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1編まるごと試し読み拭っても、拭っても

 可愛い格好をしてデートに行く女の子。茶色の長い髪をゆるく巻いて、首の色と違う、やけに白いファンデを塗って。マツエクでナチュラルに盛った目元に、婚活リップなんて呼ばれてる薄いピンク色を唇にひいている。

 唇と同系色のパフスリーブのトップスに、シフォン素材の白い膝丈のスカートをふんわりと翻して地下鉄の階段をコツコツと上がっていく。斜めがけにされた赤いポシェットが女と少女を繫ぎ合わせているみたいだ。

 私の前を駆け上がって行く、可愛らしい小柄な二十代前半の女子よ。すべて完璧かもしれないが、君の足下。足下だよ。

 太めのヒールがついたピンクベージュの靴におさまった小さな足の踵。うっすらと筋が浮き上がったアキレス腱にべたりと貼られた茶色の絆創膏。靴擦れして貼られたであろう絆創膏。

 あなたの軽い足取りから察するに、これからデートなんだろう。土曜日の昼下がり、ふんわりと漂ってくる甘い香水の香りが、私の推理に確信を与えた。

 そして、地下鉄の階段を上りきったところに答えは待っていた。量産型キノコヘアーで目元をうっすらと隠した優男が気持ち良いくらい青いシャツに身を包んで、笑顔で彼女を迎えていた。

 私は階段の出入り口付近で足を止め、肩に掛けた黒い革製のトートバッグからスマホを取り出す。目的地の確認をするふりをして、薄暗がりの中でスマホと地上の双方に視線を走らせながら二人の動向を窺った。

 今日も可愛い、かっこいいねとお互いを褒め合い、早く行こうと手を引き合いながらはしゃぐカップルの声が遠くなっていく。

 なんだこの流れ弾に当たったような気分は。

 私は地上に出て、三十メートルほど先にある喫煙所で、ガス切れ間近の百円ライターを親指で何度も擦ってから煙草に火を点ける。

 一息。不健康の塊と言われる煙を吸い込むことで、自分の中に生まれた精神的不健康な物質が体内に溶けていく。

 もう一度吸ったところで、髪の毛を束ねていないことを思い出して、口に煙草を咥えたまま手首につけていた黒いゴムで、肩口で切り揃えられた黒髪をぎゅっとくくりあげた。気休めでも髪に煙草の臭いがうつっていないことを願う。

 吐いた煙が風に流されるのを眺めながら考える。あんな風に人前でお互いの好意をダダ漏れにすることは自分にはあっただろうか。

 あの絆創膏。もし、そういうことになったらどうするんだろう。

 あのカップルに訪れるであろう場面を想像した。甘い言葉を囁かれて、体を包む布が剝ぎ取られていく。お互いの体温を直に感じるようになり、体を手が這っていく。そして、彼女の足下に視線がいった時。場違いな顔で、空気も読まずに「やあ!」と言ってのけそうな、あの絆創膏。

 男はその滑稽さに萎れるのではないか。そして一日歩き回った末に、シャワーを浴びてふやけた絆創膏に対して、不衛生だと言うのではないか。

 そこまでの場面を頭の中で五回ほど繰り返しながら、煙草を吸ってどうにかやり過ごした。

 夕方からのミーティングで嫌煙家の部長に煙草の臭いを嫌がられないだろうかと、髪をほどいて臭いを確認すると、キャラメルの煙草の甘い香りがうっすらついているように感じた。念のために後でティーツリーの香りのミストを吹きかけておこう。

 その日の夜、あの絆創膏の話を美智子にした。

 商店街の一角にある小ぢんまりとした中華料理屋で、麻婆豆腐丼と汁なし担々麵の大皿を二つ並べて、紹興酒を流し込む。山椒で痺れてピリピリというよりジリジリした舌に、紹興酒は甘く絡みついてきて、舌がふわっと柔らかくなった心地になる。

 前菜から棒棒鶏、豚の角煮、海鮮ブロッコリー炒めと散々中華料理をかき込んだのに、締めにまさかの炭水化物が二種類もやってくる利益度外視のフードファイト的中華料理屋。コスパも味も満点。美智子と私のお気に入りの店だ。

 お腹が満たされることで血糖値が上がり、お酒の力も借りてその他もろもろも上がったり下がったりする。人間の三大欲求とはよく言ったものだと思った。とろけそうな感覚と、弾けそうな胃袋を抱えて、私は美智子に切り出してみた。

「ねえ。今日、デートに向かうふわふわ系女子がいてさ」

「おーう」

 紹興酒にやられ俯いていた美智子の首がばっと上がった。黒く艶やかなショートカットは高校で出会った頃の彼女の面影が残っていて、三十代に突入したのに随分と幼く見える。ウェディングプランナーという仕事柄、人に好印象を与えるメイクで顔を飾っているが、流石に食べて飲んでの繰り返しで、鼻や頰の高い部分がテカっている。

 お酒に吞まれてとろっとした目の中には少々好奇心の光が宿っていた。

「彼氏とデートっぽくてね。すごく可愛かったし、気合いの入った格好してたんだけどさ、ヒール履いた踵に」

 あの筋の浮き出たアキレス腱にべっとりと貼られた茶色い絆創膏が目に浮かんでくる。

「踵に?」

「絆創膏が貼ってあったの」

「へー、靴擦れしてまでヒール履いてオシャレするの健気だなあ。私にはもうその気力はないなあ」

 パンツスーツに身を包んだ彼女の足下は黒の踵の低いパンプスだ。ウェディングの仕事をしていると毎日立ちっぱなしでヒールなんて履いてられないと彼女は言う。

「許されるなら毎日スニーカーでいたい」

「それは同感」

 と言いながら自分の足を隠すように椅子の下に引きよせた。一日中ヒールを履いてむくんできつくなった足がギチギチと痛む。

「いや、まあ。そうよね。たださ、もし彼氏と夜にいい感じになった時よ。その絆創膏、どうなのよって思ったわけ」

「は? 何言ってんの?」

 小さな店内に美智子の声が響き渡る。

「いや、何って」

「何考えてんのよー」

 今度は赤いテーブルを叩きながらゲラゲラ笑っている。

「美智子はありなの?」

「ありっていうか、だってしょうがないでしょ。痛いし。花嫁さんでもいるよ。普段履かないような高いヒール履くと靴擦れしちゃう人。そういう時はやっぱり靴擦れ用の絆創膏貼ってあげる。人生の晴れ舞台の思い出が靴擦れの痛みだったら嫌じゃない」

 そうだけどと思いながらも、私の伝えたい視覚的な色気のなさについては伝わっていないようだった。

「逆にエッチしてるときに靴擦れの傷口見えてる方がグロいよ」

 粘膜と粘膜が触れ合っているというのに、肝心な部分ではない体の内部が見えてしまっているのはダメなのか、と考えてから不快な想像をしたことに後悔をする。問題はグロいかどうかではない。

「男の人ってそういうので萎えたりしないのかな」

 ひき肉を絡めた太い麵を美智子はすする。担々麵の油が彼女の唇をテカテカにしていく。私はカサついた唇を湿らせて、白いブラウスの袖が汚れないように気をつけながら、麻婆豆腐丼に差し込まれたレンゲで自分の取り皿におかわりをよそった。

 美智子は咀嚼しながら斜め上を見る。彼女が考えを巡らす時の癖だった。ごくんと喉を麵が通ってから、私は、と切り出す。

「私は男じゃないから、正直わからん。でも、ゆりが見たその子は若かったんでしょ?」

「うん。二十代前半くらい」

「だとしたらやっぱり健気だと思うよー」

「そうかな」

「だってさ、若い時って見た目優先で靴買っちゃうじゃない。足に合わないけど我慢してさ。で、だんだん学習して、見た目と実用性を兼ね備えたものを選ぶようになる、と思う。てか、私がそうだった。だから健気だよ、その姿勢が。女は女として見られたいじゃん。彼氏に女の子扱いされたいじゃん、愛されたいじゃん」

