試し読み

チンギス紀〈一〉がん
第一章 じん より

〈これまでのあらすじ〉異母弟を殺した罪で、タイチウト氏に追われる身となったテムジン。愛馬のサルヒにまたがり南の地を目指す途中、オーコンと名乗る怪しげな男と、ぼくの少年ボオルチュと出会う。ボオルチュを従者にしたテムジンは水場へ向かい……。

 水場には、先客がいた。
 らくを五頭連れた、三人の旅人だった。遠くから、テムジンがあいさつをしている。
 ボオルチュは、テムジンの前を歩いた。人と出会う時は、必ずそうしようと思った。矢を射かけられたとしても、自分がたてになれる。そう思ってから、自分がなぜそんな考えを持っているのか、不思議な気分になった。

 石に腰を降ろしていた、としかさの男が、立ちあがった。危険な気配はなかったが、ボオルチュは気を抜かなかった。
 男が、立ち止まった。頭越しに、テムジンを見つめている。いつまで見るのだと感じてしまうほど、長く見つめていた。
「これは」
 男の声は、いくらかかすれ、のどにひっかかったようだった。せきばらいをし、男はまたテムジンを見つめた。
「歩いての旅とは、難儀なことだな」
「大して、苦になりません。砂漠に行くので、革袋三つに水を満たさなければならず、それは馬が運んでくれます」
「そうか、砂漠か」
「商いの旅ですか?」
「荷を、ケレイト王国の商人のところに運ぶのだ。俺はタイチウトに従っているが、タイチウトではない。苦労して荷を運ぶ旅をやっても、利の半分は取りあげられてしまう。いずれ、力をつけて、タイチウトの領分からは出てやるさ」
 ひげに、白いものが混じっている。それに、よくしゃべる男だ。テムジンは、じっと立っていた。サルヒが、水を飲みたがっているのがわかった。テムジンが、くらと荷を降ろしはじめたので、ボオルチュは手伝った。
 水際まで、男もついてきた。
「砂漠を、越えようというのか?」
「流浪をしているだけです。水がひと袋だけになったら、引き返します」
「越える商人はいくらでもいるので、止めはしないが、馬一頭とはな。それも、奴僕とともに歩くのか」
「従者ですが、奴僕ではありません」
「そうか、従者か」
「砂漠へ行くなら、ここが最後の水場だという話なので、無事に着くことができて、ほっとしています」
「砂漠の中にも水場があることを、知らないのだな」
「あるのですか?」
「ある。特に秘密というわけでもないので、教えよう。それより、鹿を一頭射たのだ。肉を焼くところでな。一緒にどうだ」
せきらくを持っていますよ」
「それは、砂漠のためにとっておけ。肉は余っているのだ。手伝ってくれると、正直、助かる」
「そういうことなら、御好意に甘えます」
 たきがあった。そして確かに、枝に刺された肉が焼かれていた。水場の周辺には木立があり、たきぎも採れるようだ。
「馬のからだを、洗ってやります」
 テムジン殿と呼びかけようとして、やめた。テムジンは、まだ名乗っていない。
「チンバイ、客人だ。馬乳酒を出しておけ。チラウン、肉をもっと焼くのだ」
 丘と丘の間にある水場で、遠くを見渡すことはできない。この一行は、砂漠を越えてきたのだろうか、とボオルチュは思った。
「あの二人は、俺の息子でな。年に二度ほど、三人で旅をする」
 焚火のそばに腰を降ろすと、兄らしいチンバイが、わんいだ馬乳酒を差し出した。
「砂漠では、夜に素速く移動し、の当たらぬ場所を見つけて、眠るのだ。この水場まで来られたということは、方向は読めるのだな。眼で見える砂丘など、信用するな。天の示す方向で、ひたすら進め」
「はい。御助言、ありがとうございます。砂漠に踏みこむのは、はじめてですので、充分に注意します」
 座りこんだ駱駝のそばには、降ろした荷が積みあげてある。中身がなにかは、見ただけではわからない。ボオルチュはさりげなく観察を続けたが、怪しいと思えるものはなにもなかった。
 焼けた鹿肉に塩が振られ、差し出された。半年間、あの男の食い残したものだけを、与えられてきた。骨についた肉を、懸命に歯でぎ落としたものだ。口の中がいっぱいになるほどの肉を、食ったことはない。
「モンゴルは、乱れている。タイチウト氏には、おさを名乗る者が何人もいて、足の引っ張り合いをやっている。キャト氏は、実力はあったのに、長のイェスゲイが死んで、総崩れだ」
「そうなのですか」
