湊かなえ最新作「カケラ」5月14日発売決定!特集サイト

内容紹介

他人の視線と自分の理想。
少女の心を
追い詰めたものとは──?

都内の美容クリニックに勤める医師の橘久乃は、久しぶりに訪ねてきた幼なじみから「痩せたい」という相談を受ける。
カウンセリングをしていると、小学校時代の同級生・横網八重子の思い出話になった。幼なじみいわく、八重子には娘がいて、その娘は、高校二年から徐々に学校に行かなくなり、卒業後、ドーナツがばらまかれた部屋で亡くなっているのが見つかったという。
母が揚げるドーナツが大好物で、性格の明るい人気者だったという少女に何が起きたのか―?

カケラ 湊かなえ2020年5月14日発売 定価:1,500円(本体)+税
ISBN:978-4-08-771716-7

ムービー

著者プロフィール

湊かなえ(みなと かなえ)

1973年広島県生まれ。2007年「聖職者」で第29回小説推理新人賞を受賞、受賞作を収録した『告白』でデビュー。同作で09年本屋大賞を受賞。12年「望郷、海の星」で日本推理作家協会賞短編部門、16年『ユートピア』で山本周五郎賞を受賞。18年『贖罪』がエドガー賞候補となる。その他の著書に『夜行観覧車』『白ゆき姫殺人事件』『母性』『山女日記』『リバース』『未来』『落日』など多数。

インタビュー

[湊かなえインタビュー]

美しくなったら、
本当に幸せに
なれるのか?

インタビューを読む
[青春と読書サイト]

試し読み

田舎町に住む女の子が、大量のドーナツに囲まれて自殺したらしい。

モデルみたいな美少女だとか。

いや、わたしは学校一のデブだったと聞いたけど──。

続きを読む

プロローグ

夜通し生激論 本日のテーマ「校則」

必ず守らなければならないことは、片手で数えられるだけに留めた方がいいのではないでしょうか。

たとえば、「SNS上に誹謗中傷を書き込まない」、「精神的、身体的に他者を傷つける行為をしない」、「他者の学業を妨げる行為をしない」、この三つさえ守っていれば、学校は、今よりは子どもたちが過ごしやすい環境になるんじゃないかと思うんです。

先生たちだって忙しい。

授業に部活動、進路指導に生徒指導……。生徒たちに投げなければならないボールはたくさんある。先生から投げられたボールを生徒たちは受け止め、そのキャッチボールが円滑に進めば、教師と子どもたちのあいだに信頼関係が生まれる。

入学したての頃の生徒たちは誰だって、どんなボールが飛んできてもキャッチしようとがんばるでしょう。だけど、受け止めきれないほど多くのボールが飛んできたら。

全部キャッチすることをあきらめるんじゃないでしょうか。それどころか、ボールそのものに意識を向けることを放棄する。あれはくだらないものなのだ、自分に関係ないものなのだ、と自分に都合のいい解釈をすることになる。

そうして、大切なことまでもが、守られなくなってしまう。

私が必要ないと思っている校則ですか?

今モニターに出ている項目でしたら、「服装・頭髪に関する規定」はいらないんじゃないでしょうか。多様性という言葉が浸透した今でも、かなりの学校がまだこれをやっていますよね。

髪の色、スカートの丈、化粧。これらが学校のルールからはみだしたところで、誰が困るというのでしょう。女子がズボンをはいたっていい。加えて、二重え瞼への矯正。これは、放課後に何時間も費やして怒られなければならないことなのでしょうか。

集団性が損なわれる?

皆が足並み揃えて同じ行動をすることを、まだ良しと考えているんですか? 顔も体型も性格も、学習能力も運動能力も、人それぞれ違うのに。

私よりも現場の先生方の方が詳しいはずですが、不登校になる子どもが皆、イジメを受けるといった酷い目に遭っているわけではありません。たいていの大人が理解できない、些細な違和感で気持ちのやりどころを見失ってしまう子が大勢いるんです。

世間が良しとするもの、学校が良しとするもの。小さな枠にどうにか自分を押し込めようと努力したのに、うまく入りきれないと感じるもの。私はそれが違和感の正体ではないかと思います。

砂の入った袋を想像してみてください。小さな違和感は、その袋についたひっかき傷のようなものなのです。小さな裂け目を必要以上に気にして、自分が触っているうちに、裂け目が広がることもあれば、自分ではそれほど気にしていない、もしくは、気にしないようにしているのに、他者が無遠慮にそこを触り、袋に穴をあけてしまうこともあります。

裂けた袋からは、砂が溢れ出す。この砂とは何か……。

自信です。

自己肯定感です。

誇りです。

尊厳です。

その砂が溢れ出す穴を繕う手助けをするのも、教育者である先生方の役割なのではないでしょうか。そして、私は美容外科医という職業も、そのお手伝いができると信じています。もちろん、私が相手にするのは学生だけではありません。むしろ、全体の割合から見ると、少ない方です。

宣伝をしている? まさか。

私は自分から他者に対して美容整形を促したことは一度もありません。クリニックに来てくださった患者様に対してさえ、こちらから、目をこうしましょう、鼻をこうしましょう、と勧めることはありません。

患者様のご要望を聞き、それに対して何ができるのか、どの施術が最適なのかを検討して、ご提案するのです。

二重瞼にしてほしいとおっしゃる患者様に、鼻を高くする提案はしません。たとえ、そうしたほうがその方は美しくなるのではないかと思ってもです。

それは言ったほうがいい? そうでしょうか。もちろん、患者様のカウンセリングをしていく中で、「とにかく美人になりたいんです。どうしたらいいでしょうか」といった質問を受ければ、目よりも鼻ではないかとアドバイスをします。

だけど、クリニックのドアを叩く人、特に初めての方は、ここをこうしてほしいと目的を明確にすることが多い。

それって、ドアを叩くまでに、悩まれた証拠だとは思いませんか。二重瞼にしたいと考えるまでには、何かしらの理由があるのです。

直接、目のことをからかわれた。目付きが悪いと言われた。教師から注意をされて、ただ見返しただけなのに、「何だ、その目付きは」と怒られたことがある。これでは、この先の進学や就職にも影響を及ぼしかねない。そういったことを、親御さんのほうが心配されて、お子さんを連れて来られるケースもあります。