「と、した時です。その健気さが生んだ、真逆の不格好な絆創膏は正義なわけですか?」

 私は二十三時台のニュースキャスターのように聞き返す。

「うーん……正義では、ないな」

 顔をワザとらしく歪めた美智子に、ほらと返すと、彼女はうるせぇ! と笑って麻婆豆腐丼に自分のレンゲを突っ込もうとした。私はその手を反射的に摑む。はっとした美智子は、ごめんと言ってから、取り分け専用のレンゲを使って麻婆豆腐丼をよそった。

「結局ゆりは何が言いたいわけよ」

「絆創膏は不快だって共感してもらいたかった。あと、色っぽくない」

 私は小さいグラスに残った紹興酒を口をすぼめてグッとあおった。グラスを持った指先がチクリと痛んだ気がした。

「ゆりもそろそろいい人見つけなきゃ」

 美智子は私の機嫌をとるように明るい声で話しはじめる。

「私の夢の一つに、ゆりの結婚式のプランニングっていうのがあるんだからさ」

「結婚ねえ。できるんでしょうか、私に」

「前の人と別れてから全然いい感じの話がないんだもん。たまにはそういう話を聞かせて欲しいな」

「美智子もね」

 人のことは言えない立場だと笑い合う。こんな風に笑えるようになったのも最近の話だ。

 気持ちを踏みにじられた最悪な別れ方だった。私の全部を最後の最後に否定され、傷つけられた。言葉の刃が深く突き刺さった方が、大きな切り傷よりもずっと治りが遅いことを身を以て知った。気軽に笑えるくらい表面の傷が塞がったとしても、中はいまだに再生せず、細くて長い穴が内側でじくじくと痛む。

 彼と付き合っていた頃、仕事はいつも定時に切り上げ、彼からの連絡を、彼の部屋で待っていた。週末は車であちこちの美術館に出かけた。たどり着くのはいつも初めての場所。無機質で清潔な空間には、絵画や彫刻、写真がずらっと並んでいた。そのどれもが理解できるわけではなかったが、同じものを見て言葉を交わすことで、同じ感覚を共有している気分になれて心が満たされた。

 週に三日は彼の家に泊まり、仕事で手が回らない彼のために、家のことはなんでもしてあげた。彼のワイシャツ一枚一枚にアイロンをかけて、シャツの色に合わせたネクタイと一緒にクローゼットにかけておく。完璧主義の彼が仕事以外でわずらわされることなく日々を過ごせるように、私は献身的に尽くしていた。そんな私を彼は好きだと言ってくれたし、早く一緒になれたらいいと言ってくれていたのに。

 彼と別れてから、悲しみの穴を誰にも打ち明けられず、その痛みをごまかすように仕事にのめり込み、疲れ果て、家に帰って倒れるように眠る。そうすると自分の内側と向き合うこともなく、勝手にカレンダーはめくられていく。

 忘れようとしていたのに、今その塞いだはずの蓋が持ち上げられようとしている。苛ついてるのはそのせいかもしれない。もう、私の人生から丸ごと出て行って欲しいのに、好きだったことを覚えている体がそれを許そうとしない。

「ゆりちゃんも、美智子ちゃんも楽しい話しましょうよ」

 厨房からこの店のお母さんが汗だくになって出てきた。恰幅の良い体を強調するような大きなエプロンをつけ、厨房の暑さに耐えうるように短く刈り込まれた金色の髪の毛は悪役女子プロレスラーみたいだといつも思ってしまう。

「これ、サービスね。このあと何があってもいいようにニンニクは抜いてあるから」

 五つの餃子がのった皿をテーブルに置いた後、似合わないウインクをしてお母さんはまた厨房に戻って行った。美智子がそんな予定ないですよーとゲラゲラ笑いながら大声で厨房に話しかけている。私も笑おうとしたけれど、不意に言葉が喉につっかえて何も出てこなくなった。

 気がつけば足が貧乏ゆすりを始め、ガタガタ音を立て始める。思わず私は頭を抱えた。思い出したくないことが蘇る。他人の恋愛に苛ついている時にどうして私は中華料理を選んでしまったんだ。じっと餃子を見た。

「何、もうお腹いっぱい?」

 サービスなんだし食べようよと、美智子は餃子に箸を伸ばした。

 結局私は餃子に手をつけることなく店を後にした。帰り際、次に連絡する時はいい報告にしてねと美智子は千鳥足で帰って行った。ウェディングの仕事は大変だろうが、日々人の幸せの手伝いをしている彼女は、人の負の感情に対して少しだけ鈍いのかもしれない。

 部屋に帰り、ヒールをきちんと揃える。擦れて黒くなった部分をさっと拭き取ることを忘れない。こうしてしまえばいつでも綺麗な靴で仕事に出かけられる。

 手を石鹼で一分しっかり洗ってから、下着を着け替え部屋着に着替える。風呂場の掃除をしてお湯を張り、棚の上、テレビの上、埃のたまりそうな場所を拭き取る。掃除機をかけ、ウエットシートで床を磨いて、部屋全体に除菌スプレーとアロマスプレーを振り撒いたところで私の帰宅後のルーティーンが終わる。

 磨いた背の高いグラスにミネラルウォーターを注いで、革張りのソファに腰をおろした。お酒と油でギチギチの胃の中に水を流し込むと、お腹のあたりがぐるぐるっと鳴った。

 お風呂に入ったら、いつも通り寝る時用の下着に替えて、寝巻きに着替える……。お腹の音を聞きながら、それをイメージした。同じ流れの中から抜け出せないそんな自分が滑稽で嫌になり、今すぐグラスの水を部屋中にぶちまけたくなった。テーブルの上に乱暴にグラスを置くと水が少しだけこぼれた。あっ、となって急いで拭き取ろうとしたけれど、ティッシュに手を伸ばした瞬間にバカバカしくなってそれをやめた。

 気持ちを鎮めるためにベランダに出て、風にあたりながら煙草を吹かした。相変わらず点きの悪いクリアグリーンの百円ライターを街の灯りにかざしてみる。

 私の部屋は全てが綺麗だ。床も窓も曇りがない。埃も落ちていないし、空気清浄機は常にフル稼働。こんな筈じゃなかったのに、帰宅すれば追われるように部屋を磨く。

 絆創膏を貼った女の子、シャツを纏った優男、餃子、絆創膏、シャツ、餃子、絆創膏、シャツ、餃子。そしてこの清潔を装った部屋。忘れようとしているのに、全然忘れることができていないじゃないか。

 七ヶ月前、元彼の部屋に食事を作りに行った時だ。彼のリクエストを聞いて、私はいつものように食材を手に部屋へ向かった。合鍵で部屋に入り慣れた手つきで調理を始めた。料理をする時に服が汚れないようにと、彼がプレゼントしてくれたオレンジ色のエプロンをつけると、今日も美味しいものを作るぞと気合いが入る。美味しいと言ってくれる彼の顔が好きだから、料理をする時はその顔と声を思い浮かべ鼻歌を歌った。

 キャベツをザクザクと切ってからみじん切りにしていった。鼻歌に合わせ、リズミカルに包丁を動かしているとざくりと嫌な感覚があった。

 人は手を切ってしまうと、やってしまったなと妙に冷静な気持ちになる気がする。この時の私も同じ気持ちで、五ミリほど切ってしまった左手の人差し指の第一関節をじっと眺め、痛いなとしみじみと思った。

 薬箱から消毒液と絆創膏を取り出し、傷口をしっかりと消毒し、絆創膏をぐるっと巻きつけた。その後は何事もなかったようにキャベツ、ニラ、ニンニクを細かく切り、ひき肉と混ぜて手で捏ねた。餃子の皮に、タネをのせ、水で濡らした人差し指で縁を湿らせて一つ一つ丁寧に包んでいく。二十個ほど包んだら、後は彼の帰りを待って焼くだけだ。

 十九時頃いつも通り彼が帰ってきた。玄関で脱いだ革靴を揃え、すぐ手を洗い、真っ白なTシャツと、シンプルな紺色のジャージ素材の長いパンツに着替えて彼はリビングへ入ってきた。

 お帰りなさいと言うと、清潔な私をすっぽりと包み込んでくれる。このままぎゅっと力一杯抱きしめられても、彼の腕では私の体は潰れないだろう。三十になるのに、見た目が若々しく見えるのは、少年ぽさが残る色の白さと、柔らかい髪の毛、そしてこの細身の体のせいかもしれない。大人の男性と言うには頼りない体つきをしている。

