この人は、いつから、どうして、こんなふうになったんだろう。人の顔や行いを見ながら、人って変わるんだなと思うときがある。そんな私も、以前の私を振り返ると、今の私とは別人のように思える。今の私は、昔の私より良いのか、悪いのか? その判断は、私を見る人によって違ってくるのだと思う。 〈人生が破壊されることと、死ぬことと、どんな違いがあるのだろう〉
本作は、大事な人をなくした人々が登場する長編小説である。仕掛けに意匠が凝らされて評判になった『N』(二〇二一年)に続くシリーズ第二弾にあたり、『N』と同様に、章ごとに上下が反転する状態で印刷され、巻の冒頭に著者からのメッセージが記されている。 〈本作は二つの章から成る物語です。 読む順番は自由ですが、その選択により、結末は大きく変わります。 どちらかの順番で読むと、二人の主人公を含め、多くの人が命を失います。 別の順番で読むと、彼ら(彼女たち)は生き残ります。 殺すか、救うか。 あなたの選択が、人の生死を決定します。 後戻りはできません。 著者〉 次のページには、〈どちらの順番で読むか、ここで決めていただきます。〉とある。つまり、読む順番によって結末が変わり、殺すか、救うか、は読者の選択による。章は「ペトリコール」「ゲオスミン」の二つで、ペトリコール→ゲオスミン、ゲオスミン→ペトリコールのどちらの順番で読んでもいい。
二つの章の舞台は、日本の北のほうに位置する「砂ノ町」という海沿いの街である。いずれも年一回の秋祭りが開かれる十月の出来事が、「私」の一人称で語られる。ペトリコールは十代、ゲオスミンは五十代の「私」が語り手で、大事な人を失い人生を破壊され、喪失と哀しみを抱いて彷徨っている。〈誰が悪かったのか。 何が悪かったのか〉。街のそばには「小梨島」という無人島がある。明治三陸地震で隆起した場所に砂が集まり、波打ち際から島までが砂の細道で結ばれて、街から歩いて行ける。
前作の『N』は、『光媒の花』(二〇一〇年)、『鏡の花』(二〇一三年)に続く『花』シリーズの八年ぶりの新刊として刊行され、その『N』を新たな起点として、本作が生まれた。『花』シリーズは、それぞれ独立した六つの章を読み通すと、仕掛けが集成され、連作群像劇の全体像が立ち上がる趣向を特徴にしていた。章が二つになった本作には、『花』シリーズから受け継ぐようにして、雨、海、光といった自然界の森羅万象のモチーフがある。また、『N』で触れられていた「名前」も要素になっている。たとえば「夕歌」は、〈夕方は、昼と夜の二つの世界が切り替わる。いつか世界がどんなふうに変わっても、歌でも口ずさみながらそれを乗り越えていってほしい―そんな願いを込めてこの名前を考えたと、お母さんは言っていた〉。「ペトリコール」は、雨が降りはじめたときの特有のにおい、「ゲオスミン」は、雨がやんだときのにおいの名前という。
昼と夜、雨が降る・やむ、二人の主人公、終わりとはじまり(はじまりと終わり)。「対比」がいくつもある本作は章も二つで、それぞれ独立して様子が大きく違いながら、昼と夜のようにその実はつながっていて、切り替わる境目はあいまいだ。一人に視点を固定してその内面に踏み込む「私」の一人称を採用しているのもポイントで、どちらから読んでも、読者は瞠目するだろう。私は「先入観」に気づかされ、ああ、こちらが好きなのに、こちらから読んだから! と頭を抱えた。それならば。いつしか覚えていた歌のように、はじまりがあいまいになるくらい読むといいのだと思う。それにしても、「私」を語り手にした二章が群像劇となる技巧には舌を巻いた。
十代の人物が登場する本作は、青春小説の趣もある。人としてどうなんだろうと思う、いわば〝鬼〟や〝化け物〟がいる、きれいとは言えない世界で、それでも光、救いを探す眼差しは、『花』シリーズから受け継がれてきたテーマではないだろうか。『N』でより遠くへと伸びた著者の目は、本作では脃くて捉えがたい人の内側へと向かい、二つの章は「私」の物語として描かれた。今の私はどちらの結末に向かいたいのか、本を手に取るたびに「心模様」が試される。 〈鬼の存在には誰も気づかない。 殺されようとしている人間は、何も知らずに生きている。今日のあとに明日が来ることを疑いもせず。明日のつぎは明後日が来ると信じ込んで〉
雨が降ると足元を見るし、雨がやむと空を見上げる。人の不思議な習性で、光に目をやり、闇にもとらわれる。今の私は、どんな顔をしているのだろうか。
「小説すばる12月号より」