また、間接的にも、友だちができないのは、目のイメージから冷たい人だと判断されているからかもしれない、と考える人もいれば、好きな人が他の女の子を選んだのは、あの子は二重で自分は一重だからだ、と決めつけている人もいます。

目が原因ではない? 問題はそこではありません。

重要なのは、目が原因だと、本人が思っていることです。その解決策が二重瞼の手術なら、簡単なことではないですか。もちろん、費用はかかります。簡単な手術なら数万円で済みますが、瞼の状態や筋肉のつき方などによっては、数十万円の手術が必要なこともあります。

それをきちんとお伝えし、最終的に返事をされるのは、患者様です。覚悟を決めて返事をした先に、今よりも幸せな毎日が待っていると信じて。

勇気を持って、一歩踏み出す決意をされたのです。

それを、どうして否定するのでしょう。

中には、内申書に響くと教師から脅しのようなことを言われて、元に戻してくださいと泣きながらやってくる子もいました。結局、二重瞼のまま帰りましたが、そのあと不登校になってしまったと聞きます。

そんな校則、必要ですか?

本末転倒。二重瞼にすることによって前向きな気持ちで学校に通えるようになる子がいるのに、校則でそれを禁止するなんておかしいじゃないですか。なぜ、美容と教育を切り離して考えようとするのですか?

どちらも、心の豊かさにつながる行為だというのに。

金をかけてまで、手術をしてまで、ですか。視力が悪ければ、眼科に行きますよね。虫歯になれば、歯医者に。風邪をひけば、内科に。

容姿の悪いことと病気を一緒にするのか。病気で苦しんでいる人に対して失礼にあたるのではないか。これは、とんだ揚げ足をとられてしまいました。まるで、詐欺師のような扱いですね。

皆さん、ここに用意された私のネームプレートをよく見てください。私は、医者です。医学部を卒業し、国家試験に合格し、必要な研修も受け、国から許可を得たクリニックを経営しています。

そのクリニックを訪れる人に、苦しんでいない人などいません。

一人でも多くの人が、自分を愛することができるように。

私はそのお手伝いをしているのだと、自分の職業に誇りを持っています。

第一章 ロック・ジュウヨン

瘦せたいの──。

ついに、デッドラインを超えちゃったから。

瘦せようと思ったのは初めてじゃない。ダイエットも何度かしたことがある。けれど、危機感を覚えたのは今回が初めて。だって、人生マックス、まさか自分がこの体重になるなんて、想像もしていなかった。

そもそも、ダイエットだって、私の人生には無縁だと思ってた。

小学生の頃、意地悪男子に「トリガラ」ってあだ名をつけられてたくらいなのに。そうそう、堀口弦多だよ。「チビ」って言われて逆切れして、なぜか、私が八つ当たりされたの。私は何も言ってないのに。

確か、サノちゃんだよね。

ゴメン、って……。ホント、美人は得だよ。口が悪いのはサノちゃんなのに、みんな怯んで、隣にいる私がとばっちりをくらうんだから。

脅したつもりはない? 知ってる。みんな、睨まれて怯むんじゃなくて、微笑えまれて怯んでたことくらい。今から思えば、そっちの方が怖いよね。笑顔で相手を石化させるなんて、並みのかわいい子じゃ無理だもん。

信号が小学校の前に一つだけあるような田舎のおさななじみとして、物心ついた頃にはサノちゃんが当たり前のように隣にいたから、世の中には三〇人に一人くらいの割合で美人が存在するって思ってたけど、結局、自転車を二〇分こいで中学に通っても、バスに一時間揺られて高校に通っても、飛行機に乗って上京した大学に進学しても、サノちゃん級の美人には出会ってない。

まあ、元ミス・ワールドビューティー日本代表に今更こんなこと言っても仕方ないんだけど。

それに、「トリガラ」なんて、今となっては愛おしい。私のことを嫌いな人が一万個悪口を並べても、絶対に出てこないフレーズなんだから。

まったく、人間の体って不思議だね。みんな、私が瘦せているのはうちが貧乏だからと思ってたかもしれないけど、そういうわけじゃないんだよ。

農業なんて、収入は低いのに体力は膨大に消費するでしょう? ここまで割に合わない仕事って他にある? しかも、たまたまそこの家に生まれたってだけで、子どものあいだはタ ダ働きしなきゃいけないんだから。

ホントにタダ。子どもなんだから一日一〇〇円でももらえたら満足できるのに、一円ももらったことがない。金で動くような人間になるな。うちのばあさんの口癖よ。そうやって、 私の両親にもお金の管理をさせずに、自分一人でため込んじゃってさ。

ということは、農業をしていたからうちは貧乏だったんじゃなくて、単に、家庭内でお金がまわっていなかったってこと?

立派なハラスメントじゃん。何ハラ? ババハラ?

そんなばあさんがお母さんに、三食しっかり作れ、って命令するわけよ。しかも、ばあさんから両親に支給される月に一〇万にも満たないお金で工面しなきゃならないの。米や野菜 は自給自足できても、肉や魚をケチると怒る。品数が少なくても怒る。

だから、食卓にはいつも、皿がのりきらないほどの料理が並んでいた。

当時はカロリー計算なんて概念は持っていなかったけど、振り返ってざっと見積もってみても、毎食、一人二〇〇〇キロカロリー分はあったんじゃないかな。

そんな量を、子どもが全部食べ切れるわけないでしょう? それで残すと、ばあさんに怒られるの。戦時中の話しながら。なのに、自分は残してる。口に合わない、って、お母さんのせいにして。なのに、太ってるの。

今思えば、農家は体力勝負だからとか、戦時中がどうこうとかじゃなく、自分が太ってることがコンプレックスだったんじゃないかな。私が五歳の時に死んだじいさんは、中肉中背 で太ってるとは言い難かったけど、ばあさんは明らかに太ってたでしょ。

そういやサノちゃん、うちに遊びに来た時、ばあさん見て「ブタみたい」って言わなかった? それで、あの晩はいつも以上にネチネチ怒られたんだよ。

ああ、思い出した。あんな失礼な子とは遊んじゃいけないとか、はっきりサノちゃんへの文句を言えばいいのに、私の箸の持ち方がおかしいって言い出して。他にも、トイレのドアを音を立てて閉めるのが耳障りだとか、言葉遣いが悪いだとかケチ付けて、結局、しつけがなってないって、お母さんが責められるの。