「餃子?」

「もちろん餃子」

「やった。作ってくれてありがとう」

「今から焼くから、少しだけ待っててね」

 目を細めて猫みたいに笑ってから、彼はソファでくつろぎ始めた。1LDKのこの部屋は、キッチンに立っていても彼の姿が見えるところが好きだ。オープンキッチンに立って、彼の姿を見ながら料理をする時、自然と二人の将来のことを考えて顔が緩んでしまう。

 餃子が焼ける音に混じって、彼が電話をする声が聞こえる。

「今日も仕事が大変だったよ。先輩が企画書を作ってたのに、取引先での会議にそのデータが入ったPC忘れてきてさ」

 大変だったと言いながら、彼の表情は嬉しそうだ。

「データを共有してたから、俺がすぐに資料を印刷してなんとかなって。先輩に感謝されたよ。お前が一緒で良かったって」

 電話の向こうの反応に彼の声が弾んだ。

「だろ。先輩抜けてるところがあるからさ、万が一を想定して、俺がデータ共有させてくださいって言ってたんだ。本当にそうしておいて良かったよ」

 フライパンの上では円を描くように餃子が並んでいる。片栗粉の具合も良くて、綺麗に丸形の羽根つき餃子が出来上がった。

 香ばしい匂いで焼き上がりを察知したのか、彼は電話を切って台所に手を洗いにきた。

「もうできるから、待っててね」

 手洗い石鹼の隣にある消毒液を手に吹きかけ、すり込むようにしている彼に言った。

「どうぞ」

 大皿に盛り付けられた羽根つき餃子をテーブルにのせると彼の目が輝いた。美味しそうだねと言って、箸置きにおかれた箸を手にして、餃子に手を伸ばす。きつね色に焼けた羽根の部分がパリパリと小気味いい音を立てて弾ける。私は彼が一口目を食べ終えるのをじっと待った。

「やっぱり美味しいな」

 目を閉じてゆっくりと彼は味わってくれた。私はホッと胸をなでおろす。

 餃子が好きだと言う彼に初めて手作りの餃子を振る舞った時、美味しくないと言われてしまった。彼の一番好きな食べ物はお母さんが作った餃子で、家で作るならその味を再現して欲しいと頼まれた。付き合い始めて四ヶ月が経っていた。

 美智子から男を摑むならまずは胃袋からと言われていたから、私はすぐに彼のお母さんに連絡させてもらい、レシピを教えてもらったのだ。しばらくは〈母の味〉を再現する日々が続いた。何度も自宅で作り美智子に食べてもらったり、彼に頼んで実家に連れて行ってもらい、お母さんと一緒に餃子を作ったこともあった。試行錯誤の末、お母さんの味をようやく再現できたのは頼まれてから八ヶ月が経った頃だった。

 それからは月に一度は必ず餃子を作って欲しいと頼まれるようになった。私は彼にも、彼のお母さんにも認めてもらえたような気持ちになってとても嬉しかった。

 交際は順調に進み、付き合い始めてもうすぐ二年になろうとしていた。

 三十代に足を踏み入れた私は結婚というゴールに向かって走り始めたと思っていた。せっかく手にしたチャンスを逃したくはない。このまま転けることなくゴールテープを切りたくて焦っていた。

 彼のお母さんは礼儀正しく、家の中は整理整頓されていて、とても綺麗だった。台所のシンクも銀色に光っていて、ガスコンロには焦げ付きもなく、壁には油はねのシミ一つなかった。まるでモデルルームのようだなと思ったことをはっきりと覚えている。

 母親譲りなのか、彼もお母さんのように綺麗好きだ。部屋には物が少なく、床はいつもピカピカだ。彼に好意を抱くようになってから、嫌われたくない一心で、私は禁煙し、自分の部屋も綺麗に保つようになった。けれど彼は、食事をするのも、寝るのも自分の家が良いと言って譲らなかった。私の家で作ったものを保存容器に詰めて持ってくることもやめてくれと言われた時は流石に驚いたが、確かに移動する間の温度変化で中身が傷んでしまうこともあるかもしれないと納得し、私は彼の言うことを守った。

 だから彼の家で料理をし、作り置きのおかずも彼の家にある保存容器に入れ冷蔵庫にストックした。

 どんなに盛り上がっていい雰囲気になったとしても、シャワーを浴びてからお互いの体に触れ合った。

 少し面倒だと思うこともあるけれど、慣れてしまえばそんな彼も愛おしく感じられる。清潔であれば愛を受け取れるのだ。

「今日会社で大変なことがあってさ」

 私が台所で調理中に電話で母親にしていた話が繰り返される。私はさも初めて聞くかのように彼の話に相槌を打つ。それは大変だったね。あなたのお陰。しっかりしてるからみんなから信頼されてるのね。決して口の中に食べ物がある状態で言葉を発しないように気をつけた。

「あれ」

 急に彼が手を止めた。きちんと箸置きに箸が戻され、彼の手が私の手に伸びてくる。左手をとられ、人差し指に触れられる。

「ここ、どうしたの」

「あ、これね。包丁で切っちゃって。消毒したし、傷も深くないから大丈夫だと思う」

 大したことないのと手を引っ込めて、顔の前で両手を振ってみせる。

「そう、それなら良かった」

 彼は眉を八の字にして私を見つめる。

「大丈夫よ」

 大げさに笑顔を作って、私は餃子を食べる。しっかり飲み込んでから、やっぱりお母さんのレシピは美味しいねと彼に話しかけた。

「指を怪我したのに作ってくれたんだね」

 彼はもう一度私の手をとって包み込んでくれた。

 食事を終えた後、私は自分の家に帰った。お風呂上がり、水でふやけた絆創膏が剝がれてきたので外してみると、傷口の皮はもう薄く塞がっていた。

「私もまだ若いってことかな」

 新しい絆創膏を丁寧に貼って眠りについた。

 次の日の朝、鳴りやまないスマホの着信音で目が覚めた。時間は六時を過ぎた頃だった。いつもならあと一時間は眠れるのに、こんな朝早くに誰だと思いディスプレイを見ると、彼のお母さんからだった。私は慌てて電話に出る。寝ていたのを必死に隠そうと、見えてもいないのに乱れた髪の毛を手櫛でとかし、もしもしと応えた。

「もしもし。ゆりさん?」

「お、おはようございます」

 寝起きの渇いた喉がひっついて、声がうまく出なかった。

「ちょっと、あなた、高之に何を食べさせたの?」

 電話の向こうの刺々しい声に私は困惑する。

「えっと、何をとは」

「さっき高之から電話がかかってきて、あの子吐き気が酷くて動けないって」

「えっ。大丈夫なんですか」

 風邪やウイルスには人一倍気をつけている彼が調子を悪くしたことは付き合ってから一度もなかった。

「大丈夫も何も、あなたが変なもの食べさせたからでしょ。あなたが作ったものがあたったんだって、言ってるわ」

 は? と頭の中に疑問符が浮かんだ。私が変なものを食べさせたとはどういうことだろうか。

「私が作ったものであたったってどういうことでしょう」

「こっちが聞きたいわよ!」

 耳がキンとするほどの怒鳴り声に、スマホのスピーカーも耐えきれず、ひどい音割れがした。

「す、すみません。ただ、えっと、昨日食べたものでしたら、餃子で、きちんと火を通しましたし、同じものを食べた私は何ともないので」

 そこまで言うとまた大きな声が電話口から響いた。

「あなたと違って、高之はデリケートなのよ。あなたが大丈夫でも、あの子が大丈夫じゃないことだってあるんだから」

 どうしていいのかわからず、私はただ謝るしかなかった。確かな理由もわからないまま一方的に怒られ続け、スマホが随分と熱を帯びてきた。ひとまず出社しなければならない旨を伝え、会社が終わったら彼の部屋に様子を見に行くと告げると、ぴしゃりと断られた。