「西には、ケレイト王国がある。ナイマン王国もな。メルキト族は強いし、タタル族には、きんこくという後ろ楯がある。こう分裂しているようでは、モンゴル族の未来はないな。独立した勢力が、いくつも現われているし。いずれ、メルキト族に滅ぼされるか、ケレイト王国にみこまれるか。すべて、イェスゲイが死んだことから起きたのだ。イェスゲイは、モンゴル族をひとつにしようとして、そうなりかかっていたのだからな」
 やはり、よく喋る男だ。ただ、喋りながら、静かな眼でテムジンを見ている。はじめに見せた、驚きの色は、もうない。
「肉を食らったら、眠るといい。俺たちも、夕刻には西へむかう」
「そうします。肉も、そして馬乳酒も、なんとお礼を申しあげていいか」
「お互いに、旅をしている。助けられることも、助けることもある。そういうものなのだ。旅の途次で困っている者と出会ったら、助けてやればいい」
「大地はひとつなのに、人はなぜ争うのだろうか、とよく考えます」
「人だからだ、と俺は思う。生命を守るためだけに生きる、けだものとは違う。さまざまな思いが入りこんで、不純なのだよ」
「俺は、ひとりきり、いや従者と二人で旅をしているので、けだものに近いと思います。この従者はボオルチュといいますが、まだ十歳です。砂漠の旅は、過酷すぎるかもしれない、と俺は考えていたところです。下働きの従者として、引き取ってもらうということは、無理なお願いでしょうか?」
「いやです」
 自分のことを言われていると気づいて、ボオルチュは大きな声で言った。テムジン様とともに。口には出さなかった。テムジンも男も、名乗り合ってはいない。
「俺を、子供だと思わないでください」
「ほう、この従者、なかなか骨があるようだな。いろいろ事情はあるのだろうが、ここで捨てるのは悲しかろう。引き受けることはできん」
「いや、ちょっと気の迷いが出ました。忘れてください」
「役に立つ、と俺は思うよ。なにより、あるじを守ろうとして、気を緩めていない。はじめから、俺はにらみつけられていた」
「旅の友として、二人で砂漠に挑んでみますよ」
「それでよかろう。たとえ従者であろうと、お互いの助け合いだ」
 それから二人は、砂漠の気候の話をはじめた。
 離れたところで肉を食っていた兄弟が、木立の方へ行き、横になった。眠るのだろう。ボオルチュも、強い眠気に襲われたが、なんとか耐え抜いた。
「さて、眠ろうか」
 テムジンが、ボオルチュの方を見て言った。立ちあがり、兄弟とは離れた木立の方へ行った。陽は照りつけているが、木立の中は涼しかった。
「俺は、眠りません。なにがあるかわかりませんから。それが従者です。テムジン様は、眠ってください」
 横になり、ボオルチュは言った。
「眠れ、ボオルチュ。あの男は、眠っている時に襲ってくるようなことはしない。多少は、信用してもいい、と思った」
「眠らないのは、俺の勝手です。テムジン様は、眠ってください」
 言いながら、ぶたを持ちあげるのが、ひどくつらいことだ、とボオルチュは感じていた。頭が働いたのは、そこまでだった。
 眼めた時、まだ明るかったが、陽は西に傾きかけていた。水際に立っているテムジンに、ボオルチュは半分うようにしてけ寄った。
「申し訳ありません。眠ってしまいました」
「いいさ。躰の疲れは、眠ることで大抵、回復するものだ」
 駱駝に、荷が積まれようとしている。五頭の駱駝に荷を配分するのは、兄弟の仕事のようだ。男が、馬をいて近づいてきた。
「この馬を、やろう」
「そんな。いただくわけにはいきませんし、あがなうものも持っておりません」
「それなら、これを貸そう。われらは、引き馬を一頭ずつ持っているが、もう必要もないのでな」
「御好意だけ、頂戴しますよ」
「貸したいのだ。さすがに、歩いて砂漠を越えるというのは、かねる。三頭余っている馬の、一頭を貸そうというのだぞ」
「返せるあてがないものを、借りるというわけにはいきません」
「いつか、返して貰う。返して貰えなければ、俺に人を見る眼がないということだ。返すのは、五年先、十年先でもいい」
「それは、借りるということにはなりません」
「俺は、人を見て言っている。その眼に魅せられたから、俺が頼んで借りて貰いたくなった」
「この眼に?」
「幼いころから言われていただろうが、不思議な眼をしている」
 男の言う意味が、ボオルチュにはわかるような気がした。自分が、テムジンについていくのも、この眼を好きになったからではないのか。
「旅は、お互いに助け合う。そう俺は言った。ここは、意地を張っても、意味のないところだ」