あれも全部、嫉妬だよ。

お母さんは年々たくましくなっていたけど、昔はホントに、華奢ではかなげな美人だったんだもん。よく、男は自分の母親に似ている人を好きになるなんて聞くけど、うちのお父さんの場合は真逆。ないものねだりの方。お母さんと結婚する前に彼女がいたのかどうかは知らないけど、好きな女優、みんな細い人ばかり。胸やおしりの大きさより、ウエストの細さを重視って感じ。

そういえば、ばあさんが泣きながら怒ってたことがある。私がまだ幼稚園に入ったばかりの頃だったけど、ばあさんが泣くのなんて初めて見たし、その後も記憶にないくらいだから憶えてる。じいさんがお母さんに服を買ってきたんだった。高級そうでもオシャレでもない普通のセーター。

私はあんたに服なんか買ってもらったことはない。どうせおまえはワシが選んだ服なんか文句ばかり言って着ないだろう。ばあさんとじいさんがそんなやり取りしていて、お母さんが気まずそうにしてたっけ。

ばあさんだって、女だったんだよね。そりゃあ、性別的に女だってことは、子どもの頃からわかっていたよ。だけど、年寄りっていう人種で、オシャレをしたいとか、きれいでいたいとか、ましてや、外見を褒められたいとか、男から愛されたいとか、そういう願望があるなんて考えたこともなかったわけ。

藤色のニット帽を年がら年中かぶっているのも、頭が寒いんだと思っていたけど、自分が気にするようになって初めて、薄毛隠しかなって思うようになった。

えっ、サノちゃんのクリニックでも高齢者の患者が多いの? 美容外科なのに? 意外。年をとっても美しくありたいと願ってる、くらいまでは想像できても、美容整形受けるのは、また別次元の問題じゃん。

何の目的で? 好きな人がいるからとか、結婚したいからとか、人前に出る仕事や趣味を持っているからとか、オーディションがあるからとか、美容整形って、外見で勝負する必要に迫られた人がやるものじゃないの?

シミ取り? なるほど。それでも、サノちゃんのところだと、何十万って費用が必要なんでしょう? まさか、五〇〇〇円じゃできないよね。

やっぱり、何十万もするんじゃない。しかも、予想の倍以上だった。サノちゃん、それって真っ当な価格なの? ヤダよ、サノちゃんが警察に連行されてるところをテレビで見るなんて。ああそう、大丈夫なの。事前に念入りなカウンセリングをして、予算もちゃんと伝えておくわけね。

じゃあ、お客はその金額を受け入れてるわけよね。大金払って、シミを取ったりシワを伸ばしたりして、その先に何があるのかな。払った金額以上のものを得られるからやるんでしょう? 先もそんなに長くないのに。

酷い言い方? サノちゃんほどじゃないよ。でも、サノちゃん、ネコかぶるの上手くなったよね。見たよ、このあいだの、何だっけ? そうそう「夜通し生激論」だ。すごいね、もう芸能人じゃん。

──二重瞼にすることによって前向きな気持ちで学校に通えるようになる子がいるのに、校則でそれを禁止するなんておかしいじゃないですか。なぜ、美容と教育を切り離して考えようとするのですか? どちらも、心の豊かさにつながる行為だというのに。

似てたでしょう? 今の言い方。訛りもまったくないし、サノちゃんのこと勝手に東京出身って思ってる人多そうだよね。

まあ、検索すれば一発でわかるし、経歴を隠さないところが、サノちゃんのカッコ良さだとも思うんだけどさ。いろいろ合併があって、けっこうな田舎でも市になってるのに、我らが故郷はいまだに郡だもんね。大字とか、あれ、書かなきゃいけないのかな。宅配便の伝票、住所欄、スペース足りないよね。

ていうか、めちゃくちゃ脱線しちゃった。ダイエットだよ。

私も高齢者のことをとやかく言える立場じゃないんだけどね。旦那も子どももいるし、在宅の仕事で、異性との新しい出会いなんてまったくないし。宅配便の人も写真集に載るような感じじゃないし。あれ、本当に業者の人たちなのかな。

旦那? 結婚当時から二〇キロ以上太ったのに、直接、文句を言われたことはない。もともと、二次元にしか興味がない人だからね。私が五〇キロ超えした時に、ヤバいヤバいって大騒ぎしていても、何が? の一言だけ。

四二キロから五〇キロだよ。あいだに出産があって、一時的に五〇キロ超えしたことはあったけど、出会った頃と八キロも違えば、普通は気付くだろうし、ダイエットの応援だってしてくれそうじゃない。なのに、頑張って二、三キロ瘦せても、変わったっけ? なんて首をひねられたら、こっちもバカらしくなってしまうでしょう?

一気に、五五キロ突破よ。

子ども? 何も言わない。娘。今、中一だけど、私に似てガリガリ。あっ、昔のね。ご飯はものすごく食べる。夕飯前に菓子パン、チョコクロワッサンが五個入ったファミリーパックみたいなのを、一人で全部平らげるの。そんなに食べると夕飯が入らないでしょ、って文句言ってやろうと思ったら、夕飯もペロリよ。ついでに、ご飯おかわり、だって。そのうえ、一時間も経たないうちに、ポテトチップスとか食べてるの。一袋全部。

部活はバドミントン部。本人は、未経験者が想像するより何倍もハードなスポーツだって言うし、オリンピックとか見てるとそうかもしれないって思うけど、それでも、毎食ご飯一合ずつ食べる?