「あなたのせいで体調を崩したんです。あなたがまた何か作って食べさせて悪化したらどうするの? 今日は私が看病しますから、来ないでちょうだい」

 ブツッと一方的に電話が切られた。私はベッドの上で呆然とするしかなかった。

『大丈夫?』と彼にメールを入れてから急いで会社へ向かった。ぼんやりしていたらいつも家を出る時間を十分も過ぎていたのだ。朝ご飯を食べ損ねてしまった。

 昼休みになるまで、何度もスマホをチェックしたが返信はない。お母さんが様子を見に行くと言っていたが、やはり心配だ。何が悪かったのだろう。

 私は着信履歴から彼の番号をタップした。何度かコールが鳴っても出る気配がない。ゆっくり休めていればいいのだけれど。

 スマホをスーツのポケットへしまい自分のデスクへと戻った。今日は任された化粧品会社の新商品広告プレゼンの会議があるのに、全く仕事に集中できないまま一日が過ぎてしまった。

 家に帰っても彼から連絡はなかった。二十一時を回った頃、もうお母さんも帰ったかもしれないともう一度電話をかけようとした時、彼から着信が入った。私は取り落としそうになったスマホをキャッチして、慌ててもしもしと言った。電話口からはトーンの低い彼の声がする。

「今日は大丈夫だった?」

 その問いかけの後はじりじりと電子音が響く。

「もしもし? 聞こえてる?」

「聞こえてるよ」

「良かった。大丈夫?」

「……君のせいだ」

「え? 私のせいなの?」

「君が、昨日不潔な手で餃子を作ったから。だからだよ」

 不潔、とはどういうことだ? 私はいつものように、きちんと手を洗ったし、消毒液で除菌もしてから料理をした。食材も肉は新鮮なものを、野菜は野菜用洗剤で綺麗に洗い、餃子の皮を包む時に使う水だってミネラルウォーターにしていた。私に落ち度はないはずだ。

「私、ちゃんと綺麗にしてたわ」

「どこがだよ。絆創膏を巻いた怪我した手で料理したじゃないか。君が怪我してても作ってくれたんだと思って、我慢はしてみたけど、考えるだけでゾッとしたよ。不衛生極まりない。その怪我をした手で肉を何度も捏ねて、包んで、作ったんだろ。傷を絆創膏で巻いた手で、ベタベタ食材を触って作ったものをよく出したよな」

 そのせいで吐き気が止まらなかったと言われた。昨日は心配してくれていたのに。……いや、違う。あれは私の心配ではなかったのか。自分自身の体を心配していたんだ。私の手をとって絆創膏がどんな状態か確認したんだろう。

「ごめんなさい。悪気はなかったの」

「悪気がないって、それで許されるのかよ」

「いや、でも」

「でもってなんだよ、悪いのはそっちだろう。俺が昨日今日とどんな気分で過ごしたと思うんだよ」

「絆創膏をした手で料理したのは私が悪かった。ビニール手袋をするべきだったのに、配慮ができてなくてごめんなさい。もうしないから」

 電話越しに大きなため息が聞こえた。

「もういいよ。母さんと話し合ったけど、母さんも絆創膏をした手で餃子を作るなんて信じられないって言ってたよ。君の育ちが悪いのがよくわかるって。本当にそうだよね。俺が言わなくちゃ手を消毒することもしない人だったんだから。俺と付き合うようになって随分とましな人間になったと思っていたけど、やっぱり教育が行き届いてないんだよ。

 今回だけじゃない。今まで目をつぶってきたけど、本当はうんざりしてたんだ。初めて君の部屋に行った時もゾッとしたよ。トイレに便座カバーをつけてたりしてさ。あれだって毎日洗濯して替えてるわけじゃないんだろう。どれだけの雑菌がそこにいると思う? 不衛生極まりないよ。洗面台には髪の毛が落ちていたし、床にも埃も髪の毛もあって、床を踏むのも不快だったんだよ。でも、君の内面をいいなって思ったから、我慢をして俺の家に来てもらってたんじゃないか。ようやくましになったと思ったらこれだよ。やっぱり母さんの言うことは間違いなかった」

 一方的に言葉を投げつけられ、反論する気にもなれなかった。

「お母さんが?」

「初めて家に来たときに思ったって、靴の先も踵も汚れてるって。いくら身なりが綺麗でも、足下が汚い女は不潔だって。本当は俺たちが付き合うことにも母さんは反対してたんだよ。俺にはもっといい人がいるって」

 電話の向こうから声がする。彼に何か伝える女性の声だ。あれはきっとお母さんの声。

「本能的な好きって気持ちでこれまで我慢してきたけど、理性的になって、冷静になればわかることだったよ。母さんの言う通り君みたいな不衛生で、不潔な女とは付き合うべきじゃなかった。もうこれっきりだ」

 よく言ったわねと甲高い声が聞こえた。電話の向こうに、日頃から必要以上に彼に触るお母さんの姿が浮かぶ。

「これっきりって」

「これっきりの意味もわからないのか。君とはもう終わりだよ。これからも不衛生な食事を口にするかもと思ったら、君と付き合っていくのはリスクが高すぎる。何度も我慢したけど、もう無理だよ。今日でもう終わりだ。もう連絡はしないでくれ、家にも来るな。君が置いているものも、何がついて汚れているかわからないから母さんが処分してくれるって」

 じゃあ、と一方的に電話が切られた。ブツッという乱暴な音は、彼が私を完全に拒絶した音として耳の奥にいつまでも残った。

 それからはメールしても返信はない。電話にも出てもらえない。彼の家まで行っても会ってはもらえない。

 そんな日々が続いて、私は行き場のない感情を忘れるように仕事にのめり込み、汚いと言われた自分を清潔にするよう、周りから神経質だと言われるほどの潔癖な人間になった。ただ、人が触れたものを汚いと思うわけではなく、私が触ったものが汚いのだという考えが頭にこびりつき、自分が触ったものは他人が触る前に綺麗にするようになった。汚い、不衛生、不潔、投げつけられた言葉も一緒に拭い去ろうとした。

 美智子には、彼から一方的に別れを告げられたとしか言っていない。絆創膏のことも、餃子の話もできなかった。

 忘れようとしても彼の存在を私の中から消すことができない。清潔に保たれた部屋も、自分も、綺麗でいることでどこかで彼と繫がっているかもと考えてしまう。

 だけど、なんで私はこんなにも執着してしまっているんだ。あんなに侮辱され、母親の意見にしたがってしまうような男に。ただ結婚したいだけだったのか……。早く落ち着いて、両親や自分を安心させたい、そう思っていたのは確かで。そのせいでどこからも這い上がることのできない穴に落ちてしまったんだ。

 ベランダの端に置いた空き缶に吸い殻が突き刺さっている。私はその中にまた煙草を押し込んだ。

 煙草の臭いのついた髪の毛を早く洗わなければとわかっているのに、ベランダから室内に戻り、私はソファで丸くなった。

 翌朝ソファの上で目覚めた私はゾッとした。お風呂にも入らず、寝巻きにも着替えず、寝てしまった。髪の毛からは甘いキャラメルの煙草の臭いがうっすらとする。体を綺麗にせずに寝てしまったことが恐ろしくて、慌ててお風呂に入り、全身を何度も洗った。寝てしまったソファもウエットシートで拭いて綺麗にする。

 必死になって部屋に漂う昨日の自分の汚れた気配を消そうとした。こすっては除菌し、こすっては除菌。この繰り返しだ。

 ふと冷静になった時、八時を過ぎていることに気づいた。まずい。家を出る時間を三十分も過ぎている。掃除道具を乱暴にひとまとめにし、スーツに着替えて家を飛び出した。

 カバンの中身は昨日のぐちゃぐちゃなまま。着ているシャツもアイロンをかけ直せなくて、落ち着かない。髪の毛も櫛を通しただけで、全体的に右側にハネてしまっているのを手で何度もとかしつけたが、どうにもならない。

 結局会社へは十五分ほど遅刻をしてしまった。すぐに上司のデスクへ向かい、すみませんでしたと、走って来たままのボロボロの格好で遅れた詫びをいれる。頭を下げて見えたヒールのつま先は何度も擦れて黒くなっていた。

