を担いで少女の元に戻った。
 棺もまた白かった。白い素材の中に金色で十字架が描かれ、清潔で不可侵の感をたたえている。親父は蓋をはずし、少女を優しく持ち上げて、棺に納めた。
「ここからが最も難しい」
 親父はまたぞろ車に戻って、こんどは運転席に備え付けられた荷物ケースから黒い折りたたみの雨傘を取りだした。
「故人が身につけていたものは、身につけていたその瞬間と少しも変化してはならない。思い出は副葬品に宿る、想いもそうだ」
 今まで以上に真剣にそう言って、棺の中に雨傘を納める。
「そして、納棺師の最も重要な仕事は、故人を偲ぶことだ。副葬品は、故人の生前の姿を映してくれる」
 親父は、少女と、少女の思い出に蓋をして、池のほとりまで棺を運んだ。親父に雁行がんこうし、俺は池の前で座った。
 この池を見て少し驚いた。この池はただの池ではないらしい。直径五メートルほどの小さな池なのだが、その一端に、中央にのびるように水の中に沈んだ足場がある。そして中央から直径二メートルほどは、円形の平らな皿のようなものが池に沈んでいて、そこになにか置くことができそうだ。
 俺が驚いた理由は、この池が鏡のように銀色に反射しているからだった。俺と親父が池を覗き込むと、親父の顔をくっきりと反射して映し出す。それどころか、遠くの空の雲模様までよくわかった。親父が歩いて、水紋を波状にたてていなければ池かどうかも疑わしい。それほど精緻に反射していた。
 親父は池の中央まで歩いて、中央の皿に少女の棺を置いた。そしてほとりに戻って、そばにおちていた石を池に投げ込んだ。
 池に大きな波紋が立つ。すると、池はたちまち波紋が広がるのと同じ要領で、石を投げ込まれた地点から徐々に輝き出した。輝きは外縁まで満遍なく広がって、ひとしきり輝いたあとにさらに強く光って収まった。そして、一つの景色を映し出した。雨の降る路地裏のようだった。

***

 薄明るい繁華の街に、細い筋のような雨が降りしきっていた。景色は歩いている人の視線をうつすように少しずつ前へ進んでいる。歩く際の少しの揺れが景色に現実性を与えて、不思議とどこかでみた景色のような気がしてくる。
 そのうち、道を左に曲がり、路地裏に入った。この路地裏は奥にずっと長く続いている。景色を見せている人物は、視線の先にひとりの少女が体育座りをしているのを見つけたようだ。歩みを進めて、少女に近づいた。
「お嬢ちゃん、家出かい」
 洗練された男の声がした。
「家出の日にこの大雨を選ぶわけないだろ。このあたりで家なし子が多いことを知らないの?」
「それは知らなかった。なにせここには初めて来るんだ、野暮用でね」
 少女はここではじめて顔を上げた。くだんの少女だった。
「アンタ旅行客? それはいいや」
 少女は想像より目がつり上がっていた。紺碧こんぺきの大きな瞳は男を睥睨へいげいし、瞬時に立ち上がって男の背後をとった。そしてナイフを取り出し、男の首元にあてた。
「死にたくなかったら有り金、全部出して」
 男は一瞬狼狽ろうばいしたようだが、すぐさま落ち着きを取り戻して言った。
「手馴れているね。いつもこんなことをしてるんだね」
 男はポケットから何かを取り出して少女に渡した。
「財布だ。君が二週間は食っていけるであろう金額が入っているよ」
「そりゃよかった。あんたみたいな紳士気取りのスーツ野郎はやっぱりたくさん持ってるね」
 少女は財布を自分のポケットにしまって、言った。
「手を上げな。妙な動きすると、首かっきるからね。そのまま壁に手をついて」
 男は黒い傘を落として、路地裏の壁に手をついた。男も少女と同じようにしとどに濡れる。少女は、男の体をあらためた。
「いつもこんなことをしているのかい」
「そうでもしないと生きられない街だ」
「君は本当に細い。最後に食事をしたのは、いつなんだい」
「さっきだよ。ゴミ箱を漁って、残り物を食べた。こういう日は泥水がすすれるから、もし吐きそうなほど不味い食べ物にあたっても飲み込める」
 男は閉口した。
「このポケットのこれは何? 体を動かさず答えて」
 少女は男のズボンの右ポケットから小さい箱を取り出した。
「……それはただの木箱だよ。装飾が珍しいから買ったんだ」
 少女はふかく吟味したあと地面に放り捨てた。少女からは見えないが、男は悩むように複雑な表情をしている。
「ごめん、嘘だ」
「何?」
「今の箱を拾って、黄色い面を強く押して。そうしたら、今度は青い面を引っ張って、最後に赤い面を横にずらしてみてごらん」
 少女が言う通りにすると、箱は果たして開いた。中では大粒の赤い宝石があしらわれた金の指輪が、遠慮しているように鈍く輝いている。
「僕は宝石商なんだ。それはとても貴重で、アレキサンドライトと言う。射し込む光によって色が変わるんだ。この世で最も貴重な宝石のうちの一つだよ。売れば巨額の富を得られる。本当は、お客さんに依頼されたものなんだけど。もうここにいる意味もなくなってしまった」
「……たまにいるんだ、あんたみたいなお人好し。同情しているのかなんだかわからないけど、黙っていれば気づかなかったかもしれないのに」
「君に一目惚れした、って言ったら納得してくれるかい」
「ロリコン? 気持ち悪い」
 男はハハハと困ったように笑った。少女には、それがとてつもなく暖かいもののように感じられた。少女はアレキサンドライトもポケットにしまって、男から距離をとった。
「あたしの方を見ずにまっすぐ、今きた道を戻りな」
 男は少女の声を無視して、壁にしっかり貼り付けていた手をほぐすように握ったり開いたりさせた。次いで、黒い傘を拾い、少女の元へ向かう。
「来るな! それ以上近づいたら刺すよ!」
 少女はナイフを取り出し男を凝視して叫んだ。
 男は意に介さず少女に近づき、手を伸ばせば触れられそうなほどの距離まで近づくと、黒い傘を少女に差し伸べて微笑みながらこう言った。
「風邪引いちゃうよ」
「……っ!」
「折りたたみ式だから君でも持ち歩けるだろう。それも決して粗悪品じゃない。大事に使ってくれよ」
 少女は傘をかすめ取り、男と反対の方へ駆けていった。