まあ、料理はきらいじゃないけどね。それに、作ったものをテーブルに並べると、自分も同じくらい食べてたような気がするし……、そうだよ、その話の途中だったんだ。

瘦せの大食い。初めてそう言われたのって、いつだったっけ。残すと怒られるから仕方なく食べているうちに、体も慣れてくるというか、受け入れ態勢ができてくるんだろうね。割と早い段階で、それほどつらいって思わずに完食できるようになった。

しかも、体型は変わらない。ガリガリのまま。

私、二つ下に妹がいるでしょう? そうそう、希恵。そうだ、サノちゃん、希恵にも「子ブタみたい」って言って泣かせたことがあったよね。さすがにあの時は、ばあさんじゃなくてお母さんが、そんな言い方しちゃダメよ、とかサノちゃんに注意したっけ。

憶えてる、悪気はなかったんでしょう? サノちゃんはおばあちゃんが誕生日に買ってくれた『三匹のこぶた』の絵本が大好きで、その中に出てくる末っ子の一番かわいい子ブタの絵に希恵が似ているから褒めたんだ、って言い訳してたよね。ポロポロと涙なんか流しちゃって。お母さんも、いいのよ、なんてあわててたけど、あの泣き方はズルいよ。

何で、涙をちょっとずつ流すことができるの? しかも、鼻水は出ないし、しゃくりあげたり喉を詰まらせたりもしないから、泣いてるのに普通にしゃべれてるよね。そうよ、このあいだ出ていた「夕方タイムズ」の視聴者投稿のコーナーで、散歩中の犬がケガをした子猫を見つけて、ぺろぺろなめて介抱してあげてたじゃない、あの時の泣き方だよ。

自分もいつかはできるようになるだろうって思ってたけど、中学生になっても、二十歳過ぎても、結局できないまま四〇歳になっちゃった。

サノちゃんが噓泣きしてるとは思ってないよ。

社会人になりたての頃とか、ちょっと注意されただけですぐに涙が出てきた。でも、何でもかんでも泣けてくるわけじゃない。子どもや動物が頑張る番組見てもぜんぜん感動できなかったし、スタジオゲストが泣いているのを見ても、わざとくらいにしか思ってなかった。

だけど、結婚してしばらく経った頃にハッと気付いたの。私、前回泣いたのいつだっけって。ものすごく記憶を遡らせないといけないくらい、泣かなくなっていた。図太くなるんだろうね。旦那や義父母に怒られようが、嫌味を言われようが、耳の奥まで入ってこない。言葉がわからない国のラジオを聴いているみたいに流すことができるようになってた。

それはそれで複雑な心境で、この先の人生、もっとパサパサになっていくんだろうなって、虚しくなったりもしたんだけど、子どもができてからは、以前よりも、涙腺がゆるくなった。自分のことじゃ泣かないの。でも、子どもの一生懸命な姿を見ていると、気付いたら涙が流れてる。

幼稚園の運動会やお遊戯会なんて、我が子が走ったり歌ったりしているだけで、涙腺崩壊よ。別に、大きな病気を乗り越えたとか苦労した経験がなくても、感動できるものなのね。でも、そういうのも小学校の低学年までかな。子どもにいろいろ期待するようになってしまうと、泣けなくなっちゃうよね。

いよいよ今度こそ、パサパサ期の到来かって思うでしょ。ところがどっこい、四〇歳が見えてきた辺りから、昔は何とも感じなかった動物や余所の子どもを見て、鼻の奥がムズムズしてくるじゃない。生まれたての子牛が立ち上がるシーンとか、ティッシュなしには見られない。

何なのこれ。どういう仕組み? 私の脳にどんな変化が起きたってわけ?

専門分野が違う? だよね、サノちゃんは美容外科医だもんね。皮膚科になるの? そう、だから、ダイエットの話よ。ゴメンね、脱線しまくりで。

どこまで話してたっけ、そうだ、希恵の話ね。

姉妹でこんなに体格差があるものかって、珍しがられてたよね。学年一のガリガリの姉とぽっちゃりの妹。希恵は甘やかされて、お菓子ばかり食べているんだろう、って言われたこともある。そうだ、自転車屋のおじさんだった。希恵の自転車の補助輪を外してもらいに二人で行った時だ。

希恵はあがり症なのか、それだけで顔を真っ赤にしてベソかき始めて、おじさんも気まずそうにしていたっけ。おじさんはぽっちゃりした子の方が好きだぞ、なんてフォローもしてくれたけど、大型バイクを乗りこなす若いスレンダーな奥さんがサイダー入れてきてくれたんだから、説得力に欠けるよね。

私も訂正しなかった。面倒なんだもん。

希恵がばあさんに可愛がられているのは事実だけど、たくさん食べているのは私の方だって。希恵はご飯を残しても怒られなかった。顔も、ばあさんに似ていたから、完全にえこひいき。希恵が近所の男の子たちにからかわれて家で泣いていたら、女の子は丸い方が美人だしモテるんだ、なんて慰めてた。

それだけならいいけど、見せしめみたいに私に文句を言うの。おまえが貧相なせいで、うちが誤解されてしまう、恥ずかしい、なんて。じゃあ、どうしろって話でしょ。悔しくて、家族に隠れてしょっちゅう泣いてた。

瘦せてることを怒られてたのって、世の中広しといえども、私くらいじゃないかな。

今ほどではないかもしれないけど、当時もダイエットブームはあって、グレープフルーツダイエットとかテレビで取り上げられていたのに。そういうのを見ても、バカバカしい、なんて憎々しげに言いながら、ばあさんは私に、太れ太れ、って言ってきた。ダイエットして瘦せてたわけじゃないのに。

でもね、どんなに怒られても、嫌味を言われても、太りたいとは思わなかったな。

だって、見ればわかる。明らかに美しくないもん。そりゃあ、監禁されて家の中しか知らない生活を送っていたら、太っている方がきれいって思えるのかもしれない。そういう国だってある。だけど、あの町は田舎といえども日本で、どんなに家の中で洗脳されかけても、一歩外に出たら、おかしいってことが一目瞭然じゃない。

それに、怒るのはばあさんだけだけど、うらやましがってくれる子はいっぱいいた。

小六の時に、鼓笛隊をやるのに学校で衣装を借りたじゃない。女子用にSが五着、Mが一〇着、Lが五着あって、最初に私にSサイズが配られるの。あとはみんな、SだMだ、私の方が細いもん、とか揉めながらわけるのに。しかも、そのSでさえウエストがユルユルで、お母さんにホックの位置をつけかえてもらわないといけなかった。そのスカートを試してみたがる子がいるんだけど、誰もホックを留めることはできなかった。

サノちゃんもだったよね。

いいなあ、って言われた。ちゃんと食べてる? とも訊かれた。食べてるよ、って答えて、疑う子はいなかった。私、給食も残したことがなかったから。給食はばあさんにみつかる心配もないんだけど、何だろ、こっちはお母さんの影響かな。