 フラフラと自分のデスクに腰をおろした。ウエットティッシュで整理整頓されたデスクの上を綺麗に拭くと、少しだけ気持ちが和らいだ。

 ボサボサに暴れている髪の毛をゴムで縛って誤魔化そうとした時、向かいのデスクに座る木下君に声をかけられた。今、同じチームで企画を進めている後輩だ。

「寝坊ですか?」

「まあ」

 私がバツの悪い思いで答えると、木下君は嬉しそうに笑った。

「寝坊とかするんですね。意外です。いつもちゃんとしてるから」

「ちゃんと?」

「隙があるんだなって安心しますよ」

 そして声を潜めて、俺もよく遅刻しそうになるんでちょっと救われた気分です、と言ってきた。

「隙って何?」

「え? そうですね。いつもピシッとしてサイボーグっぽさがあったけど、頭もボサボサだし、シャツとジャケットの色が合ってないし、そういうところですかね。人間味に溢れてますよ、今日は」

「そお」

 私は少し俯いて、髪をひとまとめにした。ぎゅっと縛り上げると、自分の落ち込んだ気持ちがちょっと上向きになる気がした。

 身長が高い木下君は、横に並ぶとその大きさに圧倒されるけれど、話してみると柔和な人、というか人懐っこいゴールデンレトリバーのような男だ。尻尾を振って誰とでも上手くコミュニケーションをとってしまう。

 しかしデスクは、私と真逆のような状態だ。書類が高く積まれ、色や形がバラバラなファイルが乱雑にデスクの上を占拠している。

 綺麗にしてなくてもいいのかな。私だって、昔は全然潔癖じゃなかったはずだ。私の価値観はどこでぐにゃりと曲がってしまったんだ。

「ねえ、絆創膏が貼ってあったらどう思う?」

 走ってさらに散らかったカバンの中から角の折れ曲がったファイルを出しながら、私は彼に尋ねてみた。突然投げかけられた質問に彼はキョトンとして、何度か素早く瞬きをした。

「どうって、怪我したのかなって思いますよね。普通」

 普通か。何を当たり前な質問をしてしまったのだろう。そうだよねと言って私は荒れ放題のカバンの中を整理し直す。

 A4サイズのクリアファイルが三枚に、分厚いファイルが一冊。ペンケース。コンパクトにまとめられた化粧直し用のポーチ。リップクリーム用のポーチと綿棒入れ。携帯用ハンドジェル。煙草のポーチ。ハンカチが三枚。だけどこれは昨日のものだからもう使えない。ポケットティッシュとウエットティッシュがあるから今日はそれでしのげるだろう。最悪コンビニでハンカチを買おう。ノートパソコンは確認するまでもなく入っているし、財布も、手帳も、家の鍵もある。

 それらをデスクの上に綺麗に並べ、必要なものだけを残してあとはカバンの中にきちんとしまっていく。あるべきものがあるべき場所に収まることはジグソーパズルのピースがはまるみたいで気持ちがいい。

 ふとデスクの上に置かれた小さな鏡に目がいく。髪を一つにまとめたけれど、ブローせずに出てきたせいで前髪がS字にうねっている。

 情けなくてため息が出る。元彼に囚われて癇癪を起こしたことも、それを翌日に引きずってしまうことも。今すぐ耳を塞いで目を閉じてしまいたい。感情をボヤけさせたくて急に口が寂しく感じる。煙草、と頭に浮かぶけれど、流石に遅刻してきてすぐに喫煙所に立つのは良くないだろう。整頓の終わったデスクの上のノートパソコンを開き、両目をぎゅっとつぶってから今日の分のタスクを確認する。

 社内にチャイムが鳴り響いた。下唇を指でつまんでいたことに気づく。どうにも仕事に集中できない。今週中にと頼まれている企画のコピー案を考えては消し、考えては消しを繰り返すだけの午前中。後輩に淹れてもらったコーヒーは半分以上残ったまま冷めている。昼だというのにお腹は空かない。

 頭の片隅に元彼に言われた言葉や、一緒に過ごした場面が過る。今まで蓋をしていたのに、こんなに簡単に溢れ出してくるのか。まるで付き合いたての女じゃないか。また無意識に下唇をつまんでいたことに気づく。ちらっと目の端に映る自分の顔はすっぴんで目も鼻もぼんやりとしているのに、突き出した唇だけが主張をしていて、『天才バカボン』のウナギイヌみたいだ。

 元彼の高之は私が一時期担当したクライアントに勤めていた。あるプロジェクトのささやかな打ち上げで私は彼を気の毒に思った。料理を率先して取り分けて、直箸に気をつけてお店の人にその都度取り分け用の箸を用意してもらっていた。テーブルが濡れるとサッと拭き取る姿は、打ち合わせの時にも何度か見ていて、この人の部屋はきっと綺麗なんだろうなと思っていた。

「こいつめちゃくちゃ潔癖なんですよ」

 ジョッキを片手に肩を組んで、赤ら顔の上司が彼を揺さぶった。そんなに酷くはないですよと笑いながらも、上司の汗ばんだワイシャツが密着するのを器用に避けていた。

 きっと彼の癖は飲み会のネタとして散々イジられてきたんだろう。細くなった目の奥が笑っていなくて気の毒に思った。

「潔癖ってリモコンにラップしちゃうタイプの人ですか?」

 私の後輩の女の子が興味津々な声で投げかける。

「俳優の人がこの前テレビでその話をしてて、その人のことすっごい好きだったんですけど、流石にそれはないわーって引いたんですよ」

「リモコンはどうか知らないけど、パソコンのキーボードは使う前に必ず除菌して拭いてるよな。自分しか触らないのに」

 お酒の入った人たちがどっと笑った。私は随分前に取り分けられたサラダを頰張った。野菜はしなびていた。中に入っていたナッツがカリッと音を立てて砕ける。

 その後も彼の神経質な面が面白半分に次々と語られる。職場で使うマグカップは、人に触らせず自分でコーヒーを淹れるし、自分で洗っている。頻繁に手を洗う。ドアノブを触った後や、エレベーターのボタンを押した後も除菌ティッシュで手を拭くなどなど。それを聞き、周りは信じられないと笑い、私は黙っていた。

 彼は相変わらず愛想笑いを浮かべて、風邪をひいたら困るのでとか、子供の頃からの習慣なんですよ、と当たり障りのない言い訳でかわしていた。

 そんなことどうだっていいじゃないか。例えば彼が本当に潔癖症だろうが、仕事をする上で私はなんにも困ることはなかった。作った書類を、人が触ったものだから受け取れないと言われたら困ってしまうが、そんなこともなく、細かい気遣いができる人で、仕事をする相手としてはかなり好印象だった。

 早くこの会が終わって欲しいと、レモンサワーを飲み干して、グラスの底の形に濡れたテーブルをお手拭きで拭こうとした時、彼と目が合った。丁度彼の手にもお手拭きが握られて、まるで私と同じことをしようとしているみたいだった。

「あ、すみません」

 思わず謝る私に、彼もすみませんと少し俯いて返してきた。

「ほら、こういうところなんですよ」

 また大きな笑い声が響く。気づかなかったふりをして、私はテーブルの水滴を拭き取った。

 あの時の恥じらうような姿を、飲み会の後もよく思い出した。短く切られた髪の毛の横から飛びだした耳がほんのり赤く染まって、小猿みたいで可愛らしいと思った。

 彼は照れた時も、怒った時も耳を赤くしていたな。

 その後、彼からメールをもらって食事に行くことになった。小洒落たイタリアンでコース料理を食べた。よく考えれば一皿ずつ出てくる料理は他人に皿を荒らされることがない。カトラリーを一度紙ナプキンで拭いてから使う姿を見て、本当に潔癖症なのかもしれないと思った。