***

「そんな法螺ほら話信じられるかよ」
 少年は雨中に怒号を響かせた。
「本当の話よ」
「そんなわけあるか。貴重な宝石をたかがこそドロのお前にプレゼントする紳士の話を俺が本気で信じると思うか?」
 街の外れのアーチ橋の上、少年は銃を取り出して、黒い雨傘を差した少女に向けて語りかける。
「あたしも驚いたが、本当さ。お前には宝石は渡さない」
 少年は一転して優しい声を出す。
「なぁ、俺たち長くやってきただろ? 地主の大御屋敷に忍び込んだり。上手くやってきたじゃねえか。お前だけ独り占めなんてズルいよ」
「この宝石はあんたがあたしを裏切って一人で逃げた夜の次の日にもらったものだ。下手してたらあの時あたしは殺されてたかもしれない」
「そんなこと言うなって。あれは仕方なかったんだ」
「とにかく、あんたには渡さないよ。もう一緒に仕事もしない。消えな」
 少年は再び声色を戻して脅かすように叫んだ。
「優しくしてやれば調子に乗りやがって。いいからさっさと渡せ、この銃は本物だ」
 少年が牽制のつもりで少女の足元めがけて銃を発射した。少女は飛びのいて、小石を投げつけて、橋の欄干の上へ跳んで嘲笑あざわらう。
 雨足は強まって、橋の下を見ると、河の水が凄まじい速さで下方に流れている。
「あんたが欲しいのはこれ?」
 少女は薄花色のワンピースの左ポケットから箱を取り出して少年に見せつけた。
「こっちに投げろ」
「あんたに話すんじゃなかった」
「こっちに投げるんだ」
「嫌だ。本当は返したかったけど、あんたに渡すくらいならもういらない」
 少女は箱から指輪を出して、河川の方向へ天高く投げつけた。指輪は鈍く光りながら蟒蛇うわばみのような河に呑まれて消えた。

「あの世で後悔するんだな」
 少年は少女目掛けて発砲した。雨音と河のうねる音の間では、銃声はあまりにも軽々しいように思われた。少女は当たり前のように橋の方に倒れ、おびただしい鮮血を流しながら虚ろにまばたいた。そのあとに、ゆっくりと目を閉じた。
 少年は少女を一瞥もせずに立ち去った。