お母さん、私が小学校の高学年になった頃から、ボランティアグループに入ったの。世界の恵まれない子のために募金活動をする、みたいな。

あの集会って、サノちゃんの家でやってたよね。ペーパーフラワーっていうのかな、伸縮性のある紙でバラを作って小さいブーケにして、募金してくれた人に渡すの。

うちのお母さん、手先が器用だし、没頭しやすいタイプだから家でもよく作っていて、時々、私も手伝わされた。花びらは難しいから、茎にするワイヤーに緑色の紙テープを巻くの。束ねたらどうせ見えないのに、太いところや細いところができないように均等に巻けって、珍しく、ばあさん並みに口うるさく言われて、疲れたな、ってポツンとつぶやいちゃったわけ。

そうしたら、アレが出てきたのよ。新聞の切り抜きが。

普段読んでいるようなのじゃなくて、そこの団体が発行していたものじゃないかな。視察レポートみたいな。記事の内容は詳しく憶えてない。お母さんからも読めとは言われなかった。その代わりに、目の前五センチくらいのところに、写真を突きつけられた。

飢餓に苦しむ子どもがふんどしみたいな下着姿で立ってるの。カンボジアだったかな。五歳くらい、いや、実際どうなんだろ、まあ、見た目それくらいの男の子なんだけど、全身、骨と皮しかなくて、あばら骨が一本ずつわかるくらいに浮いていた。私だって瘦せていたけど、まったく比べものにもならなかった。なのに、お腹だけぽっこり出ていて。

水しか飲んでいないとそうなるんだって、お母さんが言ってた。世の中にはこんなに苦しんでいる子がいっぱいいるんだって。ばあさんの戦争の話もきつかったけど、私って耳から入ってくることはすぐに流せるみたい。嫌味を言われ続けたおかげ、とは思いたくないけどね。

でも、目からの情報はダメ。頭の中に焼き付いちゃって。その時だけでも相当応えたのに、 お母さん、どうしたと思う? その写真を切り抜いて厚紙に張り付けて、私の部屋の壁に貼ったのよ。当時好きだったサンダーボーイズのポスターの横に。

部屋のドアには鍵がついていなかったし、おまけに、布団を屋根に干すには私の部屋の窓から出すのがベストだったから、私がいない時でも普通に出入りしていたし、個室とは名ばかりの状態だったから、こっそり剝がすこともできやしない。

家族の中でお母さんが一番好きだから悪口を言いたくないし、ましてや毒親だったなんて思いたくもないけど、あの切り抜きに関してはハラスメント認定されてもいいんじゃないかと思う。何ハラになるんだろ。

サノちゃんは見せられたことない? バラを作ってたことも知らないの? 家大きいもんね。そういや、離れがあって、そこに集まっているって聞いたことがある。

ウェッジウッドのイチゴの模様のティーセットがあって、フォートナム&メイソンの紅茶をポットで淹れてくれるんだって、どこかの景品のマグカップにティーバッグ入れて、やかんのお湯を注ぎながら教えてくれた。お菓子もいつも手作りで、バラの模様の紙ナプキンに包んだクッキーを持って帰ってきてくれたこともあるな。レーズンクッキー、おいしかったよ。

サノちゃん、レーズン嫌いなの? そんなことうちのお母さんに言ったら、写真の前に連れて行かれて説教だよ。えっ、うちのお母さんもレーズンが嫌いだった? なんでサノちゃんが知ってるの? サノちゃんのお母さんが言ってたの? だから、持って帰ってきたんだ。

どうしてあの時気付かなかったんだろう。スコーンとかマドレーヌとか、話にしか聞いたことのないおやつがほとんどだったのに。

レーズン、嫌いじゃないからいいけど。幸か不幸か、私には食べられないものがないんだよ。希恵にはいっぱいあるのに。そういえば、それであの子がお母さんに説教されているところも見たことがないな。

まあ、長女ってそんなもんだよね。そうか、サノちゃんはお姉さん二人いるんだっけ。そりゃあ、平気で暴言吐けるような性格にもなるわ。

ディスってないよ、うらやましいだけ。

とにかく、食べて食べて食べまくって、私は瘦せ人生を歩んできたわけよ。

中学生になったら、そこまで太ってないのに、ダイエットするって小さいタッパーに果物だけ入れてくる子がいたでしょう? さくらんぼの種をいつまでも舐めながら、そんなに食べてよく太らないね、ってうらめしそうに私の二段式の弁当箱見てるの。

瘦せてるって言われるのには慣れていたけど、日ごとに視線が強くなっていくのを感じると、ばあさんとは別の意味で責められてる気がして、昼休みが憂鬱になる時期があったな。

実際、悩んでもいたんだよ。中学って、女子の部活、テニスとバレーと陸上とギターの四つだったじゃない。サノちゃんはテニス部だったよね。お蝶夫人ってあだ名されていたでしょう。きっと、私たちくらいがそのあだ名をつける最後の世代だろうね。

このあいだ、三つ年下のママ友が、たかだかランチ会なのに気合いの入った縦ロールにしてきたから、お蝶夫人かよ、って突っ込んだら、誰それ? ってキョトン顔。マダム・バタフライですか? って、こっちが、誰それ? になっちゃった。私たちだって夕方の再放送だから、年齢差じゃなくて地域差かもしれないんだけど。

と、まあ、ジェネレーションギャップについてはおいといて、部活よ。球技と楽器が苦手って理由で、たいして運動神経よくないのに、私、陸上部に入ったでしょう? サノちゃん、びっくりしてたよね。鈍足なのに、って。いつもみたいに笑いながら、カメなのに、くらいにしてくれたらいいのに、真顔で鈍足は傷ついたな。

でも、身軽な分、ジャンプ力はあるんじゃないかって、走り幅跳びに立候補した。なのに、顧問の先生から、長距離にしろ、って言われて大パニックよ。走るの? 鈍足なのに? しかも長距離なんて、あっというまにみんなから周回遅れになっちゃうじゃん。

そう思ってたのに、いざトラックを走ってみたら、そんなに差が開かないの。それどころか、周回を重ねるごとに前の子との距離が縮まっていって、どんどん追い越していって、何が起きているのか自分でもよく把握できなかった。ただ、一人ずつ追い越す時に、他の子の息はものすごく上がっているのに、私はそうでもないことに気が付いた。