 ゆりさん、と木下君に名前を呼ばれて現実に引き戻される。つまんでいた下唇がじんじんと痛む。

「今日弁当持ってきてないんですか?」

「忘れた」

 答えた後にデスクの上の鏡をちらっと確認する。下唇が妙にぽってりしている。

「ねえ、見てた?」

「見ましたね。ずーっと唇つまんでて何事かと思いました」

 大きなため息が出て私はどさりとデスクに突っ伏そうとしたが、開きっぱなしのノートパソコンに阻止される。デスクさえも私を拒むのか。

 唇を嚙んで何もかもなかったことにしたかったが、じんじんとした痛みはまだ続いていて、落ち込んだ気持ちが蘇る。

「今日はダメだ」

「そういう日もありますよ」

「木下君はダメな日に耐性がありそう」

「それは偏見ですね。俺はダメな日でも仕事はダメじゃないんで」

 向かい側のデスクから憎たらしい笑顔を浮かべてこっちを見ている。やるせなさが全身の力を奪っていった。

「返す言葉もないわ。耐性が明らかにない」

 私は椅子に座ったまま脱力する。ノーメイク、ボサボサの髪、しわになった二日目のスーツ、ジャケットと色の合っていないシャツ。自分の身なりを意識するだけで、いつもはみなぎっている仕事へのモチベーションが削がれていく。自分への苛立ちも募るばかりだ。

「俺と昼飯行きません? ダメな社員としては先輩なんで、スイッチの切り替え方教えますよ」

「それは遠慮させてもらいたいわ」

 昼休みのオフィスに人はほとんど残っていない。社食のないうちの会社では、みんなランチに出かけて行く。弁当派の私は、このほとんど人気のないオフィスが好きだ。外回りのない日は自分で作った弁当を食べて、一服してから午後の仕事に臨むのがルーティーンだった。だいいち食事を一緒にするのはよほど気心の知れた相手でないと気を遣って疲れるだけだ。例えば、食べてるものを一口欲しいと言われたら。……考えるだけで気が滅入る。

「せっかく俺なりの優しさで声かけたっていうのに。たまには肩の力抜かないと、思ってもないミスしますよ」

 まあ俺はいいですけどね、と光沢のあるスーツの背中を見せながら、木下君は財布を手にオフィスを出て行った。

 一息ついてから、冷たくなったコーヒーを口に含んだ。酸化したコーヒーは不味い。カップの中を見ると小さな埃が浮いていて、今度からは蓋のあるマグか、タンブラーを持ってこようと思った。

 それにしても、だ。自分の決まり事から外れてしまっている。お腹は空いていない。けれど、数時間もすれば空腹になってくるだろう。その時の自分を想像すると、何か、なんでもいいから口に入れなくてはいけないという気持ちになる。

 会社の近くには大きな公園がある。今日みたいな日は芝生の上で弁当を食べたら気持ちが良かっただろうか。

 お日様の匂いのする芝生。座るとほんのりあったかくて、柔らかい。お弁当の蓋を開けると中に入っているプチトマトや、卵焼きの色が芝生によく映えるだろう。そこに柔らかいそよ風が吹く。その風に乗って細かいチリや、土埃が舞ってくる。ん? それはごめんだ。どんなに天気が良くても、やっぱり社内で食べるのが一番安心だ。

 重たい腰と頭を無理やり動かし、なんとか立ち上がる。諦めて近くのカフェに行こう。

 ガラガラと大きな音が響く。周りを見渡して、それが自分の引いた椅子のキャスター音だと知った。

 昼のオフィスに人影は少ない。窓から差し込む光がブラインドに遮られて、バラバラにされている。何本もの筋になった光は雲の隙間から覗く天使の梯子にも見えた。

 書類の山や段ボール箱に埋もれている多くのデスクの中で、誰よりも整頓された自分のデスクは誰も使っていないみたいだ。私はどこにいるんだろうか。

 カフェに行くのはやめた。出社してからずっと吸いたいと思っていた煙草とスマホと財布をつかんで喫煙所へと向かった。歩きながら木下君にメールを打つ。昼休みはあと三十分ほどだ。

 髪をきつく縛り直し、煙草の箱を軽く振る。飛び出してきた一本を口に咥えた。今にも息絶えそうな百円ライターはいい加減に買い換えなければと思いながらも、そのままにしてしまう。

 元彼と付き合い始めてやめた煙草だったが、別れた途端にまた手放せなくなった。彼に合わせて自分を綺麗に保っていたけれど、その必要もなくなった。肺の中を不健康な煙で満たすことで、自分の不潔さを感じ、それがなぜか生きているという実感になった。

 煙を吹かして鼻腔で楽しむ。キャラメルの甘い香りと煙の臭いが混ざって頭がクラクラする。肺まで入れる時とは違う背徳感が、立ち上る煙に反して体をズブズブと沈めていく。

 自分を追い詰めることでしか、肯定できないことに嫌気が差す。綺麗な自分。汚い自分。何が本当なのかわからなくなってしまった。染み付いた習慣や、思考は簡単には消えてくれない。それを今の自分だと受け止められたらもう少し自分という存在に寛容になれるんだろうか。

 一本吸い終える頃に喫煙所のガラスが叩かれた。

「ゆりさん、これ」

 ガラスの向こうであっても声が聞こえるはずなのに、わざとらしく口パクで伝えてくる木下君は憎めないやつだと思う。可愛がられる後輩。こんな風に生きられたなら楽だっただろうか。

 ティーツリーのミストを家に忘れたことを思い出した。甘い煙の残り香を纏いながら、私は喫煙所から出る。気休めに軽くスーツを叩いてみるが、煙の臭いが立ち上ってくるだけだった。

「ありがとう」

「めちゃくちゃ綺麗好きなのに煙草吸うの、不思議ですよね」

 煙の臭いを確かめるように、木下君の鼻が動く。

「臭いからやめて」

 近づく体をぐいっと押しのけながら、私はビニール袋を奪い取った。中に入っているのはコンビニのおにぎりが二つ。

「おにぎり二つってメール入ってたんでとりあえず買ってきましたよ」

 袋から取り出したおにぎりの具はベーコンエッグと牛カルビだ。

「ねえ、これは何」

「おにぎりですよ」

「木下君。おにぎりって言ったら普通は梅とか、シャケとか、昆布でしょ。なにこの男子高校生みたいなラインナップ」

 あまりの変化球に思わず笑ってしまった。

「ベーコンエッグなんてよく見つけたね」

「これ、意外とうまいんですよ」

「……ありがとう。お金五百円あれば足りるよね」

 財布から五百円玉を取り出し、木下君に渡そうとすると彼は大丈夫ですよと受け取らなかった。

「午後からしっかり仕事してもらえれば」

 本人は少しキザに決めたつもりだったのだろう。けれど、そう言ってのけた口の端にはケチャップがついていた。

「わかったから、木下君はその口についたケチャップとってからオフィスに戻ってね」

 ニヤニヤするのを抑えながら、私は彼の前を歩いた。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが流れ、オフィスには人の気配が戻った。午後の気怠い空気が漂う中、私はおにぎりを手にパソコンのキーボードを叩く。齧り付けばバリバリと音を立てて舞い落ちる海苔のかけら。おにぎりをつかんだ手にはコンビニおにぎり特有の人工的な匂いが残り、その手のままキーボードを叩く。うっすらと付着したデンプンがキーボードを汚していく。

 絶対に自分がしなかったタブーを犯してみる。無理だと思ったが、始めてみると清々しい気持ちになってくる。

 バリッと音を立てておにぎりを口に入れる。ベーコンエッグは、肉と卵と米が殴り合いの喧嘩をしている味で、調和のかけらもなかった。それでもエネルギーと化して頭の回転を手助けしてくれる。最後のひとかけらを口に放り込んだ後、その指先を丁寧に舐めた。どの指からも海苔と煙草の煙の混ざった風味がした。

「ベーコンエッグおにぎり、考えた人は反省すべき」

 とメモ用紙に書き殴って丸め、向かいのデスクに投げた。けれどそれは軌道が逸れて、木下君のデスクに積み上げられた資料の山にぶつかって落ちた。

 ウエットティッシュで手を丁寧に拭き、除菌ジェルをすり込む。デスクとキーボードに残る食事の痕跡を綺麗さっぱりなかったことにして私は席を立ち、木下君のデスクのうしろに回り込んで声をかけた。