***

 池の表面は、鏡のような銀色に戻った。親父は、立ち尽くしたまま一筋の涙を流していた。
 親父は池から棺を担ぎ出して、おくり車に積んだ。
「見てたか。これが納棺師の最後の仕事だ。この棺は埋葬地に埋める。この墓地は広いから、どれだけ納棺しても埋まることはない」
 親父がおくり車を動かした。
 今まで見たことがあるのは、死化粧をする工程までだった。納棺師にこんな役目があることを、俺は今日初めて知ったのだ。
 親父の気持ちが、今はよく理解出来る。親父はきっと、今まで池で見たすべての人の人生を忘れないで覚えているだろう。納棺師とは、難しく、大切な仕事なのだ。金銭が発生するかしないかは、小さな問題に過ぎなかったんだ。この大義の前では、些細ささいな問題だったんだ。
 親父に今まで言ってきた数々の暴言を、深く詫びたい気持ちになった。

 親父はおくり車をめて、棺を小さな穴に入れた。墓石は既に建っているが、名前は記されておらず、ただ“Rest In Place”とだけ彫られてあった。あたりを見渡すと、すべての墓石がそうだった。
 親父は土を棺にかけている。慈しむように丁寧にこなす親父の背中は、今まで見たどの親父より頼もしく、誇らしかった。
 全てが済むと、親父はおくり車に戻って、ふたたび走らせた。
「墓地は、常夜の国に最も近い場所だ」
「親父」
「故人の遺体を埋めて、故人を偲ぶ場所。納棺師は、それを誰よりもやらなきゃいけない」
「親父。ごめん。親父の仕事は本当に立派だったよ」
「納棺するお前を、一度は見てみたかったよ。きっと初めのうちは手間取ったんだろうな」
「親父。本当にごめん」
 中央に着いて、おくり車はそっと停止した。
「俺の勝手な想像かもしれないが、お前は誰より納棺の仕事が上手くなるに違いなかった」
「親父は俺が息子でよかったと思ってる?」
「お前に納棺の作業を見せてやれば話せるかと思ったんだが、世の中そんなに上手くいかねえもんだな」
 親父はつとめて快活に笑った。
「こんな体が弱い俺が息子で、悔しくなかったの? 家業も継げない俺で」
「お前はいつもどんな事を考えていたんだ? 本当は日記ではなく、お前自身の口から聞きたかったよ」
「俺は……親父を尊敬してたよ。伝えられなくて、ごめん」
「墓地は常夜の国に最も近い場所だ。ここでなら、お前が化けて出ることもあると思ったんだが、儚い望みだったな。最後に納棺師の仕事ぶりを見せてやりたかった」
「俺はここに居るよ」
「さあ、そろそろ別れの時間だ。散々涙は流し尽くしたから、俺はお前がどんな景色を見せてくれようと泣く気はないぞ」
 親父は後部座席に横たわっている俺の遺体をそっと抱き上げた。
「親父に感謝を伝えることだけが望みだよ。生前伝えられていれば、どんなに良かったか」
 親父は俺を白いシーツの上に置いた。
「お前の湯灌は済ませてある。死化粧も済ませたし、死装束も着せた。納棺師の服をお前は嫌がるかもしれないが、最後のワガママだ。我慢してくれ」
 俺が着せられていたこの服は、親父が俺の誕生日にくれた黒いシングルスーツだった。納棺師なら誰でも一着は持っているというそのスーツを、反発していた俺は一度も着ないまま死んだ。
「俺は今なら喜んで着るよ」
 棺に蓋をしながら、親父の表情は悲愴感にあふれていた。
「お前の病気を治せなかったことが悔しいよ」
 最後にそう言うと、親父は運転席から黒い手帳を取り出した。親父は手帳を懐かしむように触って、棺の中に入れた。そのまま、棺に蓋をして池の中央へ運ぶ。親父は池に小石を投げた。
 池は再び、波紋から巡るようにきらめき、新しい景色を写した。そこは、強く思い入れのある景色だった。

 慣れ親しんだ家屋の俺の部屋が水面にうつり、玄関から親父が俺に怒鳴っている声が聞こえる。昔の俺が反抗的に口ごたえをして、親父に平手を喰らった。俺は逃げるように駆けて、親父は家へ戻った。
 しばらくすると、音を立てずに帰ってきた俺が自室で日記を開いた。使い古した万年筆で日記をしたためる。俺は書いているうちに涙を流していた。手帳を濡らさぬように気を遣いながら書き進めているのが、池に映し出された……。
 その後も池はいくつかの思い入れある場面を描写した。池はまるで真実の鏡のように俺の一生を映した。俺は歯痒はがゆい気持ちを抱いたが、隣で涙をこらえている親父を見るとなんとも言えなくなった。