走っても走っても、まったくしんどくならないの。だから、五〇メートル走と同じ速さで一〇〇〇メートル走ることができる。持久力よ。身に付く前に排出されてると思ってた食べ 物たちが、エネルギーだけはしっかり残してくれてたってこと。

思いがけない、ギフトだよ。

でも、問題もあった。練習をすればするほどタイムも上がるから、先生も気合いが入るじゃない。そうしたら、体重がどんどん減っていくの。大会二週間前の強化練習中なんか一日一キロずつ減っていった。

体調的には問題なかったんだけど、見た目で先生がヤバいと思ったみたい。三五キロになった時点で練習打ち切り。だからって、食事を増やしてもすぐに太れるわけじゃない。結果、三八キロを下回らないように練習の方を調整しなけりゃならなくなった。

初めて、太れない自分に腹が立った。

なのに、なのによ。もう、サノちゃん、何の話だっけじゃないよ。ほんの三分ほど前のことを忘れないでよ。昼、休、み。

なんでそんなに瘦せてるの? って責めるような口調で言われたけど、体質かな、って笑いながら答えたのに、どう返ってきたと思う?

──その答えが一番残酷、努力とか関係ないってことでしょう?

なんて顎突き出して睨まれるんだから、こっちも腹が立つってもんでしょう。だから、言ってやった。

──私はむしろ太りたいの。種舐めてるヒマがあったら、腹筋でもすりゃいいじゃん。

お互い反抗期だね。確か、サノちゃん、クラス別々だったよね。中学から、祝、二クラスだもん。私は憧れのB組。担任の先生憶えてる? くだらない口げんかなのに、わざわざ先生を呼びに行った子がいて、何をもめているのか訊かれても、ダイエットのことでとは、私も相手も言えなかった。

それが一番必要な人は目の前の先生なんだから。授業中に、男子にもよくからかわれてた。先生が大きくて黒板の字が見えません、って。陽気な先生だったから笑いながらの、コラ、で済んだけど、今から思えば、先生あの頃は二〇代後半だったよね。案外、傷ついてたんじゃないかな。

いや、そうでもないか。私たちが卒業した年にサノちゃんの担任だった先生と結婚したもんね。休日には二人でケーキバイキングめぐりをしています! って感じのお似合いなカップルだった。太っていることがハンデにならない人だっているってことか。

まあ、太った瘦せたを普通に話せる環境って、健全だよね。サノちゃんのクラスじゃ無理だったはずだから。

ところでサノちゃん、そろそろ真剣に体のことを相談したいんだけど、若い頃の体力って何歳くらいまで蓄積できるものなの。順序立てて人生を振り返ってみると、私、学生の頃にけっこう運動しているよね。人一倍って言ってもいいくらい。

高校も陸上部入って、中学よりさらにハードな練習していたし、そうそう、高校の時の顧問の先生は私が瘦せていくことをあまり問題視しなかったの。先生もガリガリだったから。健康なのに、瘦せているっていうだけで心配される方が迷惑だって、ようやく同志にめぐりあえた気分だった。

身長一五五センチで、また三五キロまで落ちたけど、そこが底だったみたい。ダジャレじゃないよ。普通にトレーニングしてたら、だいたい四〇キロ前後で落ち着くようになった。

サノちゃんは高校の部活、何だっけ? 天体観測部、なんてあったんだ。それよりは、勉強部だよね。サノちゃん、中学生の頃は女優になりたいって言ってたし、サノちゃんなら絶対に叶うだろうってみんなでサインもらったりしてたのに、高一の夏休み明けに、急に医学部目指すなんて宣言したんだから、びっくりだよ。

無理でしょ、って思ったもん。いくら、地元では進学校って呼ばれてる高校でも、田舎の公立だし、過去の進学実績を見ても、医学部に合格した人なんて五年前まで遡らなきゃいないくらいだったし、その人は三歳の時から地域の人たちに神童って呼ばれてた宇宙人的な天才だったし、その人の親も東京出身の医者で、たまたま地域医療促進のためにあの町に来ていただけだったじゃん。

そりゃあ、サノちゃんだって成績は常に一〇位以内に入ってはいたけど、さすがに、医学部は難しいんじゃないかなってみんなで噂してたのに、すごいよね。ホント、顔だけじゃなく、頭の良さも、というか、あの町にサノちゃんが生まれ育ったことが奇跡だよ。

いけない、また脱線、でもないか。サノちゃんの真剣モードが学年全体に浸透したおかげで、のんびり高校にもかかわらず、みんなが勉強に打ち込むことができた。何というか、勉強を頑張る、なんて口にするのが恥ずかしい歳なのに、挨拶みたいにするっと言える環境になってた。

それって、大事なことだと思う。決意表明して自分を追い込まなきゃ努力できないことってあるじゃない。

ダイエット宣言もまさにそれ。

おかげで、私もサノちゃんと同じように、東京の大学に進学することができた。偏差値は全然違うけどね。私にとっては実力以上の結果を得られたと思ってる。あと、サノちゃんに感謝してる。本当に家を離れたかったから。

もっと食べろも子どものうちなら仕方ない。歯を磨けと同レベルと捉えることもできる。でも、ばあさんはずっと言い続けていたからね。陸上の大会で賞状もらって帰ってきても、こんな紙切れのためにガリガリになるまで走ってるのか、なんて。走るより、瘦せてる方が先ってことまで忘れてるんだから。

やっと自由になれて、選んだ部活は山岳部。あの町にない景色を見てみたかったからというのと、体力的な心配はなさそうだったから。食べろという人も、食べ物を粗末にするなと写真の前で説教をする人もいない。自分が食べたい時に、食べたいものを、食べたい量だけ食べていい。夢のような生活を手に入れることができた。

その結果、多分、家にいた時より食べていたと思う。基本、山岳部は大食いの人が多かったし、私みたいに食べても太らないっていう人もたくさんいた。でも、そういう人たちに驚かれるくらい食べていた。特に山では、荷物の半分がおやつだった。

ううん、ナッツやドライフルーツといった体に良さそうな行動食じゃない。もちろん、そういうのも入れてたけど、チョコとかポテトチップスとか、ジャンクなものがほとんど。袋のインスタントラーメンも好きだったな。袋の上から麵を砕いて、スープの粉末かけるの。