「木下君。その荒れたデスクを片付けないの?」

 椅子をくるっと回してこちらを向いた彼は、俺はこれで困ってないんですよと、仁王立ちする私に向かって言う。

「あなたはいいかもしれないけど、もし大事な資料がなくなっても、これじゃ気づかないかもしれないじゃない」

「大丈夫ですよ。全部場所把握してるんで」

「じゃあ明後日のクライアントとの会議に使う資料と、前回の議事録のコピーは?」

「ああ、リクターですね」

 彼はまたくるっと椅子を回してデスクに向き直ると、アルプス山脈みたいに高く積まれた書類の山からいとも簡単に資料を取り出してきた。

 議事録のコピーは全部ここに入れてるんで、とデスクの引き出しの一番下の段を開け、資料の束をちらつかせる。

 資料にざっと目を通すと、確かに明後日のデザイン会議に使う書類だった。

「ほら、ちゃんと管理できてるんですよ」

 木下君はヘラヘラと笑ってみせる。歳は三つしか違わないのに、この柔軟性を持ち続けられることが羨ましい。犬みたいに尻尾を振って、上司にも、取引先にも気に入られて。

 私は真面目だ、キチンとしてると言われるけれど、みんなに好かれるのは彼のような人間なんだろう。

「ゆりさんみたいにきっちり管理できてるのがいいと思うんですけどね。俺はこれで把握できちゃってるんで」

「それならいいけど」

「あ。でもゆりさん、俺が入ってきたばっかりの頃はそんなに綺麗なデスクじゃなかったですよね。俺のデスクに近いっていうか」

 木下君が中途入社してきたのは三年前。高之と付き合い出す前だ。確かにその頃の私は今みたいに綺麗好きではなかった。

「そんな時もあった」

「どうしたら綺麗にできるか教えてくださいよ」

 その言葉に一瞬怯んだが悟られないように俯いて眉に力を入れる。なぜか頭の中には絆創膏を貼った女の子の踵が浮かぶ。浮かれた足取り。あんな可愛らしさが私にもあった気がする。

 次の言葉が出てこなくて、顔を上げると黒目がちな木下君の瞳と視線がぶつかった。 「ゆりさん、今日仕事終わってから空いてます?」

 突然の誘いに戸惑っていたら木下君はとっておきの場所があるんですよ、とわざと小さな声で言ってきた。

 とっておき。口の中で反芻してみる。 「元気出しましょ。で、元気出して俺に整理整頓教えてください」

 私はできるだけいつも通りを装って、考えとく、と言って、さっき落ちたメモ用紙を木下君のデスクの上に置き去りにして自分の席へと戻った。

 定時のチャイムが鳴り終業を告げる。そそくさとタイムカードを押し、社員たちはオフィスを後にする。今年から原則残業はできないことになった。けれどそんな簡単に今までの仕事量が綺麗に片付くわけもなく、終わらない業務を社外でやるようになった。だから誰もがチャイムの音とともにオフィスを出ていく。時刻は十八時だ。

「木下君、今日はどれくらい残ってるの」

「今日は結構捗ってたんで、明日の打ち合わせの資料の確認と、メールの返信くらいです」

「じゃあ……」

 と私が言うと、スッキリしに行きましょ、と彼はネクタイを鬱陶しそうに緩めてみせた。

 二人でタイムカードを押して、会社を後にする。

 薄暗くなった道を後輩と並んで歩くのは妙な感じがした。

「昼間にダメな日のスイッチの切り替え方があるって言ってたじゃない? そういう日はどんなお店に行くの」

 同僚とこんな風に仕事以外で歩くのはどれくらいぶりだろうか。ふわっと吹いた風に踏み潰された銀杏の臭いが混ざっていて、臭くて少し笑えた。あの人だったら汚いと言って、秋のイチョウ並木は歩きたがらないだろう。そう感じて足が止まった。

 木下君はイチョウの木の下の銀杏なんかお構いなしという感じで歩いていく。

「とっておきの場所があるんで、そこに。ちゃんとした飯じゃなくてもいいですか?」

 少し先で声がする。うんと大きく返事をしたけど、私はその後ろについて行けないと思ってしまう。靴が汚れてしまったら、と。

 ついてこない私に気がついて木下君がこちらを見た。たった十メートルほどだろうか。その距離が大きな河の両岸で向かい合っているみたいだった。

「ゆりさん、どうしたんですか」

「ちょっと」

 マイペースな歩調で、銀杏の絨毯を踏み荒らして木下君が戻ってくる。私の視線はその足下にばかりいってしまう。潰れて弾けた銀杏に足がかかるたびにひやっとする。

「何か忘れ物しました?」

 違うのと首を振るけれど、言葉が喉に引っかかってうまく出てきてくれない。私は地面を指差して、これ、と言う。

「これ、踏むのが」

 木下君は私の指先を追いかけて地面を見る。薄暗い中でも黄色は目に強く留まる。

「銀杏ですか。踏むと臭いですもんね」

 私はこくりと頷いた。

「子供の頃、銀杏爆弾だーって言って遊ばなかったですか? 新品のスニーカー履いて、銀杏を踏まないようにイチョウ並木を歩くって遊び」

「してない」

「それと一緒で、こうやって進めばいいんですよ」

 よっ、と言って、木下君はつま先立ちになり潰れた銀杏の間を縫うように跳んでいく。まるで小学生だ。

「こうしたら靴汚れないですよ」

 木下君はそのまま器用に進んで行ってしまう。たった十数メートルのこの並木を私は通り抜けられるだろうか。

 わずかな隙間に右足を恐る恐る出し、左足をピョンとひきよせた。カバンを胸に抱え込み針山の上に立たされたみたいに私は不安な気持ちになった。

 あの絆創膏の女の子なら、スカートを翻してジブリ映画のヒロインみたいにここを通り抜けていくだろうか。もう一度勇気を出して、今度は飛び跳ねるように銀杏の隙間を縫った。

 もう並木の終わりにたどり着いた木下君が、その調子と手を振っている。なんだか運動会のリレーで頑張れと応援されている時のような恥ずかしさがこみ上げた。銀杏を踏まないことよりも、この恥ずかしさから一刻も早く抜け出したくて、私はスピードを上げた。

 やっと着いたと思った時には息が上がっていた。

「ゆりさんヒールなのに器用ですね」

「ありがとう」

 息を整えながら後ろを振り返ると、なんてことないイチョウ並木があった。

「で、どこ行くんだっけ」

 途中のコンビニでビールのロング缶と適当なおつまみや、ホットスナックを買った。

 向かった先は会社から歩いて五分ほどのところにあるあの大きな公園だった。

 夜の公園はしんとしていて、芝生を踏む音と木々が風に揺れる音がするだけだ。昼間であればピクニックに来る人や、子供連れ、バドミントンやキャッチボールをする人たちがいるんだろう。

 木下君はずんずんと奥に進んでいき、大きな木の傍の芝生に腰をおろした。点在する街灯のおかげでほどよい暗さが保たれている。木の下までたどり着くと、そこがなだらかな丘になっていて、下には池が見えることがわかった。

「日中だとこの時期は太陽が気持ちいいんですよ。昼間だったら、この公園の傍にうまいコーヒーとサンドイッチの店があって、そこでテイクアウトしてここで食べるんです。俺は今ニューヨークにいるぞって気分で。プチトリップですよね。気持ちだけ。今日は夜だからちょっと大人な感じにビールで」

「ニューヨーク行ったことあるの?」

「ないですよ。でも雰囲気ですよ、雰囲気。俺、『ホーム・アローン2』が好きなんですよ。最後の方で鳩おばさんにキジバトのクリスマスの飾りをプレゼントするシーン知ってます?」

「あったような」

「今度機会があったら観てください。クリスマスの話なんで、観るならクリスマスの時期がオススメです。その場面が子供の頃から好きで、この公園を見た時にセントラルパークみたいだって俺は思ったわけです。でっかいツリーはないけど、思うだけなら自由じゃないですか」

「そうね」

「で、ここで今夜は飲みましょう。風が気持ちよくてリフレッシュできますよ」

 すでに芝生の上に座っている木下君は地面を叩いて私に座ることを要求してくる。けれど、芝生に直接座って飲み食いするのは汚いではないか。風に乗って何が飛んでくるかもわからないのに。