 池は最後に死に際を映した。
 眠っている俺の横で、親父が町医者を連れて必死に喋っている。
「金が問題なのか? 金ならいくらでも出す。なんなら土地を手放したっていい。俺のことが貧乏に見えるかもしれないが、大きな車をひとつと広大な土地を持っているんだ。それを売れば金なんざいくらでも手に入るさ」
「問題は金額ではありません。この病気は世界的に難病指定されており、特効薬がないままなのです。症例は極めて少なく、免疫安定剤と抗生剤をお出しすることしか出来ません。申し訳ありません」
 親父はそれを聞くや否や、「ふざけるんじゃねえ」と医者に殴りかかった。
「おやめ下さい」
「俺の息子が助からねえ訳がねえ、医者は助けるのが仕事じゃねえのか」
 親父も心の中ではわかっているはずだった。それがどんな、無理難題かを。
 結局医者は薬だけを置いて親父から逃げ出て、俺は三日後の晩に命を落とした。

 ひとしきり映し終えると、池はふたたび鏡の姿に戻った。親父はたしかに泣いていなかった。悔しそうに歯を食いしばりながら、感情的な表情で池を見つめていた。
 そして親父が池に近づき、棺を池から取り出そうとした瞬間だった。

 この無縁墓地に、一陣の風が通った。春の匂いがあたりに立ち込めた。
 雲が晴れ光が射し込んで、池を照らした。

 池はふたたび輝き出した。小石を投げてもいないのにひとりでに光を放った池に、親父も驚愕きょうがくしていた。俺も同じく驚いたが、それと同時に親父の言葉を思い出した。
「故人が身につけていたものは、身につけていたその瞬間と少しも変化してはならない。思い出は副葬品に宿る、想いもそうだ」

 水面には、深い迷霧の中の桜が映し出されている。不自然なまでに均整に並べられた桜木に、俺は強く見覚えがあった。
 しばらく経って、桜のそばの門が開いた。門の向こう側には、黒いおくり車が見えている。親父が左傍らから乗車して、そのまま発車した。
 その時、水面の景色が大きく回転した。正確に言うと、くるくると宙を舞うように景色がめくるめく舞ったのだ。そしてそのまま回り続け、景色はおくり車の後部座席からの視点で止まった。

 胸ポケットに忍び込んだ桜の花びら!
 俺は思わずそう叫んだ。桜の花びらが、俺の副葬品となって池に景色を映し出しているに違いなかった。親父の方を見ると、まだ理解していないように困惑しながら眺めている。
 おくり車が中央のこの地に到着すると、一転して景色は誰かの視点に移り変わり、その光景を写した。
 その誰かは、到着して、降車し、小屋に入る。しかし、手持ち無沙汰で車内に戻り、親父の仕事を眺めている。一通り見た後、池に近づき、少女の人生を見る。その後、おくり車に戻り、少女を埋める親父を見つめている。そうして、再び中央に戻り、俺の遺体が棺に納められているのを見る。最後に、池で眺めている今の俺の視点と重なり、池はふたたび静寂に包まれた。
 池は、死後の俺の視点を映していた。

 親父はやっと理解し、あれだけ流さないと誓っていた涙を大量に流していた。「見ていたのか」と、声にならない声を震わせながら、嗚咽おえつとともにその場に崩れ落ちた。
「今もまだ見てくれているんだな」
「ああ。親父の仕事ぶりは凄かった」
「お前のことを本当に愛していた」
「俺も、親父のことを心から尊敬しているよ」
 気づくと、俺の体は半ば透明になって、目の前に手をかざしても向こう側が透けて見えた。どうやら成仏するらしい。
 最後に親父を見つめて、俺は微笑んだ。そうして、親父が言っていたことを口にした。
「世の中で、人に忘れられて消えるほど悲しいことは無い」
 親父はせき止めてあったものが解放されたように、大粒の涙を落として言葉にならない言葉を発している。
「世の中で、人の心にずっと存在できると確信できることほど、幸せなことはないね」
 俺が精一杯微笑みながらそう言うと、あたりにもう一度春の息吹が吹いた。空は晴れ、あたりは穏やかだ。俺は親父と、自分自身の人生と、生きとし生けるすべてのものに深く感謝し、目を閉じた。

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