休みになるたびに山に入っていたから、瘦せてるなりに筋肉もしっかりついた。普段の体重は四〇キロで、山を下りた直後は四二キロになってた。一度、四四キロになっていて、山の麓の公衆浴場の脱衣場に響き渡るくらい声を上げたことがある。

太ったじゃん、私、って。

ただ、人生において体を動かしていたのはここまで。学生部で印刷会社の求人票見て、ここならのんびりしていて、休日には山にも行けそうだなって試験を受けたのに、そんなヒマまったくないの。それどころか、動くのは通勤と昼休みくらい。あとはずっと、パソコンの前に座りっぱなし。

取扱説明書を作ってた。メーカーが作るものだと思ってたでしょ。私も驚いた。

サノちゃんちのテレビ、何? キングダム? やっぱり、日本を代表するテレビのブランドだもんね。その歴代の取扱説明書を、私が作ってたって知らなかったでしょ。他にも、タイヨー電気製品のトリセツはほとんどうちが対応しているから、家庭用美容器具にも少し詳しかったりするんだ。

でも、マッサージ器の説明書を読めば全身がほぐれるわけじゃないでしょう。一日中同じ体勢でパソコンの前に座っていると、スマホ首なんて言葉を聞く一〇年以上前からその状態よ。首も肩もガチガチ、太ももは血流留めるダム状態。コーヒーを淹れようと立ち上がると、動かした部分の関節がミシミシ鳴るの。ポキポキじゃなくてミシミシ。

地中に埋もれていたロボットが動き出す、みたいな。変なたとえだよね。旦那と子どもがアニメ好きで、暇さえあればそういう番組見ているの。地中からロボットは、だいたい一話か、最終回の一話前。ああ、ゴメンね。

手しか動かさないのに、とにかく疲れて、甘い物が欲しくて、チョコレートやクッキーでエネルギー補給してたから、デスクの一番大きい引き出しはお菓子箱状態。周りも同じような作業をしていて、男女問わずみんなガチガチのバキバキだったから、よくお菓子を分けてあげていた。

そうしたら、だんだんみんなも自分でお菓子を買ってくるようになるわけ。春限定のイチゴ味が出ていたとか、デパートで有名なパティシエのフェアをやっていたとか、それぞれ個性出しながら。で、それらを私のデスクの引き出しに入れるのよ。

いやいや、給湯室の戸棚じゃないんだから各自で持っておきましょうよって、やんわり抗議したら、何て返ってきたと思う?

──自分で持っていたら太るじゃない。

意味わかんないって顔したら、結城さんと同じタイミングで食べていたら、その体型は無理としても、今の状態を維持できそうにないって。

要はこれまでと同じこと。周りは私のことを、大食いなのに太らない人、って見てた。社会人になってからの体重は四二キロをキープしていたから。これってね、学生時代に鍛えてたおかげだと思うんだよね。筋肉貯金? 代謝力の方かな。

そんな、入社一、二年の話じゃない。

五年目に、制服のデザインが変わってから買ったスカートのホックも、自分でつけかえて詰めてた。

一度、通勤中に変なチカンにあったことがあって。夏場にね、普通は胸やおしりを触られるもんでしょう? なのに、腰をつかまれたの。ほら、両手の親指と他四本を広げて腰骨の上に置く、サノちゃんお得意のあのポーズよ。びっくりしたけどほんの数秒だったから無視しておいた。そもそも、これってチカンになるの? って思ったし。

そうしたら、翌日よ。今度は腰に手じゃなくて、ヒモみたいなものを巻き付けられた感触があった。何だと思う? ハズレ、ベルトじゃない。正解は巻尺。びっくりを通り越して、呆然よ。

いっそ、何センチか教えてほしかった。男って、女はみんな自分のスリーサイズ知ってるもんだと思い込んでない? それで、酒の席で墓穴掘ってる上司って……、サノちゃんの周りにはいなそうだけどね。

とにかく、私は自分のスリーサイズを知らなかった。バストはデパートの下着売り場で一度採寸してもらったことがあるけど、ウエストやヒップは七号とかSとか、サイズ表示を基準にしていたし、ジーンズはガバガバのウエスト五八センチをベルトで締めてた。

でも、調べるのは難しいことじゃない。むしろ、どうして今まで自分で測らなかったのかって疑問に思ったくらい。家に裁縫道具もあるのに。そうだよ、小学校の時に学校で注文したあれ。ケースの模様、私はネコにしたけど、サノちゃんは? イヌか。マルチーズだったよね。そうそう、ネコも白いペルシャ猫。その中に入っている、オレンジ色の巻尺を自分の腰に巻き付けたわけよ。

五一センチ。

見る人が見れば、何か食べさせてあげたいと思うよね。旦那もその一人。同じ会社の人は私が大食いなことを知っているけど、たまに訪れる取引先の人は知らないでしょう? 旦那は出版社で働いていて、偶然ロビーですれ違ったんだけど、いきなり、肉を食いに行きましょう、って。

ナンパといえばナンパだけど、いきなり肉。しかも、焼き肉。おまけに、ホルモン系の煙もくもくあがっています、みたいな。おいしかったんだけど。いや、ホント。

油と塩には中毒性があるんでしょう? ポテトチップスがやめられない的な。そこのホルモンの脂もおいしくて、いいお肉の脂って甘いんだなんて感動して、おまけに、タレもあるんだけど、その店のウリは塩なの。あらかじめ肉におろしにんにくをしみ込ませておいて、それを焼いて塩で食べるのよ。パキスタンの岩塩だって。

七輪の煙がしみたせいもあるんだけど、世の中にこんなおいしいものがあるのかって涙が出ちゃった。そうしたら、毎日でも食べさせてあげるって言うんだから、そりゃ、結婚するよね。

ドレスきれいだった? あれ、旦那が選んだんだけど、買い取りだからまだ家にある。圧縮袋に入れてるけど場所とっちゃって。このあいだ久々にあけてみたら、絵を描く前のこいのぼりみたいだなって。写真じゃ正面だからわかりにくいけど、裾の襞がカッコいいんだよ。

サノちゃんに結婚式で直接見てほしかったな。招待状も送ったのに、ちょうどアフリカに行ってたんだよね。そういえば、普通に旅行って思ってたけど、ボランティア活動していたんでしょう? ミス・ワールドビューティーの時のプロフィールで初めて知ったよ。私、いいことやってます、っていちいちアピールしないのがサノちゃんのいいところだよね。井戸とか掘ってたの?