「しかし」
「俺は、ソルカン・シラという。タイチウトに、いまは従っているが、いずれそこからけ出してみせる」
「俺は」
「やめろ。名は、返しに来た時に言ってくれ。頼むから、俺の気紛れな申し出を、受けてくれ。ここで、会ったのだ。それはなにか、意味のあることだ、と考えたい」
「ありがとうございます、ソルカン・シラ殿。馬がもう一頭あれば、旅はずいぶんと楽なものになります」
 ソルカン・シラは、テムジンを見続けている。その眼を、その顔を。
 それからしばらくして、自分が馬に乗れるのだということに、ボオルチュは気づいた。深々と、頭を下げた。顔をあげた時、ソルカン・シラは笑っていた。
 ソルカン・シラが、土の上に石でかたちを描いた。ボオルチュはのぞきこんだが、なんだかわからなかった。
「岩山ですか?」
 テムジンが言い、ソルカン・シラはまた笑ってうなずいた。
「ここから、七百里南にある。この岩山の端に泉があるのだ。いいか、岩山は砂丘と違って、砂嵐でも動かん」
「わかりました。御恩は忘れません」
「ひとつだけ、こう。また砂漠を越えて、戻ってくることはあるか?」
「ソルカン・シラ殿に、馬をお返ししなければなりませんから」
 ソルカン・シラが頷いた。ボオルチュは、づなを受けとった。いい馬だ、と思った。
「われらは、もう発つ。砂漠を越えたら、だいどう がある。そこにしょうげんという者がいる。変り者で、書肆と妓楼をやっている。そして俺の友でもある」
「頭に入れておきます、ソルカン・シラ殿」
「俺の名を出したところで、受け入れるかどうかはわからん。そこは、運のようなものだ」
「運に恵まれているのかどうか、これからの旅でさまざまに試すことになります。運がなければ、砂漠に消えるのでしょう」
「運は、ありそうだ」
「ソルカン・シラ殿に会いましたから」
 もう一度テムジンを見つめ、ソルカン・シラはきびすを返した。
 テムジンと並んで立って、ソルカン・シラの一行が発っていくのを見送った。兄弟は、引き馬を一頭曳いている。ソルカン・シラは、自分の引き馬を貸してくれたのだ。
「駱駝は、力が強いのですね」
「俺は、それは知らんよ」
「背中のこぶには水が蓄えられていて、何日も飲まずに歩き続けられる、と聞いたことがあります。俺は信じていませんでしたが、実際に見ると、そうだと思えます」
 ソルカン・シラは、一度も振りむかなかった。すぐに、一行は丘のむこうに消えた。
「できることは、すべてしてくれたのだな。俺は、あの人たちに生かされた、ということになるのだろう」
「そして、最後まで、テムジン様の名を訊こうとはしませんでした。どういうつもりなのでしょう」
「俺と関わった、と思いたくない。そういうことだろう」
「テムジン様の眼に、えらく興味をかれたように、俺には思えました」
「忘れろ、ボオルチュ。これから、砂漠を越えなければならん」
「そうですね。しかし、馬があります。苦労はしても、絶対に越えられる、と俺は思います。水場まで教えて貰ったのですから」
「俺も、それには驚いた。誰もが、秘密の水場を絶対に持っている。そういうことなのだろうが、気軽に教えてくれた」
「口は、気軽でした。ま、七百里はあると言っていましたから」
「ほんとうに、あるかどうかだな」
 テムジンは、低い声でサルヒを呼んだ。水をたっぷり飲んでいるサルヒは、テムジンのそばに来て、鼻面を押しつけた。
「進発の準備をします、テムジン様」
「おう」
「あなたは、誰なのですか?」
「ただのテムジンだ。そう思え」
 ボオルチュは頷き、サルヒと自分の馬に、載せる荷を振り分けた。
 出発した。久しぶりに馬上だった。景色が、違って見えるような気がする。
 陽が落ちるころ、砂漠に入った。月の明りがあり、前方の砂丘がくっきりと見える。
 テムジンは、急いではいなかった。会った時から、急いでいるようには見えなかった。
 ボオルチュは、ソルカン・シラのことを思い出した。テムジンを知っているように思えたが、名を訊こうとはしなかった。
 テムジンとソルカン・シラの間で、なにか通じ合うものがあったのかもしれない。テムジンは好意を受け、馬を返すために、また砂漠を越えて戻る、と言った。
 ボオルチュに、それ以上の推測はできなかった。テムジンが何者なのかも、語られるまで考えまいと思った。好きになっている。それだけでいい。

<つづきは文芸単行本『チンギス紀 一 火眼』にてお楽しみください。>