「今汚いって思ってません?」

「少し」

「どんだけ潔癖なんですか」

「そんなのじゃない!」

 口から飛び出した強い言葉に驚いた。慌てて私は違うのと付け足し、カバンから昨日のハンカチを出して芝生に敷いた。その上に腰をおろし、ごめんなさいと謝る。

「潔癖じゃないの、私。それが、あの、聞いてもらおうと思った話なんだけど」

 木下君はなんでもなかったみたいにビールを飲んだ。私も、ビールのプルタブを開けて申し訳程度に乾杯をした。

「木下君はさ、踵に絆創膏貼ってデートに来る女ってどう思う」

「え?」

「だから、踵に絆創膏貼ってデートに来ちゃう女の子、どう思う?」

 木下君は何度も瞬きをして質問の真意を探り当てようとしていた。

「それ、朝も聞かれましたけど、ゆりさんがそうだったって話ですか?」

「違う。この前そういう子を見て、男の人はどんな感想を持つのかって気になってて」

 そうですねと言ってから、彼はビールの喉ごしを楽しんでいた。

「俺は……」

「うん」

「彼女なら可愛いなって思いますよ」

「そうだとしてさ、もし、その後いい雰囲気になった時に、女の子の足に絆創膏があっても萎えない?」

 木下君がぶっと吹き出した。

「ゆりさんもう酔っ払ってます? 下戸でしたっけ?」

「酔ってない。真剣に、聞いてるの」

「いやーどうだろうな。でも可愛いじゃないですか。できることなら普通の絆創膏よりキャラクター物だったら高得点ですかね」

「なんで。汚いとか思わない?」

「傷を守るためのものだからしょうがないじゃないですか。靴擦れだって可愛らしいと思いますよ」

 そうか、そういうものか。私は俯いてちびちびとビールを飲み、買ってきた柿の種の袋に手を伸ばした。手も拭いてないけど、この後どうせ木下君はなんにも気にしないで素手でこれを食べるんだから一緒だろうと思った。

「ゆりさんは怪我とか、汚いとかそういうものにトラウマがあるんですか?」

「トラウマ、ねえ」

「やけに気にするじゃないですか。汚れとか」

 プルタブをカリカリと弾きながら、話すべきかどうか私は迷っている。会社の同僚に打ち明けていい話なのだろうか。けれど……。

「ちょっと前まで付き合ってた人が潔癖症だったの」

「ほお」

 木下君はニヤリとして、体を前のめりにした。

「もともと私ズボラで、ちゃんとしてなかったんだけど、彼に気に入られて。もう三十も過ぎたから結婚するならこの人だなって思って、必死になって自分を変えて彼に合わせたの」

 彼に私とどうして付き合ったのかを聞いた時、

「打ち上げの席で、俺のことを馬鹿にしないでいてくれたから」

 と言われた。私は馬鹿にしていないわけじゃなかった。どうでもよかったんだ。だけどこの人はそういう私を好きになってくれたんだと思って、一生懸命彼の理想の私でいようとした。

 職場、収入、見た目も申し分ない。正直私は彼の肩書に釣られてついて行った。けれど、私がちゃんとすると喜んでくれる人がいることが嬉しくて、私は認められるたびに彼にはまっていった。

 それが私を変えていったんだ。彼の望むような清潔な女になり、彼を不快にしない環境を作る。そうやって受け入れられることに快感を覚えてしまった。

 キスをする前は歯を磨かなければならないってことも、付き合い始めの頃に美智子に話した時は信じられないと言われたけれど、清潔な状態で舌を絡ませ合う時、ミントの味がして妙に腰がゾクゾクした。この人は潔癖すぎて変態なんだと思って興奮した。

「でも、怪我したまま料理したら信じられないって振られちゃって」

「怪我って」

「包丁で少し指を切って。そこに絆創膏巻いて、そのまま餃子作ってさ。そしたら翌日吐き気が酷いって大騒ぎ。向こうのお母さんからも電話かかって来て、そのまま罵倒されてさよなら」

「なんですかそれ」

「本当に、なんだよそれって思う。でも思ったよりダメージが大きくて。もう綺麗にしてる必要なんてないのに、染み付いててダメなんだよね」

 綺麗であることは悪いことではない。けれど私はあまりにも囚われすぎている。扉は開け放たれたのに檻の中にい続ける馬鹿な動物みたい。

「ゆりさんの綺麗好きってそんなところからきてたんですね」

 木下君は唸りながら芝生に手足を投げ出した。

「あ、今日、月が綺麗ですよ」

 木下君が指差した方を見ると、木の葉っぱにくっつくように三日月が浮かんでいた。

「本当だ」

「俺思うんですけど。引きずるのはしょうがないと思いますよ。だって、その人のことを好きだった自分でここまで生きてきたんですから。その気持ちは噓じゃないわけですよね。だったら無理に忘れるんじゃなくて、その自分を好きでいてあげてくださいよ」

「好きだった自分」

「好きだった時間が長い分、その人が自分の体に染み付くんですよ。好きなもの、苦手なものもそうだけど。その積み重ねで俺たちは生きてるんだと思うんですよね」

 私は彼との時間をどうにかして洗い流そうとしていた。でも染み付いた生活の流れはなかなか変えられなくて、そんな自分に嫌気が差した。昨日の餃子も絆創膏も、それに心を揺さぶられてしまう自分が嫌だった。そんなこと忘れてしまえたら楽だと思った。だけどそうじゃないと、目の前の木下君は言う。

 積み重ねで私たちはできている。

「木下君は、嫌悪感を感じるものってあるの」

「えーなんですかね。まあ色々ですよ」

 はぐらかされたまま私たちは少しの間月を眺めていた。少しずつ動いて木の陰に隠れていってしまう。ずっとそこにあるように思っていても、よく見れば進んでいるんだ。夜が来て、朝が来たと思ったらまた夜が来る。

「ゆりさんも寝っ転がってみてくださいよ。芝生気持ちいいですよ」

 夜風で冷えた芝生を触ってみる。チクチクしてるのに、芯はなくて柔らかい。さっきまでの私だったら寝転がらないだろう。だけど今の私なら。

「たまにはいいかもね」

 思い切って体を預けてみた芝生は思った通り柔らかくて、少し湿っていた。息をすれば土の香りがすぐ傍にある。その匂いに一瞬体が強張りそうになるけれど、目を閉じてさっきまで見ていた月を思い浮かべた。満ちたり欠けたり、巡っていたり。規則正しいけど、変化をしていく様子に心がほぐれる。欠けている月の上を絆創膏を貼ったあの女の子が可愛らしく走っている気がした。

「話聞いてくれてありがとう」

「いえ。ちゃんとデスクの整頓の仕方教えてくれるんですもんね」

「厳しくてもいいのなら」

「望むところです」

 そう言うと目が合って、同僚と夜の公園で芝生に寝転がってるなんて、あまりにも非日常な状況に可笑しくなってお腹から声を出して笑った。木下君はなんで私が笑うのかわからずに、驚いている。

「なんで笑うんですか。俺変なこと言いました?」

「秘密」

 なんですかと不服そうに眉間にしわを寄せてこっちを見る姿も可笑しかった。

 気がすむまで笑って、息を整えていると、今度みんなで餃子パーティーしませんかと、木下君が言い出した。

「餃子パーティー?」

「誰かの家でもいいし、餃子食べに行くでもいいし。餃子で楽しい思い出作りましょうよ。知ってます? 部長って実はめちゃくちゃ料理上手いんですよ。家に業務用の冷蔵庫があって、週末はいつも料理してるんですよ」

「なんでそんなこと知ってるの?」

「部長の家に行ったことあるからですよ?」

 なんでもないことのように、凄いことを言ってのける人だ。私はこのどんな型にもはまることができる柔軟性が本当に羨ましく思えた。

「ね、そうしましょ。俺から部長に言いますよ。俺、餃子好きだし」

 任せるよと言って、私は目を閉じて空気を胸いっぱいに吸う。草の匂いと、土の匂い。久しぶりに出会えた。嫌な気持ちはない。

 好きだった時間が長いほど、好きだった体、時間と付き合っている。

 好きじゃなくなった時間が長くなったら、私はきっとこの体に新しい好きとか嫌いを重ねて生きていくんだ。