僻地の集落に、粉ミルクを届けていた……。

聞いてる、ちゃんと聞いてるよ。いろんなことが繫がって、一瞬、フリーズしただけ。子どもの写真の話、忘れて。サノちゃんは飢餓に苦しむ人たちに直接、何人も会ってるのにさ、それがトラウマみたいなこと言っちゃって、私、人として終わってるよね。

そういう人にダイエットの相談するのも恥ずかしいよ。サノちゃんて、いつもどんな気分で患者と向き合ってるの? 病気でもなく、単に、自分をコントロールできずにぶくぶく太った人が、瘦せたいんです、とか言ってるのを、しょっちゅう聞かされているんでしょう? しかも、筋トレでもない、食事制限でもない、脂肪吸引なんて、努力を放棄したダメ人間の選択じゃない。

自覚はしているんだよ。堕ちるとこまで堕ちちゃったなって。

ここに来ることは、旦那にも子どもにも、誰にも言ってない。ダンベルやゴムチューブやダイエット本は平気で家族の目に付くところに置いておけるし、サプリメントも隠れて飲んだことなんて一度もないのに。

多分、サノちゃんが美容外科医じゃなかったら、脂肪吸引なんてあきらめていたと思う。なのに、地下鉄降りてここに向かっていたら、今度はサノちゃんのクリニックを選んだことを後悔した。

ウインドウに、しかも高級ブランドの細いドレスの前に、自分の姿が映っているのを見ておののいた。誰、これ? って。鏡を避けていたわけじゃない。だけど、全身が映る鏡の前にしっかり立つことはなかった。自分の姿を横向きに見ることも。

正面と横と、ウエストの幅がいっしょ。樽みたい。恥ずかしさが込み上げてきた。まったく縁のない医者を選んだ方がよかったんじゃないか。どうして、過去の私を知っている人のところに、わざわざこんな姿を見せに行ってるんだろうって。

軽蔑されるだけじゃん……。

私だってすぐに脂肪吸引を選んだわけじゃないよ。

出産を機に会社を辞めて、しばらく経ってから自宅でパソコン入力の仕事をするようになった。手書きの小説原稿を打ち込んだり、いろんな媒体に掲載されたエッセイを一冊にまとめたり。私、キーボード打つのメチャクチャ速いから。

でもね、座り仕事のうえに、今度は通勤もなしでしょう。太っていってる自覚はあった。九号やMサイズの服を少しきつく感じてあせったこともある。

だから、糖質制限もしたし、ウォーキングもした。あと、ダンベルやゴムチューブを使った筋トレも。これまでは、そのメニューをこなしていたら、一週間ですぐに三キロくらい瘦せたから、太るようにはなったけど、簡単に瘦せられる体質のままだと思ってた。

瘦せても褒められないし、年相応の体型だろうし、誰かに何か言われたらダイエットすればいいやって。体重計も壊れちゃったけど、いらないかなって。

だけど、近頃、子どもが体重を気にするようになって、家族で買いに行ったの。安いのでいいのに、旦那が、体脂肪率や筋肉量が出るのにしようって言い出して。自分のスペックは知っておいた方がいいとかなんとか。まあ、私も体内年齢って項目は興味あるなって思ったの。

そうしたら……、眩暈をおこしそうになった。

何この数字、身長や年齢を旦那が入力してたけど、設定ミスじゃないの? 壊れてない? って。微妙に床が傾いていて水平になってないのかも、なんて置き場を変えて乗ってみたり。

でも、何度試しても出る数字は同じ。おまけに旦那や子どもは、職場や学校の身体測定の時と同じだって、正確性に太鼓判押すようなこと言ってるし。

とにかく、一キロでも減らさなきゃいけない。そう思って、まずはそれまでのダイエットと同じメニューをやったの。

だけど、一週間経っても、五〇〇グラムも減らない。そりゃあ、日によって二〇〇グラムくらいの差はあったけど、ジャスト一週間後は始める前とまったく同じ体重だった。

これが四〇歳かって、少し年上のママ友たちが言ってたことを実感した。視力がガクッと落ちるとか、すぐに疲れるとか、食事制限をしても運動をしても体重が落ちないのに、食べた分だけすぐ太るとか。

だから、メニューも強化することにした。糖質制限じゃなくて糖質断ち、ウォーキングじゃなくてジョギング、筋トレにもスクワットを取り入れることにした。

初日に三キロ、すぐに息が上がって、吐きそうになりながらもどうにか走って、翌日、全身筋肉痛。自分の体力の低下に驚いた。だけど、太ったことにも瘦せないことにも納得できた。体力貯金なんかとっくに底をついていたんだなとか、ウォーキングなんて運動しているうちに入らなかったんだなって。

だけどねサノちゃん、恐ろしいのは「理由がわからない」こと。怪奇現象だってそうでしょ。夜中に水音が聞こえてきたら怖いけど、水道管のネジがゆるんでいたことがわかると怖くない。理由がわかれば、対策も立てられる。問題を解決することができるんだから。

三日目には筋肉痛も引いて、また走り始めた。もう筋肉痛にはならなくて、五日目には息も上がらなくなったから、距離も五キロに延ばした。七日目の計測では一キロ減っていて、とび上がって喜んだ。

次の一週間同じメニューをこなして、何キロになったと思う? 一キロ増えて、プラマイゼロ。こんなことってある? 瘦せるつもりが、動けるデブになっただけ。

食べても食べても太らない体が、食事制限をして走っても瘦せない体になってしまうとか。同じ人間の体質がたった四〇年の間にここまで変わるものなの? おかしいでしょう?

これはねえ、呪いだよ。

今になって、仕返しされてるんだなって思う。

誰にって──、私たちの田舎の同級生「ロクヨン部屋」のヨコヅナ、横網八重子に決まってるじゃん。

(続きは本書でお楽しみください。)

カケラ 湊かなえ

2020年5月14日発売
定価:本体1,500円+税
ISBN:978-4-08-771716-7

購入する